その声をおぼえているか
ゼノキアがいないとはどういうことか。
エリシュナが何を言い出したのかわからず、アズライルは次の言葉が出てこなかった。ただ外に放り出された金魚のように口を喘がせている。
『それは、どういう……』
アズライルが問い掛けて、「エリシュナ様!」と遮る声があった。
「……どうして、ゼノキア様を殺したの」
声の主を探すと、咎めるような声で口を挟んできたのはアイーシャだった。子どもらしからぬ険しい表情で、瞳には哀しみの光を宿している。アイーシャが「殺した」と発したおかげで、アズライルはようやく思考が追いつくことができたが、新たにもたらされた話に愕然とするばかりだった。
頭をガツンと殴られたような感覚に似ていて、アズライルは思わず目眩を覚えていた。アズライルだけでなく、ルシフィもミスリードも居合わせた者は皆、一様に同じ衝撃を受けていた。
「ゼノキア様はエリシュナ様を愛していたのに」
『ほほほ、子どものくせに随分とマせた口の利き方をするわね』
『リュウヤの娘よ、いきなり何を言い出すのだ』
「ゼノキア様の魂が教えてくれた」
『ゼノキア様が……?』
何を言い出すかと鼻で一蹴しようとしたが、アイーシャの強い視線に気圧され、アズライルは口をつぐんでしまった。
「ゼノキア様は殺された。お父さんと戦った寂しい荒野で。何故、何故て思いながら。力を奪われて、わずかにしか生きられない命だったのに」
『母上……』
ルシフィは力を無くしたゼノキアを知っている。身動きもできる力もなく、エリシュナがゼノキアについて何も言わないのが気になっていたのだが、まさか自らの手で始末していたなどと、普段の蜜月だった関係からは想像もできないことだった。
『エリシュナ様、今の話は本当ですか』
驚愕に加え怒りの籠ったアズライルの問いに、エリシュナの返事は無かった。ただ、冷笑だけでアズライルを見下ろしている。アズライルには獣のような鋭い勘がある。
その勘が事実だと告げると、頭のなかが急激に熱くなっていた。
毒婦めと、アズライルは激情そのままに怒声を放った。先に“天蓋式萌花爛々(コスモス・グランドカバー)”を放った時は、まさか王都ゼノキアまで攻撃したとは想像は及ばず、エリシュナの目的が理解ができずに戸惑うばかりでいたが、ゼノキアの死を聞いた今は違う。
その美貌に比例するかのような野心と力の大きさから、傾国の美女とは常々言われてきたことではあった。その噂もグリュンヒルデの戦いの先陣を買って出たことで、ようやく払拭できたばかりだった。そんな女に心を許した自分に後悔の念がアズライルを苛んでいる。
『野心のために自らの顔を焼いてまで、我らを欺いたということか……!』
『黙れ!』
アズライルの怒声を、雷鳴にも似たエリシュナの一喝が掻き消した。
『うぬぼれるなよ、アズライル!下郎に何がわかるか。控えよ!』
エリシュナの大喝は荘厳に響き雷撃のような威厳があった。王者だけが持つ貫禄が、ゼノキアに叱られていた若き頃を思い出させ、アズライルは思わず身を震わせていた。
『ゼノキア様は醜く老い、触れれば折れる枯れ枝のよう無惨な姿となられた。そのほんの数分前まで強く美しかったあのお方が。わかる?妾が感じた絶望や苦しみや悲しみ。どうすることもできない怒りだから壊してあげたのよ。全部綺麗に跡形もなく』
