それぞれの道へ
グリュンヒルデの戦いから、一年余りの月日が流れていた。
用意された控え室で、着替えを済ませたリュウヤ・ラングが帰り支度をしていると、戸を叩いて訪いを告げる声がした。どうぞと声を掛けると、お疲れさまでしたとにこにこ顔した中年の男が、老撲をひとり連れて入ってきた。老撲は慎重に布袋を抱えている。
「どうぞ。こちらがお約束の金貨三十枚です」
機嫌良く中年の男は老僕に布袋を近くのテーブルに置かせると、二枚の書類とペンを取り出した。
「いや、今日はありがとうございました。ギルドの若い連中も、大変喜んでおりましたよ」
やわらかな物腰と言葉を使うのは、冒険者ギルドを取り仕切るペスタという男である。若い連中というのは、冒険者たちに剣技武術を教える教官たちのことを指している。
リュウヤはナギを介してラプラタという町にある冒険者ギルドに講師と招かれ、今、その稽古を終えたばかりだった。
「いやあ、お強い。その若さで“剣聖”と呼ばれるのも身に沁みるほどわかりました」
「俺は“剣聖”なんて恥ずかしいんですけど……」
恥ずかしいが、腕に覚えのある者なら誰もがリュウヤをそう呼ぶので、ペスタにやめてくれと言っても仕方ない。
「痛快でした。普段、勇ましいあいつらが借りてきた猫のようで」
二枚の書類に自分の名前をサインすると、リュウヤは苦笑いしてペンを返した。
集まった五十名の教官のうち、はじめに三名ほどの教官と手合わせしたが、苦もなく一蹴している。次いで魔法斬りまで披露し、本格的な講義をする頃には、教官たちは少年のように瞳を輝かせて熱心に聞き、リュウヤに言われた通りに剣を振るっていた。午前九時から午後四時まで続いた稽古は盛況に終わった。
ペスタも剣豪と知られているが、荒くれ者揃いと知られるギルドの面々を押さえつけるのには苦心しているらしい。その本音が最後の台詞から、ちらりと垣間見えた。
「それでは契約書と講習料、確かにお預かりしました」
リュウヤは一礼すると、丁重な手つきで重たげな布袋と書類一枚を筒にいれて、持ってきた魔法の鞄にしまいこんだ。
ナギは講習料として、ギルドに金貨三十枚を求めていた。慎ましく暮らせば一年ほど過ごせる金額で、リュウヤの月収の十倍である。それでも一般の収入に比べれば良い方で、“聖霊の神殿”なら生活に困りもしない。さすがに法外ではないかとリュウヤが不安に感じるほどだったが、ナギは厳しい表情をして言ったものだった。
「剣とは本来、人を傷つけるもの。彼らは剣を生業としている人たちです。誰それ構わず、安易に教えるものではありません。子どもたちに相手にするのではないんですから、リュウヤさんも心構えを示さないと」
単純に、教えることに喜んでいたリュウヤには返す言葉もない。大人しくナギに従ったのだった。
「……そういえば、クリューネ姫が外遊でこの町に来られてまして。今日で三日目なんですが知ってましたか」
「いや、初耳です」
ラプラタには昨日着いたばかりで、宿の者に使いを頼んで連絡しただけで、宿から出ずにそのまま寝てしまっていたのだ。
バルハムントはムルドゥバが開拓したケーナ地方の一部を譲り受け、そこで国の再建をはじめていた。ひとつにはムルドゥバも復興で開拓地にまで手が回らなかったという事情も幸いした。
竜族は本来自然を好み、魔王軍の眼から逃れる長い逃亡生活で貧乏暮らしにも慣れたのと、土地も比較的豊かなおかげで特に不満も起こらず再建に励んでいる。しかし、再建のためにはそれだけの資金や人、技術が必要で、クリューネは資金援助や技術支援を求めて各国や都市を廻っているという。
クリューネの名を聞いて、心がざわめきを起こしていたが、表情に出ないよう、しきりに顔を撫でて誤魔化したが、ペスタはリュウヤの変化に気がつかなかったようである。
クリューネとリュウヤの関係は周知の事実である。
バハムートの力を託されエリシュナと戦い世界を滅亡から救った話や、その力でクリューネを甦らせた話は伝説のように語られている。
といっても、知られているのはレジスタンスで苦楽を共にした仲程度であって、それ以上のことは誰も知らない。
「ご存じありませんか」
「向こうも忙しいみたいだから、会う機会無いんですよ。何やってるかは、たまにナギ様から耳にするくらいで」
