第8話 神様も別世界までは見ていない
清楚、という言葉がある。
私の中では、微笑むだけで周囲の空気が少し浄化されるような人のことだと思っている。
「マスター。次をお願いします」
そして、カウンター席には清楚な女性が座っている。
白い修道服のような衣装。
淡い金色の髪。
胸元には、どこかの宗教的な紋章らしき首飾り。
微笑むだけで、周囲の空気が少し浄化されたように見える。
実際、何か浄化されているのかもしれない。
なにせ本人の自己申告によれば、聖女様である。
「同じものでよろしいですか?」
「はい。とても美味しいです」
「ありがとうございます」
とても清楚だった。
――床に沈む常連たちさえ見なければ。
私は新しいグラスを用意し、静かに酒を注ぐ。
普段からとんでもない量を飲むドラコさんと侍さんすらも沈んでいる。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
彼女は、両手でグラスを受け取った。
仕草は非常に上品だ。
指先まで美しい。
それから彼女は、祈るように目を閉じた。
「恵みに感謝いたします」
そう言って、グラスを傾ける。
半分消えた。
カラン。
「すっご」
魔法使いさんが、頬杖をついて笑っていた。
彼女は途中から透明化をやめて、完全に観戦モードに入っていた。
「魔法使いさん」
「なーにー?」
「床の皆さんに回復魔法などは」
「そういう魔法って、神官系の領分なのよね」
この人はこの人で、ずっと飲んでいる。
だが、唯一、聖女様に挑まなかった。
賢明である。
「聖女さん本人に頼めば?」
「……聖女様」
「はい?」
聖女様が、にこりとこちらを見る。
美しい。
床で寝ている海賊船長のいびきさえなければ、完璧に神聖な光景だった。
「皆様に回復魔法のようなものはかけられますか?」
「もちろんです」
「お願いできますか」
「ですが」
聖女様は、少し困ったように頬に手を当てた。
「酔いを無理に醒ますのは、酒に失礼ではありませんか?」
独自の倫理観だった。
「酒に失礼」
「はい。皆様、全力でお飲みになりました。でしたら、その眠りもまた祝福ではないでしょうか」
「なるほど」
なるほどではない。
「せめて、風邪を引かないようにしていただけると助かります」
「それならば」
聖女様が、ふわりと手を掲げた。
柔らかな光が、店内に広がる。
床で倒れている皆さんの体が、ほんのりと光に包まれた。
毛布のような温かさが、店の空気に満ちる。
とても神聖だった。
床に転がったカルーアくんと、テーブル下のホームズさんさえ見なければ。
「これで、寒くはないはずです」
「ありがとうございます」
「いえ。これも聖女の務めです」
「聖女の務め」
魔法使いさんが、にやにや笑っている。
「聖女の務めで酔いつぶした相手に保温魔法かけるの、なかなか見ない光景ね」
「酔いつぶしたのではありません」
聖女様は、穏やかに微笑んだ。
「皆様が、神の御前に正々堂々と挑まれたのです」
「その神、酒の神か何か?」
「いえ、私が仕えるのは光と慈悲の神です」
「光と慈悲の神、今どんな顔してるのかしら」
魔法使いさんが肩を揺らして笑う。
聖女様は、きょとんとした。
それから、とても綺麗に笑った。
「神も、別世界まではご覧になってません」
清々しいほどの断言だった。
魔法使いさんが、ついに声を出して笑った。
「最高ね、あなた」
「ありがとうございます」
「褒めてるわ」
「私も、そう受け取りました」
聖女様はにこにこしている。
強い。
「それに、こちらの酒場には教会の礼拝堂から来ました。つまり神の思し召しです」
「教会から?」
「はい。懺悔室の扉を開けたら、こちらに」
「懺悔室」
神は別世界まではご覧になっていない。
しかし、懺悔室の扉はこの店に繋がったらしい。
神の管轄がよくわからない。
「それで、魔法使いさんも私と飲み比べをされますか?」
「私?」
魔法使いさんが、聖女様を見る。
聖女様も、にこりと微笑む。
店内に、一瞬だけ静寂が落ちた。
世界最強らしい魔法使いさん。
常連全員を相手に勝利した聖女様。
この二人が飲み比べをしたら、どうなるのか。
私も興味があった。
とても興味があった。
「今日は遠慮しておくわ」
「残念です」
私も残念です。
「また今度ね」
「はい」
聖女様は立ち上がり、床で眠る常連たちを一人ずつ見た。
「皆様に、良き目覚めがありますように」
そう祈ると、床に伏した常連たちがほんの少し光った。
「今のは?」
「寝違えにくい祝福です」
「ありがとうございます」
細かいところまで優しい。
倒したのはあなたである。
「また来てもよろしいでしょうか」
「もちろんです」
「嬉しいです」
聖女様は、清楚に微笑んだ。
「次は、もう少しゆっくり飲みますね」
「はい」
今夜はゆっくりではなかったらしい。
聖女様が扉を開ける。
向こうには、薄暗い石造りの小部屋が見えた。
懺悔室らしい。
扉の向こうから、老人の声が聞こえた。
「聖女様、懺悔はお済みで?」
聖女様は、振り返らずに答えた。
「はい。大変有意義な悔い改めでした」
有意義とは。
扉が閉まる。
私は床に転がる常連たちを見回した。
全員、妙に穏やかな顔で眠っている。
「マスター」
魔法使いさんが言った。
「はい」
「次に聖女様が来たら、私いないことにして」
「透明になってるだけでしょう」
「そうとも言う」
「飲み比べ、誘われていましたね」
「聞こえなかった」
「しっかり返事していました」
「記憶にないわ」
魔法使いさんは、いつものようにグラスを傾けた。
その顔は、少しだけ真剣だった。
世界最強の魔女にも、避けたい勝負はあるらしい。
私はカウンターを拭き、空いたグラスを片付ける。
グラスの数がとても多い。
つまり、今夜の売上はかなり良い。




