1 王太子シルヴェート
「アリシラ嬢はどこに?」
王宮のサロン。いるはずの婚約者の姿はどこにもない。
彼女の来訪を聞いて足早に駆けつけた王太子シルヴェートは、アリシラをもてなしていたはずのサロン付きの使用人に問いかけた。
「庭園に国王陛下がいらっしゃって、そちらに……」
使用人は気まずげに答える。確かにこのサロンの窓からは庭園の様子が見渡せる。執務の合間の休憩時間で、父王が庭園を散策するのはよくあることだった。
「そうか。それなら仕方ないな。私も庭園に向かうとしよう」
シルヴェートはため息をつく。
(これで一体何度目だ?)
父と婚約者への怒りを、そっと胸の奥に忍ばせながら。
*
「どうかしたのか、シルヴェート」
本来婚約者と二人きりのはずのお茶会の席に、椅子がもう一脚。座っているのはシルヴェートの父、ヨアキムだ。
もうすぐ齢四十に至ろうとする男盛りの美丈夫は若々しくて凛としていて、息子の目から見ても人を惹きつける魅力があった。しかしシルヴェートにとって、父のカリスマ性はいいことばかりでもない。
「いえ。少し日差しがまぶしくて」
シルヴェートは微笑を浮かべる。太陽王と称される男は、まさか息子が皮肉を口にするなど思ってもいないようだった。
「日傘の向きを変えさせよう。アリシラ嬢はまぶしくないか?」
「ええ、大丈夫です」
ヨアキムに尋ねられ、公爵令嬢アリシラは可憐に笑う。その笑みは、いつもシルヴェートに向けているような、とってつけたようなものではなかった。
(私は何のためにここにいるんだろう)
いそいそと動いている使用人を横目で眺める。
彼らには、このお茶会をつつがなく進行させるという役割がある。
だが、自分には何の役目もなかった。
会話が盛り上がるのはヨアキムとアリシラの間でだけだ。シルヴェートが話題を振っても、いつの間にか話の主導権は二人のものになっている。二人の会話に口を挟んでも、その言葉を打ち返してはもらえない。許されているのは、曖昧な微笑で相槌を打つことだけだった。
(私のような凡人など、父上やアリシラ嬢の視界には入らないのだろうな)
諦めとともに紅茶を飲み干す。少し苦い気がした。
公爵令嬢アリシラは、非の打ちどころのない才女として有名だった。弱冠十六歳にして大人顔負けの頭脳を持ち、研究者や官僚など、様々な分野の専門家達と活発に議論を交わしている。
名門公爵家に生まれた優秀な姫君こそ王太子妃にふさわしいと、いつの間にかシルヴェートとの婚約も決まっていた。多分それは、周囲が期待するよりも凡庸だった王太子に少しでも価値をつけようと思った誰かの仕業だったのだろう。
現国王ヨアキムは、優れた政治的手腕で国に富をもたらした。ひとたび戦場に出れば負け知らず。理想の賢王として、民衆からの信頼も厚い。
一方息子のシルヴェートは、父が築いた高すぎる理想の壁を越えられなかった。決して無能ではないが、ヨアキムに比べれば何もかもが見劣りするのだ。
似ているのは顔だけの、二番煎じの七光り。
そう陰口を叩かれていることを、シルヴェートも知っていた。
母妃を早くに亡くしたシルヴェートには多くの教育係がつけられていたが、誰もが口をそろえてこう言った。「父君のようにおなりなさい」……それは呪いのようにシルヴェートをむしばむ。
どれだけ努力しても、父という天才の足元にも及ばない。
幼子には高すぎる目標と常に比べられ、呆れられる。
向けられる失望の眼差しは幼い少年の心を削り、やがて彼から大事な何かを奪い去った。
こうして、陽光のような父王とは似ても似つかない、じめついた日陰のような王子ができあがったのだ。
ヨアキムは、確かに王としては優れている。
けれど父親としても優れていたかと言えば、そうではなかった。
もし彼が本当の意味での人格者だったのなら、鬱屈していく息子の心の叫びに気づけたかもしれないし、比較という生産性のない悪しき物差しを使う周囲をたしなめられたかもしれないし──何よりも、一回り以上も年下の少女の異様な距離の近さに気づいて彼女を諭せていたはずだった。
