千里、新たな一歩。▲2014/04/08 07:43
「なあ、本当に行かなくていいのか?」
「だからいいって言ってるでしょ。それにお父さん、仕事はどうするの」
「そんなの休んで――」
「……みっともない」
ぼそりと割り込んで放たれた母の一言に、父は未だ不服そうながらも押し黙る。
千里は出発までの僅かな時間を、父をあしらいつつテレビのニュースを見ながら過ごしていた。この日のために買ったスーツは既に着用しており、後は時間を見計らって家を出るだけだ。
今日は入学式。それも千里が夢にまで見た志望校の、だ。受験勉強は遂に実を結び、千里は無事にこの日を迎えることができた。
「まあ、気持ちだけ受け取っとくよ」
どうしても娘の晴れ姿を見たいとせがむ父を、千里はやんわり宥める。
そしてテレビに向き直る。女性キャスターは視聴者の興味を惹きつけようと抑揚のついた声で言った。
『次は、この人に会いたい! のコーナー。今日のゲストは先日将棋界を揺るがせた「遅咲きの新星」、剣持覚棋王です!』
名前が呼ばれると同時に、父は生気を取り戻して瞬時にテレビを振り向いた。画面に登場した男を父は食い入るように見つめている。あまりの変貌ぶりに千里は驚いてしまう。
「ど、どうしたの、急に」
「話してなかったか? お父さんはこの人のファンなんだって」
そう言えば少し前に興奮しながら父が新聞を突きつけてきたことがあった、と思い出す。贔屓の棋士が将棋のタイトルを奪取したとかいう話で。千里はプロ棋士個人にはさほど興味があるわけではないので軽く流したものの、父が言うのだから凄いことなのかな、と漠然と思っていた。
インタビューでは三月末に行われた棋王戦の感想や、自身の二つ名について丁寧に答えていた。曰く、奨励会の年齢制限の特例で勝ち得た最後のチャンスに破竹の連勝を重ねてプロとなり、その後も勢いを衰えさせることなくタイトルホルダーにまで上り詰めたことが由来らしい。天才は幼少時から天才であるという将棋界の常識を打ち破る存在として今話題の棋士なのだという。
『――最後に何か一言、よろしいですか?』
棋王は少し考えてからマイクに向かって、
『私がプロに昇段する前の話ですが。次で負けたら夢が断たれるというときにこそ諦めずに努力すること、強くなる自分を信じて疑わないこと。そんな自分がいたからこそ、今私はこうしていられるのだと感じます。もちろんこれからも精進していきますので、応援していただけたら、と思います』
こう言ってキャスターと会釈を交わしたところで、CMに切り替わった。今のインタビューを聞いて千里は、受験勉強に必死になっていた頃を思い出す。
「今の人の言ってたこと、わたし分かる気がする」
「どういうことだ?」
「センター試験の前に思ってたことにそっくりだから。わたしは絶対合格できる、って信じながら勉強してたし」
「求めよ、さらば与えられん、とも言うからな。お前の強い信念が合格を運んできたのだろう。……改めて合格おめでとう、千里」
父の何度目かの祝言に、千里は素直にうん、と頷く。そして時計を見やると出発予定時刻を五分ほど回ってしまっていた。
再開した番組のクイズコーナーでは『円周率を求めるなどの功績を上げた江戸時代の数学者と言えば?』などと出題されていたが考える時間も勿体無くて、千里は玄関へと走る。
「それじゃ行ってきます! お父さん、お母さん!」
「気をつけて行ってらっしゃい」
母はごく普通に見送ってくれるのだが、父はしかし慌てて、
「千里、やっぱりお父さんも」
「いい加減に子離れしなさいってば」
「いいや止めてくれるな真希! 俺は――」
このままでは這ってでも追ってきそうな父に苦笑いしながら、千里は扉を後ろ手に閉めて声を絶った。
大学までは電車を乗り継いで一時間半ほど掛かる。講堂で開かれる式には余裕を持って間に合うはずだが、千里は早く校門を潜りたくてうずうずしていた。通勤ラッシュの電車に揺られている間も頭の中は大学のことばかりで、不必要に駅の数を数えてしまう。
何か別のことを考えて時間を過ごさないと、胸の高鳴りを抑えきれそうにもなかった。そうして浮かんだのは、さっき見たインタビューの棋士のことだった。
考え方が自分と似ているからなのだろうか、どうしても不思議な縁を感じてしまう。それに父が――熱しにくく冷めにくい性格のあの父が――誰かのファンになったなどという珍しい話も聞いた。
また、剣持覚の苦しい境遇も共感でき、自ずと応援したくなるようなものだった。背水の陣で挑んだ勝負で手にしたプロの切符。遅咲きの新星、努力の人。たとえ凡人でも不断の努力によって天才さえも打ち負かせることの証明。自分を凡人の一人と評価している千里が大学の椅子を勝ち取れたのは、これも執念という他ない。
家に帰ったら彼について調べてみよう、と思いついたところでやっと目的の駅に停車した。人混みを掻き分け掻き分け、改札を出て大学への道なりの道を早足で歩いていく。
同年代の男性や女性が周囲に数多く見受けられる。彼らもスーツを身にまとい同じ方向へ行くのだ、千里と目的地は同じに違いない。この人波についていけば多分大丈夫だ。たまに親を連れた者がいると微笑ましく感じる自分に気付き、どうして自分がそうなりそうになると拒んでしまうのだろうかと疑問を抱いたりもした。
