第5話 渇望、それは人生を謳歌すること。
「はぁ、渇望ね……」
部屋の中に戻り、ろくに着替えもしないまま、ベッドの上で寝そべりながらイヴァンに言われたことを思いだす。
渇望とはいっても、色々な種類があるわよね?
好きな人に愛されたいとか、お金持ちになりたいだとか。
でもきっと彼が言いたいことはそういうことじゃないし、私自身もそうとは思わない。
現にヴィクトルに婚約破棄された今も、悲しいという負の感情よりも『これからどうしよう』と言った戸惑いの方が強い。
「姉さん、帰ってきているのか?いるなら返事をしてくれ」
ドアをノックする音で思考の海から急激に意識が現実へと引き戻される。
「入ってもいいわよ。……あら、ジョセフ。あなたまだ顔赤いじゃない。熱は下がっているみたいだけど」
とっ散らかった部屋を適度に整頓してドアを開けるとそこには弟であるジョセフが立っていた。
彼の頬は赤く、熱にでも浮かされているのか心なしかぼんやりとしている。
こんな状態で私の部屋にまで来たのか。歩いてくるのだけでも辛かっただろうに。
とりあえず、部屋の中にある椅子に座らせる。
ドアの前にいた時よりも表情は険しいものではなくなっている。
「ジョセフ……」
「もう、大丈夫だ。それよりも姉さん、ごめん。俺、あのバカ王子止められなかった。婚約破棄なんて姉さんの顔に泥を塗るような真似をするほど愚かだなんて」
風邪を引いて今日のパーティーを欠席したジョセフにも情報は行っていたのか、がっくしと言わんばかりに頭を下げる。
元から真面目過ぎるというか、マメな性格ゆえに情報を重くとらえてしまうことが多い。
しかし、今の狼狽具合は凄まじいものだと思う。
やっぱり風邪を引いてしまっているのが余計にそうさせてしまっている。
多分生半可なことを言っても絶対に引き下がらないからな。
こういう手段を使うのはあまりよくないけど仕方がない。
「顔をあげなさい、ジョセフ。あなたがあの男に関して謝る必要はない。謝るならこっちの方よ。――だって、私殿下のことをぶん殴ってしまったもの」
淡々と彼に告げると、天を仰ぎ見るようにため息をつく。
本当はこんな励ましの中で、言うつもりは全くなかった。
でも、仕方がないのだ。
きっとあのまま曖昧な態度でジョセフに何か言っても顔をあげることはない。
頑固なジョセフのことだ。
このままでは東方にある国の『どげざ』なるものをしてきてもおかしくない。
彼は一切悪くないのに。悪いのはあのバカだ。
だから、苦肉の策でジョセフに一番衝撃を与えられるだろう事実を言ったんだけど……。
よほど私の放った言葉が衝撃だったのか、もともとここまで来るのが難しいほど体調が優れなかったかは分からない。
目を回してしまったジョセフは膝を抱えて座り込む。
気のせいかもしれないが『何がどうなってそうなるんだ』と小言を言っているようにも聞こえる。
でも、このまま私の部屋の前で放置したままなのは非常にまずい。
「やっぱりまだ元気になっていないじゃない。ほら、肩を貸してちょうだい。部屋に戻るわよ」
未だ俯いているジョセフに手を差し伸べる。彼は少し迷いながらも恐る恐る手を握る。
彼の体調的にも意地を張っている余裕なんかないのだろう。
「ちょ、ちょっと姉様?!俺、すっごく重いんだよ。無理する必要なんか……」
「いいから病人は黙ってらっしゃい。立ち上がるのも辛いでしょう。それにあなたはロックベアーに比べたらまだまだ軽いわ」
肩に彼の腕を乗せた瞬間、ジョセフがエビのようにのけぞりながら後ろへジャンプする。
そんなに目を泳がせるほどに嫌だったのか。お姉様、少しショック。
「そ、そういうことじゃない。ちょっと恥ずかしかっただけだ。でも、気遣ってくれてありがとう姉さん」
「あら、そうなのね。でも、今のあなたを放っておくわけにもいかないから部屋までついていくのはダメかしら?」
「それならいいけど」ともじもじするジョセフはいつの間にか私の背を大きく抜かしていたと、初めて気づいた。
学園に入ってからずっと、書類仕事ばっかりしていて他のことなんて見る余裕がなかった。
いいや、目を背けていただけだった。
どれだけ書類を早く捌けるようになろうと、『普通の令嬢』を演じていようとヴィクトルは見てくれない。
学園に入る前から分かっていた事実を受け入れられなかった。
まぁ、今となっては全部無駄なことなんだけど。
あぁ、本当にこの5年間何のために頑張ってきたんだろう。
「姉さん、本当はこんなこと言っちゃいけないと思うけど、姉さんが婚約破棄されたって聞いて少し嬉しかったんだ」
少し不器用に笑いながらそう言うジョセフは普段なら見せないような穏やかな笑顔を浮かべている。
こんなことを言われたら普通怒りが湧いてくるものだ。
婚約破棄という屈辱を喜ぶなどどうかしていると。
しかし、今の私には彼に対する怒りなど全くない。
「姉さんはあいつの婚約者であって奴隷じゃない。それなのに何を付けあがったのかあいつは姉さんに無茶なことをたくさんさせて、自分は遊んでばかり。――姉さんの人生はあいつによって雑に消費されていいものじゃない」
彼の炎のように輝く瞳が私にまっすぐ向けられる。
強固な意志を燃やし続けるその色は小さいころから変わらない。
頬でも叩かれたような気分だ。
どうして気が付かなかったのだろう、こんなにも当たり前のことを。
いや、気づかないふりをしていただけだ。
本当はずっとヴィクトルに怒っていた。声にすることはできなくても、心の奥でいつも。
「ありがとう、ジョセフ。あなたのおかげで心が晴れたわ」
人生を雑に消費されていいものじゃない、か。
そうよね。これは私が歩む人生。それを決める権利は他者にない。
これがきっと彼が言っていた私の渇望なのね。違っていたとしても、今の私にとっての正解だ。
「たった一回の人生だもの。楽しめなくちゃもったいないわ」
私は私が思うままに生きるの。邪魔をするのならば誰が敵であっても容赦しないわ。
「皇帝陛下の求婚、受けてみようかしら」
だから、私の意思であなたのもとに行ってもいいわよね?
あなたのもとでなら少なくとも味のない人生を送ることはなさそうだもの。
どうせ生きるのなら、少々刺激的なものがあった方がいいでしょう?




