第二章 『愛の力VS甲子園』 1
昨日は散々だった。
不幸というレベルの話ではない。
俺の人生を振り返ってもワースト3に入るほど最悪な一日だったと思う。
いまだに男の尻の感覚が右手に薄っすらと残っている。
両頬には戦いの傷跡(右頬は赤く腫れて、左頬は青くなっている……俺は信号機か!)がくっきりと残っていたりもする。
最低、最悪、の昨日を終えて、気分が盛り上がるはずがない。
――だがしかし。
「ふっふっふ、俺はそんなことでしょぼくれるようなザコとは違う。これ以上ないほどポジティブに生きるのがこの俺の生き方だ。――そしてぇ! 今日は待ちに待った入学式だぜ!」
心機一転。
高校デビューを存分に楽しめる、春。
新たな季節の到来だ。
俺の人生もここから始まる。
ふと見ると、道の脇に大きな桜の木があった。
あまり花には興味はないが、今日だけは実に美しく見えた。まるで俺の新たな学校生活の門出を祝ってくれているかのように、青い空を桜色に染めて満開に咲き誇っている。
――不良がなんだ、メスゴリラがどうした。そんなことは俺には関係ねえ、俺は自分で幸せな毎日を掴んで見せるんだ!
グッと手を握り締めながら、ぼんやりと桜が舞い散るのを眺めていた。あぁ、美しい。
「いさり~ん、こんなとこでなにボケっとしてるの?」
「ん? ……宗次郎か」
振り返ると見知った顔がそこにあった。
同じ中学出身の三木宗次郎、身長一七〇センチ以上のデカイ奴。こいつとは友達だが、並んで歩きたくはない。だって、身長差が……。
「やっほ~、またバカなこと考えてたの? 君も好きだねぇ~」
「うっせ~、ほっとけよ」
冷たく言い捨てて歩き出す。追いかけてきて、ニヤニヤしながら俺の横に並ぶ。……てめえわざとやってんのか?
「俺の近くを歩くなっていつも言ってんだろ」
「久しぶりだってのに相変わらずひどい挨拶だね~。ってどうしたの? そのカラフルな顔。 また、不良に絡まれた? それともおね~さんのほう?」
宗次朗が興味津々に顔を近づけてくる。……うっとうしい。コイツは中学の頃から『僕の体は好奇心でできています』というような奴で、少しでも面白そうなことがあれば野次馬精神が溢れ出す、要するに変態である。今も目がウザく、いや、鈍く輝いていた。
「話してやってもいいが、とりあえず俺から一メートルは離れろ」
「え~、そんなの別にいいじゃ~ん。いさりん、女の子から小さくてかわいいって評判なんだよ~」
「そうなのかっ!」
ずいっと宗次朗に顔を近づけようとして……近づかなかった。でも、めげない!
それは知らなかった。さすがは情報屋の宗次朗と呼ばれていただけのことはある。ただの野次馬とは一味違うな。
――これは春の予感!
「……そうか、そうだったのか。実は俺ってモテモテだったんだな」
「そうだよ~、だから身長なんて気にしなくても別にいいじゃん」
「そうだな!」
と満面の笑みをくれてやる。
「……ちなみに、誰が言ってたんだ?」
「えっと……」
宗次朗はにやけ面のままで考えていた。三年間も一緒にいてコイツの笑っていない顔をほとんど見たことがない。――おまえ、目、開いてるのか?
「もったいぶらないで早く言えよ~。誰だ? かわいいのか? 身長は高くないか?」
身長が俺より小さくて守ってあげたくなるような女の子がタイプなんだ。だけど、ストライクゾーンは狭くないぞ。見た目より、性格がよければなんでもよしだ!
「ほら、言えって」
「あっ、思い出した。それを言ってたのは僕のマミーだったかな!」
「はっ……」
――母親かよっ!
これほど広大なストライクゾーンがあるというのに、まさかのボールだ。それもストライクゾーンを見事に大きく外れた暴投だ。……俺だって友人の母親に手を出すほど落ちぶれてはいないわ! ついでに、おまえはもう友人ではないわ!
ふん、と鼻息。怒っているのだ、このおおらかな俺が。
後、一言、言わせてもらいたい。
ふ、ざ、け、ん、な!
「……男の純情をもてあそぶ奴は豆腐に頭をぶつけてしまえばいいんだ。豆腐が髪の毛にこびり付いて汚くなっちゃえばいいんだ。あはは、あははははは……」
「お~い、いさり~ん。帰ってきてよ~」
「はっ!」
いかんいかん、宗次朗のペースに乗せられて別の人格が現れかけていた。……まだ大丈夫。なあに、俺の春はこれから始まるんじゃないか。
大きく深呼吸して心を落ち着かせる。春の心地よい臭いが鼻をくすぐった。俺には新しい生活がまっているのだ。
と、大きな手に肩を掴まれ体をグラグラ揺さぶられる。
「で、なにがあったの~。話してもいいって言ったじゃん」
「……わ、わかった! わかったから手を離せ、ちょっとだけ体が浮いてんだよ」
「ごめんごめ~ん」
てへへ、と笑いながら僕の肩を放してくれた。やっと足に地面の感覚が伝わってくる。これだから背が高い奴は嫌なんだ。――まったく、世の中、巨人ばかりで困ったもんだね。
「それがだな……」
昨日の不幸な出来事を感情込めて語ってやった。それはもう最悪だったとか、その女は見た目はかわいいが、中身はメスゴリラ並みに悪魔のような奴で、多分あれはゴリラの手下、メスザルだったんじゃないかとか。それはもう全力で魂を入れて語ってやったよ。
話し終わると、ふむふむと頷きながら聞いていた宗次朗が満面の笑みを浮かべた。
「それ、すごい面白いよ! なんで見ず知らずの女の子に殴られちゃったの? その前に、なんでオカマをチョイスしちゃったの? いさりんは天才だね!」
「よせやい、照れるぜ」
天才だなんて嬉しいことをいってくれるじゃねえか。――ん? 俺は褒められている……んだよな?