「アリシラ嬢、もうすぐ舞踏会の時期ですね。貴方のためにドレスを贈りたいのですが、私にその栄誉を与えてくださいますか?」
何か話題を提供しようと思ったシルヴェートの頭をよぎったのは、来月王宮で催される大きな舞踏会のことだった。
「ええ、ぜひお願いいたします」
アリシラはシルヴェートを一瞥もしなかった。
みじめさのあまりテーブルの下でこぶしを握るシルヴェートだが、そんな感情はおくびにも出さない。アリシラとは何度も対話の機会を設けて改善を求めたが、それが聞き入れられた試しはなかったからだ。
国でもっとも評判のいい王室御用達の仕立て屋や宝石商を招くから予定を教えてほしい、装飾品も望みの物を用意しようと言葉を続けたところで、アリシラはやっとシルヴェートを見た。
「殿下の目のような、素敵なサファイアのアクセサリーがいいですわ」
シルヴェートの青い目は、ヨアキム譲りのものだった。
「サファイアなら、国宝の首飾りがあるぞ。どうせ来年にはアリシラ嬢は王室入りするのだし、アリシラ嬢にあれを与えよう。似合う美女に身に着けてもらえば宝石も喜ぶというものだ」
「よろしいのですか、ヨアキム陛下!」
アリシラははしゃいだ声を上げる。
「でしたらドレス選びの場に、ぜひ陛下もいらしてくださいな。首飾りに合うドレスの意見をお伺いしたいですもの」
「わかったわかった」
可愛い義娘の頼みだから、と、ヨアキムはそのおねだりを快諾する。
(彼女の婚約者は、誰だっけ)
気分が悪くなった。口を閉ざしたシルヴェートを気にする者はいない。
「陛下、ティーカップが空ではないですか」
「おお、すまないな」
アリシラはヨアキムのために手ずから給仕をしている。
少し大人びたアリシラと、いつまでも若々しいヨアキムは、傍目で見る分にはお似合いの二人に見えた。
*
王室主催の華やかな舞踏会。ファーストダンスを踊るのは国王で、その相手役はアリシラだ。
王妃はシルヴェートを生んだ直後に儚くなった。それきり王は新しい妃を娶っていない。亡き妻に配慮しての行動だ。
初期の頃は後妻を娶ってはどうかという周囲の働きかけもあったらしいが、ヨアキムはそのすべてを固辞した。それ以来、誰もヨアキムに新たな妃を娶らせようとはしていない。
公的な場では、王族から嫁いでいった妙齢の未亡人がヨアキムのパートナーに選ばれていた。
だが、今夜いつもの彼女はいなかった。体調を崩したという。急に空いた国王のパートナーの座に立候補したのがアリシラだった。
「ファーストダンスを踊るだけだから」「いずれ王室に嫁ぐ女性だから」と、ヨアキムはそれを受け入れた。シルヴェートの意見は聞かれなかった。
ほんの一曲、けれど一曲。舞踏会の開始のために国王が踊る最初の一曲の重みを、アリシラが理解していないとは思えない。
華麗にファーストダンスを踊って喝采を浴びる父と婚約者を、シルヴェートはどこか冷めた目で見ていた。
(私は本当に、彼女と結婚していいのだろうか)
アリシラが愛しているのはシルヴェートではなくヨアキムだ。
婚約が決まった当初から、シルヴェートはそのことに気づいていた。昔から父と自分を比べる目に慣れてきた彼にとって、眼前の少女の本当の関心がどこにあるか悟るのはたやすかった。
「申し訳ないけど、殿下のことは子供としてしか見られないわ」
アリシラが友人の令嬢達にそう笑っていたのを聞いたのは、果たしていつのことだったっけ。
「わたくしは大人の男性が好きなの。ヨアキム陛下みたいな方が理想的だわ」
その言葉を聞いた時、シルヴェートの中で何かが壊れた。それでも王子の仮面を被り続け、少しでも立派な婚約者でいようと努力し続けたシルヴェートを、父とアリシラはあっさり踏み越えていく。
「殿下、どうかなさいまして?」
招待客達がダンスを始める中、アリシラがシルヴェートのもとに戻ってくる。
銀糸で装飾された純白のドレスが、サファイアの首飾りをよく引き立てていた。
