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第6話・少し離れた所での話

 なかなか思うようにはいかないものですね。




 風が無いが故に波が無く、波が無いが故に揺れの少ない舟の中。


 傍らに長銃を置き、じっと雨の向こうへ目を凝らす。


 腐臭混じりの緑と水の臭いを退けるように、香炉から蟲除けの煙の仄かな香りが雨に打ち消されながらも煙と共に漂っている。


 未だ上がらず降り続く雨。拡げられた幕を延々と叩く音。


 戦が終わり争う者のいなくなった湿地に浮かぶ舟の中で、息をひそめるキニスに聞こえる音はそれだけのはずだった。



「ん……?」



 しかし、異変を感じ、頭を幕から覘かせ耳を澄ませる。


 そして間違いなく聞こえた、雨音を打ち消すような破裂音。聞き覚えのあるそれは、火薬が爆ぜた音。誰かが戦っているのだ。



「……っ! ちぃっ!!」



 舟の後部へ移り、櫂では無く発導機に飛びつく。一度大きくハンドルを回すと、直ぐにドッドッドッドッ……という稼働音が鳴り始めた。それと同時に舟は水面を滑るように加速していく。



「……間に合うか?」



 キニスの耳には――遠く、確かに人の怒号が聞こえた。




 ◆




「ハーレイ! この距離で外す奴があるか!」


「騎士長、俺は外してません! 生命力が強すぎて一発じゃ、ぐきぁっ……!?」


「ハーレイ!? …………くそっ!!」



 騎士長と呼ばれた女性、エリス・カルボーは、振り返った先でまた一人部下の騎士が泥水の中へ飲み込まれていくのを見た。

いかなる時も冷静でいなければならない立場の彼女だが、流石に声を荒げ罵声を漏らす。雨で濁り黒かったはずの水は、今や一帯が赤く染まりつつあった。


 誤算。いまこの状況に陥った理由を説明するのなら、この一言で足るのだろう。


 エリスは部下と共に“主”を守りながら三艘の小舟に分乗し、亡命を取り仕切るという商会の者に指定した場所へ向かっていた。

 道中、あらかじめ教えられたように露出を減らしたり、香を焚くなどして蟲の対策も充分に取っていた。何の問題も無く予定通り小舟は進んでいた。

しかし、あと少し予定外の事が起きた。進路を塞ぐ苔騙し。数は三匹。エリスは力ずくで排除することを選択した。そして、それが間違いだった。



「はぁあああっ!!」



 水しぶきを上げながらエリスの首に飛びついてきた苔騙しを裂帛の気合いを持って斬り捨てる。

 しかし、まだ多くの影が水面の下を泳いでいる。その証拠に、今もまた波を引く“何か”が舟の周りをくるりくるりと大きな円を描きつつ泳いでいる。


 切り捨てた苔騙しの血が水に溶け、その臭いが次を呼び、数によって騎士が一人また一人と討ち取られていく。小舟も一艘が完全に沈められた。


 エリスは、決断を迫られていた。



 「……カペル、オードリー、アンスラ! お前達は姫を守りながら舟を操れ! クラーマ、キッツは血路を開け! 私は……ここで引きつける!」



 そう言って、それまで舟の上にいたエリスは水の中へと飛び込んだ。一気に膝の位置まで水に浸かり、まとわりつく泥が動きをぐっと阻害する。


 舟の上で気を失った主を守っている部下の一人が意識をエリスへと向ける。



「騎士長、しかしそれでは!」


「かまわん! プルウィラ様を第一に行動しろ! なに、この程度ではまだ死ねないからな。必ず追っていく」


「騎士長!」


「いいから行けっ!!」


「……ご武運を!!」



 今もまた一匹の苔騙しを斬り裂いたエリスの横を抜け、二艘の小舟が縦に連なり全速力で血の泥濘を抜けていく。囮として直接水に入ったエリスの方に相当数向かったせいか、ほどなく二艘は薄くなった囲みを抜けた。


