第四章 『レオナルドVSチャーミングな妹』 5
「おまえは……」
その姿をどこかで見たことがあるような気がする。でも、どこでだろう? こんな気味が悪い男と友達になった覚えはないんだが……やっぱり見覚えがある。
――なぜか右手がむずむずしてきた。
特にあの痩せた尻に見覚え……というか、触り覚えがあるような気がするんだが……まあ、気のせいだろう。俺はオカマでなければ、男好きというわけではなく、尻フェチなんかじゃあ絶対にない。当然の事ながら、会長の尻だったら全力で喜んで触るが、普通に生きてきて、見ず知らずの、しかも男の尻を触るなんてことはありえない。……そう、例えば、暗い夜道を歩いているといきなり美少女が不良に絡まれているところに遭遇し、それを助けるために試行錯誤をした結果、オカマのフリをして男の欲望を冷ませようというような天才的なことを考えなければ男の尻を触ることなんて……。
触ることなんて……。
「あっ……」
触っていた。
――そう言えば、俺って、天才だったじゃん。
右手にあの柔らかい感覚がよみがえってくる。……ものすっごく気持ち悪い。
不意に入学式前日のことを思い出した。確か、あの日春乃を襲っていた相手もこんな感じの不気味な奴だった気がする。あんな感じの危ない奴だった気がする。まだ、その男は俺たちに気づいていないようだった。
「……どうして……またあんたがいるのよ……」
後ろから恐怖に震える声が聞こえてきた。
ということは……なんだ。
春乃はあいつの姿を見て怯えているのか。……また、アイツは春乃を怯えさせているのか。
なんでだ?
春乃がせっかく普通になってきたのに、なんでおまえはまた現れる?
……ありえねえ。
……ぶん殴ってやりてえ。
アイツを見てると――――すっげえムカつく。
不良を攻撃すると仕返しが怖いとか、そんなことが考えられなくなるほど頭に血が上っていた。イライラして握り締めた拳が震える。その怒りが頂点まで達する前に、
「……っ!」
コンクリートを走る、乾いた足音が闇に響き渡った。それを聞いて、俺が振り返ったときには、すでに春乃は近くの十字路を曲がっていた。
「くそっ……」
自転車をそこに置き捨てて、俺は慌てて春乃を追いかけた。
夜も遅く、辺りは暗い。
周囲には黒く深い闇が広がっている。
そんな中を怖がりな春乃が走り続けている。
逃げ続けている。
――ここは、春乃が一人でいるにはあまりにも暗すぎる。
俺が十字路を曲がったところでその姿を見つけることができた。細い足を動かして、全力疾走で逃げていた。息を切らせながら一心不乱に逃げ惑っていた。
目の前には闇しか広がっていないのに、必死に闇から逃げていた。
そんな春乃を一人にはして置けなかった。
俺は走った。
走って、走って、一人の少女を追いかけた。
俺より背が高いのに、普段は乱暴なのに、暗いところが苦手な春乃を助けてあげたくて。
彼女を闇から救ってあげたくて。
俺は全力で彼女を追いかけた。
そして、手を伸ばし、彼女の肩を掴んで動きを止める。
「ちょっと待てよ! 俺が一緒に……」
叫んでから気が付いて、すぐに言葉を飲み込んだ。
滴が落ちる。
悲しみと怒りが溢れる。
「うぐっ……」
彼女の白い頬には涙が流れていた。ガクンと地面に膝を付き、まるでダムが決壊してしまったかのように、どばどばと涙を流していた。
逃げながら、泣いていたのだ。
怯えながら、泣いていたのだ。
それほどまでにあの男が怖かったのだろう。それほどまでに闇が怖かったのだろう。
――俺が一緒にいたのに。
なんの役にも立たなかった。俺は彼女の不安を取り除くことができなかった。……ずっと、一緒に帰ってきたのに。
怖いから一緒に帰ろうと言われていたのに。
……なにが守ってやりたいだよ。
結局、春乃を怖がらせてしまったじゃねえか。
春乃を泣かせてしまったじゃねえか。
俺はいったいなにをしていたんだ。
――今、俺にはなにができるんだ?
