狼と、ついでに森魔族
『父さん、違うんです、僕は悪くないんです!』
『お前は何時もそうやって、人のせいばかりにする』
『だって、本当に僕は悪くない!』
『誰かが失敗したのが悪いというのか』
『そうです、僕は……!』
『お前は自分の部下が同じことを言ったらどうするつもりだ?』
『……それは』
『どういうのだ?』
『ーーーなんで、お前がなんとかしないんだ、と言うと思います』
『その通りだ。私も同じことを言う。いいか、大事なのは結果だ。誰がどのような失敗をしたのかなどどうでもいい。私はお前に仕事を任せた。ならばお前は、誰がどう失敗をしたとしても、帳尻を合わせるようにしなければならない』
『でも、だって……』
『良いか、上に立つ者は他人に失敗を尻拭いをさせるためにいるのではない。他人の失敗を補うためにいるのだ』
そんな言葉を思い出していた。
どれだけ走ったのだろうか、ジャックは朝の太陽に照らされる森の中で、自分が生き残っていたことを知って安堵した。
とりあえず、自分は生き残った。それは大きい。
彼は安堵して、空腹をおぼえた。もちろん深刻な空腹ではなく、小腹がすいたぐらいだった。
死の危険に瀕したからか、彼は全く眠いとも思えなかった。
そして、何かを食べようかと思った時、ようやく彼は自分の状況に気付いた。
誰かのせいにしても何の解決もしないこの状況で、彼は自分の置かれている致命的な状況を理解していた。
まず、食べる物がないという深刻すぎる事態に。
「ウソだろ……」
手にしているものは、糸の杖だけ。
人を意のままに操ることができる、無敵の道具。
これさえあれば、王でさえも自分の意のままだった。
だが、誰もいない。誰もいないこの状況では、操る相手がいないこの森の中では、何もかもが致命的だった。
荷物を男たちに持たせていた彼は、完全に何も持っていなかった。
強いて言えば、少々の金銭の入った財布ぐらいだろうか。
それしか持っていない彼は、金銭取引のできる相手のいないこの土地で、途方に暮れていた。
その上で、ようやく、どうすればいいのか考え始めた。
「どうする、どうすればいい?」
ようやく彼は、この地域の野生動物が、人間が少々武装した程度で倒せるはずがないのだと理解していた。
ようやく彼は、今の自分が一切の装備を喪失し、今食べる物さえないのだと理解していた。
ようやく彼は、自分が今どこにいて、どちらへ進めばいいのかもわからないのだと理解していた。
少なくとも、自分は三日間歩き続けていた。
それはつまり、三日間は歩かねばこの人外魔境から脱出することができず、そこからさらに人里を探して放浪しなければならないということだった。
道中川を見たこともない。三日以上、飲まず食わずで歩かなければならなかった。
それも、コンパスさえないこの状況で。
都合よく方向がわかるものがあるわけでもないし、太陽の方向を見るにしても木が邪魔をしている。
夜になって星を見るにしても同様で、そもそもその手の知識も彼にはない。
「ふざけんなよ、なんだよコレ!」
手には杖がある。
食べられるわけでもないし、食べ物が湧いて出てくるわけでもない。
この状況ではなんの役にも立たない杖が手にはある。
それだけで、他には何一つ道具がない。
「……くそ、くそ、くそ!」
もはや、ジャックはキャンプ地に戻ることもできなかった。
もし戻ることができたとしても、余り美味しいとは言えない保存食などは既に食い荒らされているだろう。
つまり、いよいよもって彼は遭難したのである。
当然、自分が今ここにいることを知る人間はいない。
自分を助けようとしている者がいるわけもないし、自分を捕まえようとしている者がいたとしても諦めているだろう。
この森に、何か特別な仕掛けがあるわけでもなんでもない。
ただ普通に何の変哲もなく、広く大きい森であり、何よりも猛獣の住む森だった。
「どうすればいいんだ!」
もう、彼は何もできなかった。
そこらに落ちている石を拾って、上手く動物を仕留めることができたとしても、彼には火を起こすこともできない。
また、この辺りの植生で、人間が食べても大丈夫な果実などは全くなかった。
結論から言うと、彼は既に詰んでいた。
もはや彼は死に方が変わるだけで、何一つとしてできることなどなかった。
この地は、十の氏族が生存する場所の中で最も過酷な地。
大型の生物が咆哮し、食い合う修羅の地。
征服などあり得ない、生存すらも不可能な自然の世界。
彼如きが考えうる策や準備できる程度の武装など、何の意味も持たなかった。
そして、如何なる死であっても、それは凄惨な死であることは間違いない。
彼が成すべきだった最善の策は踏み入れないこと。
次善の策は、速やかに撤退すること。
最悪中の最悪は、手詰まりになって途方に暮れることだった。
「ううう……」
ジャックは泣いていた。
もはや、この状況をどうにかすることなどできない。
この飢えを満たすことも、乾きを潤すことも、彼には永久に不可能になってしまった。
流石にまだ餓死を意識するほどの空腹ではないが、このささやかな空腹さえ満たせないのだと、今の彼は絶望していた。
「くそ、くそ、くそ! 誰か俺を助けろよ!」
彼は自分の価値を認識せざるを得なかった。