『……』
『この世界も同じよ。嫌なことぜーんぶ、綺麗さっぱりに壊すの。だって、妾のゼノキア様はもういないんだもの』
狂っている。
ルシフィは顔を青ざめ、ミスリードやアズライルはそれぞれ戦慄していた。
エリシュナの言動から違和感をおぼえながらも、まさかと否定していたものがあっさり崩されたように思えた。話を続けていくにつれ、あらぬ方向へ乱れていく視線や言動から、異常さははっきり感じていた。似たような症状を持った同僚や部下を目にしている。だが、ゼノキアへ手を掛けるなど想像の範囲を超えている。強大な力を手にしたエリシュナの姿は、今のアズライルとミスリードの目には、突如、正体を現した化物のように映っていた。
「……哀れな奴だな」
重い沈黙を破ったのはリュウヤだった。
「これでもう、お前に手を差し伸べる奴は誰もいない。たった一人で、この世界で何を創造するつもりだ」
『そんなの、ぜーんぶ壊した後に考えればいいじゃない。それに、今はリュウヤちゃんがいるから』
エリシュナは妖艶な微笑を浮かべ、甘えるような声をした。
「俺?」
『そう。妾に手が届くのは、リュウヤちゃんだけ。相手ができるのリュウヤちゃんだけよ』
「……」
『でも足りないわ。ねえ、もっと妾を殴ってよ。痛めつけてよ。炎で焼いて。雷で手足をもいで。もっと妾を強くしなさい。そしたら、リュウヤちゃんを殺してあげるからね』
感情の抑えが効かなくなっているのか、はじめは秀麗だったエリシュナの微笑が崩壊し、邪気に満ちた破顔に変化していく。戦慄を覚えるような哄笑が、グリュンヒルデの荒野を揺るがした。
「ホントに哀れな奴だな」
リュウヤは身構えながら再び言った。心の底からの言葉だった。
エリシュナの発狂はゼノキアに手を掛けたところから始まっているが、悪化したのはそれだけではないとリュウヤは思った。
先の間接技を逃れた時にみせたように、強靭の肉体でも身体の痛みには正直に反応する。熱波に焼かれ、命を失う打撃を受けていた。痛みを感じないはずがない。再生するまで間、地獄のような苦しみがエリシュナを襲っているはずだった。
それでも、果して正気でいられるだろうか。
破壊衝動だけで生きる狂った獣。
『ここに戻って来なさい。妾のキーロック』
エリシュナの声に反応して地上に落下していたキーロックが生き物のように、その手元へと戻ってきた。
「随分と便利だな」
“弥勒”がどこにあるか見当もつかず、多少羨ましい思いが言葉となってあらわれた。
『妾の魔力を充分、染み込ませてあったからね。リュウヤちゃんのおかげで、こんなことも出来るようになったのよ』
ブランド品を見せびらかすように、得意気にエリシュナはキーロックを大きく一振りすると、突然に猛撃してきた。正気を失ったせいなのか、本能のままに飛び交う動きは、更に冴えを増している。かわしながらも、エリシュナが徐々にだが自分の領域へと入りつつあることを感じていた。
――どうする。
不死の怪物という言葉が脳裏を過り、始末に負えなかったベルゼバブやアーク・デーモンを思い出すと、心に焦りを生じ始めていた。
――バカモン、落ち着け。
不意にクリューネの檄がリュウヤの内側で響いた。よく見ろ、気がつかないのかと。
――キーロックは何故戻ってきた。お主は何故ルナシウスの声を聞いた。
ルナシウス?