「そうか~、だからそんなおもしろ……、かわいそうな顔になってるんだね」
「あれ? 今、面白い顔って――」
「なに言ってるの? 君は本当に面白い人だね~、すごく才能に溢れているよ」
ううむ……。気のせいだったか。
でも不思議だな、宗次朗が笑い出しそうになるのを必死で我慢しているように見えるのは俺の見間違いか? ……時々コイツがドSなんじゃないかと疑ってしまうのは心に悪が潜んでいるからなのだろう。男として、人を疑うのはよくないよな。うん。
――改めて、宗次朗は親友さっ!
そうこうしているうちに校門が見えてきた。その向こうにはこれから毎日通う高校の校舎がどっしりと構えてある。
新世界に突入する気持ちで、一歩、大きく踏み出し、高校の門を通る。
「それじゃあ、今日からがんばらないとね!」
「おう。もちろんそのつもりだ」
俺たちは立ち止まって大きな校舎を眺めた。これから三年間、ここで勉強する。新しい友達や、新しい発見、そんな楽しい毎日を送るために俺はここにいる。
また、新しい生活が始まる。
そして、なによりも、だ。
――恋が始まるかもしれない。
「ここで運命の相手との衝撃的な出会いを体験するた……め……」
言いかけて、突然、口が動かなくなってしまった。
校舎より手前、というか、すぐ目の前に突っ立っている人物とばっちりと目が合ったからだ。
「……あっ」
「……なっ」
――出会ってしまったぁぁぁぁ!
雷に打たれたような衝撃が全身に走った。
一瞬にして周囲の人間がいなくなったような気がした。
それほどまでに印象深い。
俺の意識はすべてその姿に惹きつけられた。
まさに衝撃的な出会い! ではあるのだが……こんな展開を望んだ覚えはない。
衝撃的だが……少し違う。
――神よ、おまえは少し間違ってるぜ。
俺より少し上にある大きな瞳は大きく見開かれて、あんぐりと口まであけて驚いている。
「なんで……あんたが……」
少女の小さな唇からか細い声がこぼれてきた。
それはこっちが聞きたい。『なぜ、おまえがこの学校にいるんだ』『どうして、ここの制服を着ているんだ』『なにゆえに俺は殴られたのか』と、言いたかった。――つまりは言えてない。口がうまく言葉を伝えてはくれないのだ。声に出せたのはせいぜい、「おまっ……」や「制服っ」や「すげえかわいいっ!」ぐらいだった。
暖かい風が目の前にいる少女の黒い髪をさらりと撫でた。
黒く輝く。
他の人とは一線を画するほど美しい女の子。
だけど、俺が固まってしまったのはそのせいではない。
俺は――――この人物を知ってる。
……と言うより、忘れるはずがない。今も俺の頬に赤く焼き付いているのだから。
――昨日のメスザルだ!
コイツはヒーローである俺にビンタを食らわせたなんとも恩知らずな女なのだ。鬼なのだ。メスザルなのだ。
少女の肩がわなわなと震えている。……とても不安だ。また予想不能で奇天烈な行為をしたりするんじゃないだろうか。
嫌な予感がする。
俺の嫌な予感はよく当たるのだ。……いい予感はまったく当たらないのに。
少女の顔は怒りに満ちて、今にも爆発しそうになっていた。怒りたいのはこっちのはずなのに。――だが、ここは危険だ。逃げ出そうか、それとも、挨拶でもしてみるか? もしかしたら、案外仲良くなったりできるかもしれない。
俺は大きく息を吸って、
「やぁ」
爆弾に火を点けてしまった。
「なんで……」
――なんでオカマがここにいんのよ!
まさかの大音声。
……びっくりだぜ!
新入生で溢れる校舎前に響くその声は、そこにいるものすべての耳に届くほど大きかった。
オカマが~~、オカマが~~、オカマが~~……と俺の脳内でリピート再生。
――こ、コイツ、叫びやがった!
ギョロっと目を向けられて、ひえっ、と気持ち一メートルぐらい飛び上がる。
穴があったら入りたい……いや、埋まりたい気分だ。周りにいる新入生の視線を一斉に浴びて、一躍俺も超有名人になってしまった。ただし、『オカマ』としてな!
――やめて! 俺をそんな汚らわしいものを見るような目で見ないで! 俺は普通の人なんだよ! あぁ、ちょっと……行かないで俺の青春! 待って、待ってってば~!
いやあぁぁぁぁんっ!
……どうやら、俺の人生はここでゲームオーバーのようだった。