山で食べられる野草の知識も、空腹に耐えて踏破する気力も、或いは誰かが助けに来る人徳もない。
彼は自分が如何に無力で無能で、何の役にも立たない人間なのだと、そう理解することしかできなかった。
そして、何の能力も持たない彼の判断は、つまりは歩くことだった。
なんの目的もなく、なんの目標もなく、ただ歩く。
それだけが彼に許された犯行だった。
涙を噛み殺しながら、前に進む。
前と言うのが、西なのか東なのかも怪しかった。
そもそも、一つの方向にきちんと進めているのかも定かではない。
当てもなく彷徨い、それでも日は暮れる。
火を点けることもできない彼は、疲れ果てて木にもたれかかっていた。
嗚咽と共に、後悔が脳裏をかすめる。
人に会えればすべての問題が解決するが、しかしそもそも人に会えるのだろうか。
いや、絶対に会えないだろう。ここはそういう場所である。
自分はこのまま野垂れ死にをするのだと、なんとなく思ってしまった。
そう思うと、眠ろうと思っても眠れない。
今の季節はそこそこには冷える時期であり、火が無ければ体温が維持できず夜であっても眠ることは難しい。
凍死するほどではないが、それは果たして幸運だったのか、不運だったのか。
真綿で首を絞められるように、ジャックは追い込まれていった。
死因となるものを何一つとして解決できず、しかし速やかに死ぬこともできない彼は、未練がましく杖を握って蹲っていた。
「……なんだ?」
気づけば、周囲には野犬が群がっていた。
夜行性なのかどうなのか、山を知らないジャックをしてよく知る犬が、よだれを垂らして周囲を囲んでいる。
叫びそうになるし、思わず泣きそうになる。このままでは、自分は食い殺されるだろう。まずはそれを避けねばならない。
少なくとも、そんな死は余りにも嫌だった。
「どうする、どうする!」
言語を持たぬ者に、この杖は意味を持たない。
というよりも、一体一体ずつしか支配できないこの杖は、この状況では余りにも無力。
元々、こうして囲まれた時点で彼に勝ち目はなかった。
「う~~~~!」
杖を振るうが、余りにも意味がない。
カミ族の作る道具は正規の手段以外では破壊できない特性を持つが、それは道具そのものが壊れないだけ。
大斧や魔剣の様に最初から武器の形をしているならともかく、ただの人間でも振り回せる程度の重さと長さしかない杖では、野犬の群れを撃退する力はない。
見上げれば木がある。もしかしたら、犬は登れないのかもしれない。
そう思って手を伸ばそうにも、しかし枝は遥か上だった。
「……!」
ジャックは、ようやく理解した。
この杖があれば、とりあえず木の上に登ることはできると。
星明りに照らされている、飢えた犬たち。
彼らを撃退する気力など、もはや彼にはない。
彼にあるのは、一メートルほどの長さのある杖を木の根元に置いて、それを踏み台にして木の枝に手を伸ばすことだった。
「届け!」
思い付きを、大急ぎで実行する。
とてもではないが、その目的に作られたとは思えないデザインの杖に、どうか倒れてくれるなと祈りながら、足をかけて枝にしがみつく。
必死の覚悟があったからか、何とか低い枝に手が届き、そのまま木の幹を蹴りながら登ることができた。
太い枝にしがみついて、直下を見下ろす。
そこには、幹に爪を立てて登ろうとしている犬たちがいた。
いや、もしかしたら狼かもしれない。
だが、どちらにしても些細な事だった。
この暗闇で、木から木へ飛び移ることなどできるわけもない。
この時ジャックは自ら退路のない樹上へ逃げ込んだ。
捕食者たちが諦めない限り、彼の未来は明るくない。
「どっか行ってくれ!」
そう叫ぶことが、彼の限界だった。
既に一晩、眠らずに彷徨っている。
このまま木の上で寝てしまえば、猿ではあるまいに落下するだろう。
そして、打ち所が悪くそのまま死ぬのか、或いは骨が折れるか。
そうでなくとも、犬に食われておしまいだろう。
一晩、寝ずに木の上で持ちこたえなければならない。
いや、犬たちが諦めるまでは持ちこたえなければならない。
涙目で懇願するが、彼らは自分以上に飢えているのかもしれない。
だとすれば、絶対に諦めないだろう。
「~~~?!」
犬に食われて死ぬ。
そう思っていた彼は、唐突な痛みで耳を抑えた。
音が聞こえるわけではないのだが、耳が痛いのだ。
下を見れば、自分だけではないらしく、犬たちも退散していく。
何かが起きた、何かが現れた、何かをした。
それを理解した彼は、恐る恐る目を開けて下を見た。
そこには、彼が待望していた人影があった。
二足歩行で、且つ服を着ている何者かが木の下にいたのだ。
「助かった!」
彼はそう叫んでいた。
操ろうなどとは欠片も思っていない。
ただ、助けてくれた人がいるのだと、安堵していた。
「ーーーおい、まてよ」
だが、それは裏切られた。
勝手に期待した彼は、期待を裏切られていた。
「それは、俺のだぞ!」
彼らは木の根元で倒れていた『糸の杖』を手にすると、そのまま足早に去っていった。
慌てて木の上から、落ちるように降りる。
しかし、彼が落下したころには人影はどこにもいなかった。
「待てよ、たすけてくれよおお!」
その声は、余りにも空しく夜の森の闇に飲み込まれていった。