長い間愛用していたクリスタルソードの名を告げられ、リュウヤは記憶の糸を手繰ると、まるでクリューネが探しだしてくれたかのように、その場面がありありと脳裏に浮かんでくる。ルナシウスらしき者の声を聞いたは、エリシュナと初めて刃を交えた時だった。クリューネの“臥神翔鍛”の力を借りて撃ち放たんとした時、ルナシウスとおぼしき声を耳にした気がする。
――気を静めろ。耳を澄ませ。精神を髪よりも細く、針よりも鋭く研ぎ澄まし、気をたどり弥勒に呼び掛けろ。
クリューネの声が、ざわつき始めたリュウヤの心に落ち着きを取り戻していく。風が身体の中を吹き抜けていく感覚があった。
クリューネはルナシウスの話を知らないはずだった。当時はリュウヤが聞こえたものは幻聴空耳と思い、クリューネや誰にも話したことがない。
もしかしたら、自分の思惟がクリューネの言葉となって、頭の中で変換されているに過ぎないのかもしれなかったが、どちらでも良いように思えた。
クリューネがまた助けてくれた。
それがリュウヤにとって、何よりも大切なことだった。
『また、そんな顔をする……』
この女には誰もいない。
エリシュナが泣きそうな表情になって、顔を醜くくしゃくしゃにさせている。
自暴自棄になって、がらくたとなった哀れな女エリシュナ。
リュウヤには自分の顔がどうなっているかわからなかったが、憐れみに満ちた目でエリシュナを見ているのだろうことは、ぼんやりと想像できる。
『だから、そんな顔をするなあ!!』
泣き叫び、火を噴くようにエリシュナが殺到してきた。狂った猛気は、あっという間にリュウヤの目の前に迫っていた。
パワーは肉薄している。
まともに受ければ致命傷になるほどに、エリシュナの力は増していた。
しかし、リュウヤは落ち着いてキーロックの連続攻撃をかわしていた。
――弥勒、どこだ。
拡大された思念はグリュンヒルデ全土に広がり、眼下のアイーシャだけでなく、固唾を飲んで見守る兵士一人ひとりの顔まで浮かんでくるようだった。
エリシュナのキーロックがそうであるように、リュウヤの弥勒にも気が染み付いているはず。
『キャハハハハ!リュウヤちゃん、また力が大きくなっていくわよ!』
涙の痕を残して、哄笑しながら繰り出すエリシュナの猛撃をかわしながら、リュウヤはその気を探る。そして手繰る。
――ココダ。
小さな声がリュウヤの神経が感知した。瞬間、キーロックが正面から襲いかかり、両腕でブロックしたものの、衝撃で弾けたようにリュウヤの身体が飛んだ。そのまま身を翻し、エリシュナから離脱していく。
「強い……、このパワーは!」
『あはははは、きたわよ!ついにキタコレ!!』
グンとエリシュナの勢いが増した。影がはしるようにエリシュナをまとう漆黒の炎が伸び上がる。
やがて、黒い炎はリュウヤの隣に並んでいく。
『リュウヤちゃん、これってあなたに追いついたんじゃなくて?』
「んなろ……!」
目の前に強烈な閃光が瞬き、咄嗟に“臥神翔鍛”で防いだが、凄まじい爆発と衝撃波はリュウヤを地上に向かってはたき落とした。
落下する先には、魔王軍のものらしき魔空艦の残骸がある。
『来るぞ!』
『逃げろ!逃げろ!』
そこには十人ばかりの魔王軍の兵士が残っていて、二人が迫るのに気がつくと、負傷した仲間を連れて慌てて残骸の陰に飛び込んだ。
逃げ去った直後にリュウヤは地面に叩きつけられて、土ぼこりが空高く舞い上がった。リュウヤの姿を隠すほどだったが、エリシュナは構わず猛進する。エリシュナの“魔眼”がリュウヤの居場所を捉えていた。
ダメージを受けたらしく、リュウヤは背を向けて踞ったままでいる。
『とどめ!』
土ぼこりを割って、エリシュナが黒い炎刃燃え盛るキーロックを袈裟斬りに振り下ろそうとした。刹那、何かがキラリと光るのを感知し、仰け反ると同時に閃光がエリシュナの眼前を駆け抜けていった。
鋭く舌打ちする音がした。
「外したか」
土ぼこり舞う中、リュウヤの手には妖しく光を帯びる一振りの剣がある。
日本刀と呼ばれる細身で片刃の剣。魔王軍を畏怖させたリュウヤ・ラングの象徴とも呼べる武器が、今その手にある。
リュウヤは手のうちにあるその刀に語り掛けるように言った。
「やっと会えたな〝弥勒〟。やっぱり徒手や他の剣よりも、お前が一番しっくりするぜ」
エリシュナが距離をとったのを見て構えを解くと、リュウヤは軽く刀を一振りした。
ヒュンと風を斬る音が、リュウヤの鼓膜を心地よく刺激した。