「……」
それ答えはわからなかった。
単純で、バカな俺にはまっすぐに考えることしかできなかった。泣き崩れている春乃をどう慰めればいいかわからなかった。
だから、悪いことがあれば悪いものを潰す、つまり、あの男をぶっ潰すことしか浮かばなかったのだ。
この怒りをぶつけることしか……。
「アイツ、ぶん殴ってくる……」
そう言い残し、両手を握り締めてすぐにその場を去ろうとして、
「待って!」
後ろから肘を掴まれた。
ゆっくりと振り返ると、春乃が悲痛に歪む顔を俺に向けて、強く肘を握り締めていた。
「……待って……行かないで……」
弱々しい声を上げる。
「お願い……一緒にいて……あたしを一人にしないで……」
ぎゅっと俺を強く抱きしめて、お腹に顔を埋めて泣いていた。
苦しそうに、悲しそうに、怯えるように。
それを見て、本当は春乃の泣いている顔を見たくなかっただけなのかもしれない、と思った。
それほどまでに、春乃の泣いている姿を見ていると胸が締め付けられているような気持ちになって、俺もすごく苦しくなる。本当につらいのは春乃なのに、すごく悲しくなってくる。
こういうときにどうすればいいのか、俺は知らない。
守ってあげたいと思っても、なにをすれないいのかわからない。
なんとなく、安心させようとして、震える春乃の頭を抱きしめた。
それだけのことしかできなかった。
俺にはなんにもできなかった。
――くそっ……。
この言葉は、誰の耳にも届かない。
心の中だけで叫んでいた。
しばらくの間、春乃はずっと泣いていた。
ようやく落ち着いても、ちゃんと話せるような状態ではなかった。
だから俺はなにも言わなかった。……いや、声をかけることができなかった。
あの怖がり方は普通じゃない、襲われたからだけでなく他にもなにか理由があるはずなんだ。――それにあの男……おそらく不良じゃない……と思う。よく不良に絡まれる俺だからこそわかる。なんとなく雰囲気が違うような気がする。――じゃあ、なぜ男が春乃を襲うのか、それを聞くことはできなかった。
おかしいことに気づいていながらも、自分からは行動せず、相手からしゃべり出すのを待っていた。
そのまま黙って家まで送り届け、最後に、
「泣くなよ」
としか言えなかった。もっと気の利いた言葉をかけてあげたかったが、それが俺の精一杯だった。本当に俺は情けない男だった。そんな、どうしようもない男だった。
春乃の家の前で、苛立って、悔しくて、両手を強く握り締めて、歯を噛み締めて、突っ立っていた。
「……なにが惚れさせるだよ」
自分にどうにもできない怒りをぶつける。
「……女を守れねえ癖になにかっこつけてんだよ! 俺にはなんにもできねえのかよ! あの男はなんなんだよ! ……っくそ!」
泣きそうになって、我慢した。
今、悲しいのは春乃だ。――俺には泣く資格なんてない。
自分の不甲斐無さが悔しかった。
自分の無力さに腹が立った。
――だから。
「うあああああああああ――――――――っ!」
体に溜まった怒りを放つため、膝をつき、コンクリートの地面を殴り、闇に向かって吼えた。
吼えて、叫んで、そして……黙った。
すっと立ち上がり、強く心に決意した。
『春乃を守る』
その言葉を心に刻んだ。
もう二度と泣かせたくない、そう思って決意した。
ふぅ、と大きく息を吐き、ようやく落ち着いてきたところで気がついた。
「……自転車、忘れた」
どうすることもできず、俺はもと来た道をとぼとぼと帰って行った。
――俺は弱い自分が嫌だった。