「一昨日の晩餐会、町の代表の一人としてお会いしましたが、いやあ、噂に違わず気品溢れてお美しい方ですな」
「……」
「リュウヤさんの話が出て残念がっていましたよ。そこでどうです。今から挨拶しにいきませんか」
気品に溢れて美しいという近年のクリューネの評判を、しばしば耳にするがどうしてもあのクリューネと一致せず、どうしても違和感がある。その度にリュウヤは背中がむずかゆくなるのを感じていた。
しかし、どうしてこうもお節介なのか。
リュウヤは不審に思ったが、ぺスタの口ぶりから単純にグリュンヒルデでの戦場の模様を二人から聞きたがっているらしい。
そういえば講義の最中も、代表にも関わらずペスタは傍らで熱心に耳を傾け、他の面子に混じって何度も型や打ち込みを繰り返していた。
向上心や好奇心旺盛で、人物も好ましいものがあったが、この場合は煩わしいだけだった。
「残念ですけど、次の用事があって、急いで帰らないといけないんです。会ったらクリューネによろしく伝えてもらえませんか」
「そうですか……」
ペスタはがっかりした様子で肩を落としたが、すぐに明るい表情に戻って、暇が出来たら剣談をと誘ってきた。あまりの熱心さに閉口しながら、もう一度、挨拶を交わすと、逃れるようにギルドの建物を後にした。
急に眩しく差す陽の光に、リュウヤは顔をしかめて見上げていたが、やがて踵を返して歩き出した。向かう先は町の入り口に向かわず、反対側の前夜に泊まった宿へと向かっていた。
――ペスタさんには悪いけど……。
実際は、宿をもう一晩とってある。
当初から町見物して帰る予定だったのだが、稽古をはりきり過ぎたし、神経もあれこれ使ったためにいささか疲れもあったから少しでも身体を休めたかった。
ラプラタの町に訪れたのは初めてだが、通りに人が溢れ随分と活気がある。剣や槍を携えた一癖二癖もありげな冒険者らしき者の姿があちらこちらに見える。初めてムルドゥバに訪れた時の光景に、似ていると思った。
だが、賑やかな街の喧騒も、ペスタの話を思い出すと物思いにふけって、たちまちリュウヤの耳から遠ざかっていった。
――クリューネが来ているのか。
国の建国式を最後に一年近くは会っていない。ペスタが“姫”と敬称したように、バルハムントの代表ではあっても王という立場には就かず、正式にはまだ第十四王女の身分のままだった。
いつ直系の王族が見つかっても良いようにと配慮したもので、自身は“姫”にとどまってその日までは竜族を束ねる。
“女王”と呼ばれるのが嫌というのが本音らしいが、権力に固執しない点はクリューネらしいとリュウヤは思った。一方で政務にも精力的に取り組み、休む暇も無いとナギから聞いていた。
後ろ髪ひかれるものがあったが、会ったところで気持ちがざわめくだけで、どうにもなりそうもない。落ち着くまで、消えて無くなるまで会いに行くのはよした方が良いように思えた。
――だけど、いつまで?
一年経ても変わらないなら、二年だろうが三年だろうが変わらないような気がする。
暗い物思いにふけるリュウヤを、背後から感じる人の気配が遮断した。リュウヤはそっと柄に手を添えて鐺を少しあげたまま、一見、無造作に前を歩いていく。冒険者とは言っても、冒険者ギルドへの登録を求めて集まる大半は、食いつめた無法者ばかりで賑やかな雰囲気を見せる一方で、治安の悪化も問題視されていた。
そこでギルドは冒険者が住む区域を制限し、独自にむち打ち尻叩きからの強制労働や入れ墨――威嚇にならないようなひよこや可愛い花――を刑罰に加えることでここ十年は治まりをみせとはいるものの、やはり狼狽え者は存在する。
加えて、リュウヤはどちらかといえば童顔である。ペスタが言われなければギルド代表とわからないように、リュウヤもまた同様だった。
後ろからついてくる者も、リュウヤと知らずに狙っているのかもしれない。
――しかし、一人とは度胸があるな。
スリだと推測したがかなり熟練した動きだと驚き、感心していた。過去にも町でスリに狙われたが、熟練であればあるほど、リュウヤから危険を感じて避けるかすぐに去っていく。視線や気配を感じても、どこにいるか見つけることができなかったからだ。
人通りが少ない路地に入り宿に近づくと、不意に気配が消えた。諦めたらしいと安堵して宿に入って、宿主から部屋の鍵を受け取って二階に上がった。扉の前に近づくと、一度は弛めた緊張が、再び引き締まっていくのを覚えた。