このドレスを贈ったのはシルヴェートだ。
だが、実際のところはどうだったっけ。アリシラに似合いそうな生地をいくつか提案したら、アリシラはヨアキムと二人でドレスの生地を眺めて、ああでもないこうでもないと楽しそうに話していた。
見立てたのはシルヴェート、選んだのはアリシラとヨアキム。それは、婚約者のためにドレスを贈ったと言えるのだろうか。
「具合が悪いなら、テラスで夜風を浴びてきたらいかが?」
黙っているシルヴェートに、アリシラはさも名案だというように明るく告げた。ついてくる気はなさそうだ。
「ですが、貴方を一人にするわけには」
「お気になさらず。ヨアキム陛下とお話ししていますから」
「……そうですか、わかりました」
それ以上アリシラと会話を続けるのが嫌になり、シルヴェートは足早にテラスへと向かう。
その背中を一瞥し、アリシラはにやりと笑った。もうシルヴェートに関心などなくしたようで、彼女もさっさと踵を返してヨアキムのもとに向かっていった。
*
月明かりに照らされるテラスには先客がいた。桃色の髪の女性だ。
背を向けているため顔はわからないが、背格好やドレスの意匠からしてシルヴェートと同い年か、少し下ぐらいだろう。手すりにもたれてぼんやりと夜空を見上げている。
(まいったな。彼女も私も供をつけていない。偶然とはいえ、女性と二人きりになるのは避けるべきだ)
この舞踏会は国内の有力貴族だけではなく、近隣諸国からも賓客を招いている。どこに火種があるかわからない以上、迂闊な行動は避けたかった。
シルヴェートが引き返そうとしたとき、少女が何気なく振り返る。ばっちり目が合った。知っている顔だった。
「そのドレス、どうかされたんですか」
シルヴェートが彼女の正体に気づいた以上、彼女もシルヴェートが誰か気づいただろう。
無言で別れるのも気まずい。とっさに言葉が口をついて出た。
可憐な少女によく似合っている薄桃色の愛らしいドレスに、大きなシミがついている。少女は肩をすくめた。
「婚約者と、婚約者の浮気相手と喧嘩しました」
少女はあっさりと答える。
「あのバカ男、わたしをさしおいて他の女と一曲目を踊ろうとしたんですよ。本当に信じられない」
少女は心底軽蔑しきった目でそう吐き捨てた。
「挙句の果てに、“お前はお飾りの婚約者なんだから俺に逆らうな”ですって。ふざけてますよね」
「それはそれは……。心中お察しします」
このまま何か適当に会話を切り上げて、立ち去ることはたやすかった。けれどできない。少女の境遇に、自分を重ねてしまったから。
「実は私もです。喧嘩まではしていませんが、婚約者が他の男と一曲目のダンスを踊っていて。しかも婚約者は私ではなく、その男に夢中なんです」
「最悪ですね。わたし達、最悪仲間だ」
不機嫌そうだった少女は、そう言ってやっと笑った。
「他国の催しで揉め事を起こしてごめんなさい。でも、シルヴェート王子も大変ですね」
「エルミナ姫も」
彼女は隣国の男爵令嬢エルミナ。隣国の王とその寵姫を親に持つ姫君だ。
「わたしはその場で婚約解消を言い渡しましたけど、シルヴェート王子はどうされました?」
「それができるだけの勇気がないもので」
シルヴェートは笑ってごまかす。
婚約者が自分の父親と親しくて喜ぶ男はいない。この関係を終わらせたいと思ったことは何度もあった。
だが、どうせ自分が悪者にされるだけだという諦めがあった。それだけシルヴェートは自分を低く見積もっていたし、ヨアキムやアリシラのほうが信頼されていると考えていたからだ。
「ふぅん」
エルミナは考えこむそぶりを見せる。けれどすぐにぱっと表情を明るくさせ、シルヴェートに歩み寄ってきた。
「じゃあ、こういうのはどうでしょう」
そのまま彼女はシルヴェートの腕を取り、自分の胸に当てるようにしてぎゅっと抱き寄せる。
「エルミナ姫!?」
「向こうから婚約解消してもらえばいいんですよ」
そう言って、エルミナは悪戯好きな猫のように笑った。