下車した駅が都会の主要な駅を繋ぐ重要な役割をしているため、千里たち新大学生の流れに逆らう老若男女も大勢いる。その中にはやはり春の時期だからであろう、皺一つないスーツの新社会人や、ピカピカのランドセルを誇らしげに背負う新小学一年生も目に付いた。
「あれ、うちの……。あっちもだ」
と呟いた理由は、今しがた間を置いてすれ違った二人の女子高校生の真新しい制服が、つい最近まで千里が着ていたものと同じだったから。千里の母校である公立高校はどちらかと言うと女子の比率や人気が高い。ここから電車でなら一時間以内で登校できるのもあって、彼女らはその高校を選んだと思われる。
二人のうち先行していた方は一人きりで、後の方は両親と共に歩いていた。しかし二人に共通していたのは、胸のワクワクを隠しきれずに頬を緩めていたことだった。大丈夫、高校は楽しいところだよ、と千里は先輩風を吹かせて心の中で語りかけた。
そうこうしているうちに大学の正門が見えてきた。数多くの新入生が吸い込まれていくそこへの流れに、千里も混じっていく。
入学式の幕が掛かった、質素と言ってしまえばそれまでの門。だが千里や他の新入生にとっては様々な思いを孕んだ門。オープンキャンパスの受講のときには期待や憧れを、受験のときは緊張と自信を、合格発表のときは不安と畏れを抱きながらくぐった。今回はどれとも違う。
千里は自分自身に感謝と祝福をし、そして大学の校舎にこれからよろしくと挨拶をし、校門を通り抜けた。たった一歩で、肌に触れる空気が一変したように感じられる。お祭りのように賑やかなわけでもないのに、心が浮き足立つ。
「ご入学、おめでとうございます!」という先輩たちからの歓迎を左右から貰いつつ前の人についてのろのろと歩いて行くと、大講堂の前では何列かに分かれて式次第を配布していた。千里は一番右のカウンターには何故か誰も並んでいないことを発見し、早く貰ってしまおうとそこへ向かう。
途中で、ここが人気がない理由が分かって少々げんなりした。係の男子学生二人組はずっとお喋りを続けており、自分たちがすべき仕事を忘れているようなのだ。だから誰も並ばず、余計に話し込むという悪循環が出来上がっている。隣の列でにこやかに応対している女子学生は、ちらりちらりと男子に目をやるときにだけ鋭利な刺を込める。その恨みがましい視線にも、二人は笑ってばかりで全く気付かない。
だがここまで来てしまったからには戻るわけにもいかず、彼らも曲りなりにも配布係なのだから言えば対応してくれるだろうと思い、ため息を吐いて近づいていく。比例して二人の会話が徐々に千里にもはっきり聞こえるようになる。一体何を話しているのやら。
「……この雰囲気が懐かしいぜ。入学式がもう丸三年前か」
「だな。でもよ、確かにおれらの入学は同時だけど、あとちょっとでおれのが一年早く卒業できそうだったんだけどなぁ」
「何で残念そうにしてんだっつの! いいか? こう見えてもやるときゃやる男なんだぜ、オレは」
「――あのっ」
目の前に立っても無視されたことに耐えかねて、千里は割って入った。二人は声に気付いて慌てふためき、横の長蛇の列を見てやべっ、と漏らした。
「ああ、すんません、お待たせしまして」
胸を張っていた方の男が言った何となくちぐはぐな敬語に千里は少し反感を覚えた。そして男は山のように積んであった式次第を一枚取り、両手で差し出しながら笑顔を作り言う。
「入学、おめでとう」
どきり、と。千里の心は歓喜に震えて大きく鼓動した。しかしその理由を脳は知らないので、突然のことに戸惑うばかり。何故敬語ですらない言葉に、何故作り物の笑顔に、こうまで心が揺れているのだろう。
「……ありがとう」
小さく礼をして受け取る千里。踵を返して式場の入口を目指す途中でもう一度背後を見やるも、既に人に紛れてその姿は見えなかった。千里が先陣を切ったお蔭で男子学生のカウンターは稼働を再開し、新入生の流れが少しだけ早くなったようだった。
「今の、何だったんだろう」
誰にともなく尋ねてみる。当然、答えなど返ってくるはずもない。千里はこの決して解けない疑問を頭の隅に追いやることにして、足を前に進める。
目の前には何千人をも収容できそうな巨大な講堂が待ち構えている。ここで入学式は行われ、自分の大学生活が始まるのだ。それがどんなものになるか、今の千里には想像もつかない。願わくば、過去の自分に『わたしをここに来させてくれてありがとう』と言えるような未来になりますように。しかし千里は、直後に考え直した。
願いを叶えるのは誰でもなくわたし自身。だから『なりますように』じゃなくて『してみせる』。どれだけ難しくても辛くても苦しくても遠くても、諦めずに進み続けてみせるんだ。その道の先には、願いを叶えた自分が待っているから。
わたしの未来はここから始まる。
千里は講堂の中へ――長い道のりの一歩目を、踏み出した。
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