先生、見送る者の。■2014/01/19 16:28
「還っちまった、か」
智之がほとんど沈みかかった夕日に向かって立ち尽くしているのを、先生は黙って見ていた。気持ちの整理をしているところに呼びかけてしまうのはまずい、と経験で知っている。
島中が夜の闇に包まれきった頃、智之はよし、と意気込んだ。
「先生、オレも還るわ」
彼の顔はよく見えない。もしかするとその為に、この時間まで引き伸ばしたのかもしれない。
「……そうか」
「一応聞くけど、先生一人で寂しくないか? 次の人が来るまでだったら話し相手になろうか? なんて」
「馬鹿を言え」何を言い出すかと思ったら。「私のことなど気にする余裕があるなら、還った後の自分の心配でもしていろ」
ただ、その同情は先生にとって有難かった。狭間で先生は四百年弱の間、常に迎える者であり見送る者であった。どれだけ気の置けない仲になろうともやがては皆還りゆく。必然、先生は結局は孤独に時をさすらう旅人となる。だが文字通りの一人ぼっちになってしまうのはなかなかに堪えるものがある。先程は一人の方が気楽だと口先では言ったものの、やはりいざそうなると人恋しさが疼くのだ。
誰かが共にいてくれれば気も安らぐ。しかしそんなことは、先生自身が許さないのだった。
「そうですか、っと。それじゃお先に」
再び、天より光の柱が降りてきて智之を包む。先生にとっては飽きるほど見た光景である。
『――貴方は、現実の世界へと還ることを望みますか?』
「おう」
『では還しましょう。あるべき世界へ――』
光の中に朧げに形取られる智之は、何の不安も感じさせない彼特有の笑顔をしていた。
「やるだけやってみるわ、オレ。それでダメだったらオレ自身のせいだし」
「確かにそうだな」
「でも、もし上手くいったら、千里に胸を張って会える。だからオレは諦めないで最後まで足掻くって決めた。間違ってないよな?」
先生は、千里と智之の狭間に来た目的を詳しくは知らない。彰太から以前聞いた話では、未来の世は若者の教育制度が整備されているらしいので、彼らもその類の悩みを持っているのだろうと先生は推測していた。そして先程の会話から大学とは位の高い学舎のことで、そこに入るには試験に合格せねばならず、故に千里はその試験に向けての勉強をしているところと見た。また、歳や関係性などを鑑みるに、智之は既に大学の学徒であり、しかし何らかの関門が目の前に待ち受けているところであろうとも。
この推察が正しいのかは先生には分からない。それでも、これだけは言える。
「ああ。お主の信じた道を行け」
自分なりの答えを導き出した者に、敬意を込めて贈る言葉。人生には誰かに定められた正解や不正解は無い。正誤を決めるのは各々自身だ。どんなことであれ後悔の無い選択であるならば、それはその人間にとっては常に正しい道なのだ。
「ありがとう――」
余韻は白い光が完全に消え去るまで、先生の耳に響いていた。
こうして狭間に残されたのは先生一人となった。何もかもが静寂。自分の他に人の気配すらも感じられない、ここは孤独な空間だ。
二十年、七年、そして二週間。過ごした時間はまちまちだが、未来の世界の友人たちは確かにここにいた。そしてそれぞれ自分の道を進むために還っていった彼らに幸あれ、と先生は祈る。
それから、ようやっと算術の研究に専心できると意気込んで行灯に火を付けた先生だが、ふと手元にある未来の算法書が無題であることに気が付く。千里に貰った原本は今は無く、表題を確認するのも忘れて中身にむしゃぶりついてばかりいた自分を恥ずかしく思った。無題ではどうにも締りが悪い、と先生は暫し考え、やがてひらめいた文字を記す。
一人の人間が生きるには長すぎる時間を以てしても届かない遥か遠くの高みにある、という悔しさと、そして二度と出会うことのない友人の名を、先生は刻みつける。ちなみに読みは本人とは違って音読みにした。
「……千里算法」
満足げに頷いて、表紙を捲った。その瞬間に、閃光が夜の帳を裂く。先生はそれが意味することをすぐに悟り、嘆息した。
「やれやれ。いつになったら私は研究に没頭できるのやら」
それが果たされるまでは還るに還れない。だが構わない。何せ狭間にはいくらでも時間があるのだから。
先生はゆっくりと腰を上げ、柱の立った方角へと歩いて行った。
いつも読んでくださってありがとうございます。
次回更新が最終回となりますので、最後までどうぞよろしくお願いします。