 それを見届けた後、エリスは己の姿をふと立ち返る。

 ささやかな自慢の黒髪も、近衛の証の白い鎧も、全身赤混じりの泥で汚れている。汚れていないのは、変わらず鈍い光をたたえる刃のみ。


 酷い姿だが、満足だ。何せ、何より彼女の主は逃せたのだから。




 ――エリスは王都の中位貴族の長女として生まれた。上に兄が三人いたが、皆南部辺境で帰らぬ人となったため、彼女にまで家督のお鉢が回ってきた。当時六歳の頃である。


 そこからエリス少女の人生は変転する。突然始まった家督を継ぐのに必要な騎士しての教育。士官学校に入り、ただ剣へと打ち込む日々。

 家に帰れば父からそれとなくお見合いを打診され、母からは士官学校でいい人を見つけてこいとせっつかれる。

 真面目な性根のエリスは、本気で騎士を目指した。


 しかし、まともな人材が戦場に取られた士官学校での生活は酷かった。

 座学では執拗な嫌がらせという妨害を受けた。在らぬ疑いもかけられた。

 ならばせめて実習の剣では勝ろうとしても女の身では膂力が足りず、膂力を技術で補おうにも努力だけでは経験が足りなかった。


 座学は妨害のせいで結果が悪くなる。剣でも誰かに勝つことは滅多にない。当然卒業直前でも最低クラスの評価しかつかない。

 貴族としての義務である騎士団に所属することすら教官からは危ぶまれ、いよいよ卒業と同時に顔も知らぬ婿を取るしかない。そういう状況にまで、追い詰められた。


 どうにもならなくなって、王都を去る前に、最後にもう一度だけ花を見に行こうと思った。辛いことがあったときにいつも一人で見に行った、王立図書館の奥にある植物園。


 そこで、エリスは一人の老人と少女に出会った。後に彼女が仕えるサリクス王国第六王女プルウィアと、当時まだ現役だった先代のプルウィア付きの騎士長に。


 始まりはほんの些細な会話だった。そこから常日頃の理不尽な出来事へと繋がり、長くこらえた物を最後だからとすべて吐きだした。

 貴人に聞かせて良い物ではないが、この時はどちらも目立たない服装をしていたし、もう誰でも良いという思いもあったのかもしれない。老人に扮した先代騎士長も話を止めることはしなかった。


 胸の内に溜まっていた物を全て吐露した後、寮に帰り荷造りしようと長椅子から立ち上がった時、彼女がエリスの袖を掴んでいた。そして、エリスの運命を変える一言を口にする。



『でしたら……その、私を守ってくださいませんか?』



 そうして、彼女は士官学校を卒業した後の居場所を手に入れた。


 やがて先代騎士長の下で経験を積み、膂力の不利を技術で補えるようになる頃には、彼女は先代の後を継ぎプルウィア付きの近衛の騎士長になっていた。


 学生時代に何より欲しかった自己としての確たる評価も得た。


 全てはあの時、自分を選んでくれたプルウィアのおかげだった。




 だから彼女が近衛として仕える姫、第六王女プルウィアがある事情から命を狙われた時、エリスと、彼女と似たような境遇の部下は迷わずプルウィアを守り、王都から逃れることを決めた。


 逃亡先に選んだのは、エリスの大叔父が領主を務める南部辺境の領邦の一つ。


 良い街だった。


 王都のような華やかさは無くとも、長く街と城を守り続けた蔦の這う素組の石垣。あいたに隙間に翠鵯が巣を作っていた。

 便利さの代わりに人の温かさがあった。彼女の主が何より求めた、牧歌的で穏やかな日常があった。


 けれど、どこから漏れたのか。


 王都からの刺客は、たった二ヶ月で南部辺境の一領邦まで辿り着いた。裏切り者がいたのか、刺客達の組織が優秀だったのか、それは今もわからない。


 なんにせよ、結果を見れば夜陰に乗じて襲撃を仕掛けてきた一団を殲滅するまでに二十人いた部下の内六人が討たれた。

 近衛と呼べるだけの実力を備える騎士の補充は簡単では無い。ましてプルウィラを連れ王都を離れた今のエリス達は逃亡者。騎士の補充など不可能だった。


 だから、エリスはすぐに決断した。もう一度逃げようと。


 残りの騎士は、エリスを入れて十五人。次を凌げるかどうかはわからない。凌げても、いずれはきっと全滅する。そして、プルウィアは葬られる。それだけはエリスには許容できない。だから、騎士であるよりも、逃げることを優先した。


 エリスの腹は決まった。誇りよりも何よりも、プルウィアの命を優先すると誓った。


 彼女を刺客の手の届かぬ場所へ。たとえ泥沼の戦争の相手であっても。己の身体を代価としてでも。


 プルウィアだけは、生かして見せると。




 ――そして、行き着いた先が死に塗れた泥の中だ。


 だが、後悔などありはしない。苦しみつつも迷うことなく歩いた道だから。そして、これから歩むのまたしかり。



「さあ、かかってこい! この身は未だ泥に沈んではいないぞ!」



 雨と泥で滑る剣を離さぬよう、今一度握り直した。まだ、歩みを止めないために。





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