室内に誰かいる。
物音はしていない。鯉口をゆるめて扉に近づき、中の気配を探っていた。すると、リュウヤが近づのを見計らったように内側から声がした。
「リュウヤ、ぼさっとしとらんで、さっさと入らんか」
突然の声と、その声の主にリュウヤは二度驚かされていた。
「クリューネ……!?」
驚いたまま扉を開けると、果たして開いた窓を背にクリューネが椅子に腰掛けている。ハンチング帽にパーカーと短パン。メキアで初めて会った時と同じ、少年のような服装だった。
「お主も私を見つけられなんだとすると、まだ腕は錆び付いておらんな」
「お前、どうしてこの部屋だとわかった」
「長い付き合いじゃろ。逃げやすく見張らしやすい部屋を好むのは覚えとる」
「……」
「まあ、後は当てずっぽうじゃがな」
クリューネはカラカラと快活に笑ってみせた。
「忙しいんだろ。向こうはいいのか」
「忙しいんから寝かせてくれと、駄々をこねたら六時間ばかり時間くれた。クリューネ姫は就寝中になっとる」
「しかし、よく俺を見つけたな」
「ペスタ代表からは、ある程度の予定を聞いてたからな。会いたくて堪らなくなってな。隙見て抜け出して来た」
「……」
「な、リュウヤも座れ」
クリューネは立ち上がってリュウヤの腕を取ると、大胆にも身体を寄せてきた。クリューネの体温を腕に感じながら、リュウヤ案内されるままに椅子に腰掛けた。
リュウヤを座らせると、クリューネは胸元から瓶を一本取り出して、テーブルの上にポンと置いてリュウヤの隣に座った。
「年代物らしくて、良いワインじゃぞ」
「どうしたんだよ、これ。まさか……」
「店から盗んどらんで、安心せえ。ちゃんと、宿泊先の屋敷からくすねてきたもんじゃ」
部屋に備え付けのグラスに、ワインを注ぎながらクリューネが言った。ご丁寧に肴としてクラッカーも持ってきたらしく、封を開けるとクラッカーを皿に並べてた。
いつの間にか生クリームまで添えてあって、がさつなように見えて、細やかな配慮をするクリューネらしさがでていた。
「……近々、日本に帰るそうだな」
グラスにワインを注ぎながら、クリューネが訊いてきた。
「ナギ様から聞いたのか」
「まあな。仕事でも手紙のやりとりは頻繁にあるでの。ルシフィからも耳にはしとる」
「正確には、来月の満月の晩だ。それに帰ると言っても一週間程度。ちょっとした帰省だよ」
「そうかあ、日本に行けるようになったか。アイーシャの力もそこまで成長したんだの」
グリュンヒルデ以降、アイーシャの力は成長し続け、ついには異世界への転移まで可能となっていた。
といっても無条件ではなく鎧衣紡を使用してという条件や、限界もあるようだった。アイーシャの話によれば、力の均衡を保つためには、異世界の精霊たちの力が必要となるらしい。
年一回月満ちる日に異世界と繋がる道を拓くことができ、その限界もせいぜい数週間程度で、過ぎれば向こうの精霊たちの力で強制的に還されるかもしれないというのがアイーシャの話だった。
「日本にはシシバルもリリシアと一緒に来るんだし、何とか来られないかな」
駄目で元々とリュウヤが思いきって訊ねたが、クリューネは無言で首を振るだけだった。
「今の仕事を放り出すわけにはいかんからな。なかなか片付かん」
「見送りだけでも無理か。ルシフィも来るんだ」
「すまんな」
「……そうか」
「それよりリュウヤ。ティアの素質が良いらしいの」
重くなった空気を振り払うように、クリューネが明るい声で話題を変えた。
「うん。熱心だし呑み込みが早い。今日手合わせしたギルドの教官の何人かよりは、既に上かもしれないな」
「この前、バルハムントに帰ってきたら、いやに背が伸びてびっくりした」
クリューネがクラッカーをかじりながら、楽しそうに言った。この前というのは半年ほど前のことを指す。
ティアマス・リンドブルムはバルハムントの建国式前後から、聖霊の神殿の寮生となって武術学問に励んでいる。
竜であるティアが剣を学ぶ必要は無いように思えたが、ティアは剣というものに魅力を感じているようで、熱心に教えを請いてくる。たまに顔を出すシシバル相手も勇敢に立ち向かい、しばしば渋面をつくらせている。身体も大きくなって、あと数年もしたらリュウヤの背丈を越すかもしれない。
――いや、人間的にはとっくに追い越されているかな。
政治経済、機械工学、土木建築等の専門家も招いた講義もあり、十六歳以上の学生が受ける。その中にティアも混ざり、それぞれ優秀な成績をおさめていた。どれもリュウヤにはさっぱりなものばかりだ。
「あと五年もしたら、課程も修了する。きっと頼りになるよ」
「五年か……、長いな」
「辛抱しろよ。ティアがいれば心強いぜ」
「リュウヤが傍にいてくれれば、もっと心強かったのにの」
震える声で、クリューネがいきなり言った。
グラスの中味も、半分以上も残ったままで、酔っているとは思えない。言葉を失うリュウヤの手に、クリューネは手を重ねてきた。
今にも泣き出しそうに顔をしかめ、リュウヤを見つめている。
「ティアは良い子だが、私の心を埋めてくれるわけじゃない。リュウヤ、お前じゃないとダメなんだ」
「……」
「お主、私を呼びに来た時“みんなが待っている”と言ったな」
「ああ」
「だが、今は独り。孤独じゃぞ。小国とはいえ、権力者はやはり孤独。嘘と欺瞞に付き合い、耐えていかなきゃならん。この孤独、わかるか」
「……」
「あの世界が……、リュウヤの心の中が懐かしいと思う日もある」
「それは……」
言葉を詰まらせるリュウヤに、クリューネは自分の席から離れると、リュウヤの身体に自分の身を投げ出してきた。甘えるようなクリューネの吐息がリュウヤの耳をくすぐった。
「無理矢理、引っ張り出してきたんじゃ。謝れ」
「悪かったよ。ごめん」
「そうじゃ、責任とれよ」
間近に迫るクリューネの瞳が潤み、切なく訴えてかけてくる。溢れ出る熱い感情そのままにリュウヤが唇を求めると、クリューネも激しく応えてきた。
長い間、二人は唇を重ねていたが、ゆっくりと離れるとクリューネは目の端に浮かべた涙を拭った。
「……すまんな。泣き言言って」
「良いんだ。もう良い」
リュウヤはクリューネの身体を強く抱き締めると、二人の唇は再び互いに激しく求めはじめた。
数刻後、クリューネはリュウヤの厚い胸の上で、肌を重ねていた。リュウヤは両腕で小柄で華奢な身体を抱えながら天井を見上げている。
町は静まり返り、犬の鳴き声がどこからか聞こえてくるだけだった。月あかりが窓に差し込み、テーブルと残されたワインを照らしていた。
クリューネはリュウヤのから離れると、ベッドから降りて床に落ちていた下着を拾って着けはじめた。
「帰るのか」
「そろそろ時間じゃからな」
「送るよ」
リュウヤは身を起こし、いそいそと自分の衣服を着け始めた。
「構わんさ。一人で帰れる」
背を向けたまま、衣服を着るクリューネの後ろ姿をリュウヤは無言で見つめていた。
「私なら、屋根づたいにパパッと帰れるからの」
着替えを済ますと、クリューネは窓枠に軽々と跳び移って夜に沈む町を眺めていた。
月光に照らされたクリューネの横顔が、リュウヤには美しく輝いてみえた。
「これで、思い残したものはない。こうして会うことは二度とないだろう。あっちゃならん」
「……」
「なあ、リュウヤ」
「私はバルハムントを、住みやすく良い国にするからな」
リュウヤに向ける瞳の奥から、迷いのない強い意志が伝わってきた。想いを遂げたことで、すべてをふっ切ったのだとリュウヤは感じていた。ほんの少し前まで、孤独感に苛まれていた弱々しいクリューネは、もうどこにもいない。
「じゃあな。達者で暮らせよ」
声を掛ける間もなく、クリューネは窓から飛ぶと、あっという間に小さな影となり、リュウヤが窓に寄った時には夜に紛れて見えなくなってしまっていた。
リュウヤは一人、呆然と窓の外を眺めていた。リュウヤの腕や耳にはクリューネの吸い付くような肌の感触や、激しく乱れた嬌声に熱い吐息が生々しく残っている。
想いを遂げたとクリューネは言ったが、新たな秘事はリュウヤに重くのし掛かり、心を苦しめていた。しかし一方で、今日という日を記憶に残せたことに、リュウヤはしあわせに感じているのも確かだった。
――それなら……。
しあわせと思うべきだ。
最後にクリューネが見せた眩しくて凛々しい表情を思い浮かべながら、リュウヤはクリューネが残したワインを手にとると、それを一息に飲み干した。
急速に広がる酔いが、煩悩する自分の心をしあわせの世界に誘ってくれれば良いと願った。




