辞職の経緯
神の使いを自認する、狂える竜がいた。
神といっても我らが母、エノオラ神ではない。エノオラすらも造りたもうた、万物の根源を成すなにかを崇拝していた。
かつて、揺籃と静寂の守護者と呼ばれたその竜。――閻夜は考えた。
力はいずれ霧散する。生は死に向かう。なれば、静寂こそが神の意思の完成であると。
閻夜は祈りを捧げた。地に唸る生者が、死を恐れぬようにと。生というその重荷を焼き払えるようにと。
羽ばたきは疫病を蒔き、その息は腐敗を呼んだ。
感染する死は生者の執着を癒すのだ。
民なき王がその王権を欲さぬように。
請願なき勇者が生まれ得ぬように。
戦いは苛烈を極めた。
清浄を司る列聖された銀の武具。それを以ってしても閻夜の汚濁は私の身を侵した。
「平穏を求める我ら、なぜ争う?」
打ち合いの最中、閻夜は問うた。
銀の槌を鉤爪めがけて振り下ろした。
「それが宿命なればこそ」
何度目かも分からぬ打撃。それが初めて奴の爪を砕き、汚汁が舞った。
怨嗟の唸り。閻夜は叫んだ。
「その宿命すらもいずれ静寂の塵に帰す! 何故!」
ドロドロと血を流す鉤爪を、魔法使いの炎が包んだ。腐敗を退ける鮮烈な業火だった。剥き出しの傷口に再び槌を振り下ろし、閻夜は体勢を崩した。
「揺籃は終わりのために編まれるわけではない。静寂はただその先にあるだけだ」
首をもたげた奴の横っ面を、続けざま打ち据える。腐敗の息が身を包む。その中で槌を振るった。
地に伏し息も途切れた喉奥に、宝石が光った。勇者はそれを見逃さなかった。エノオラの祝福の術を受け、跳躍した。
魔を払う銀剣が、竜鱗も口蓋も貫いて、宝石を打ち抜いた。閻夜の神性の源泉だ。
「なぜ抗いを選ぶ? なぜ侮蔑や迫害を欲する? わからない」
そして閻夜は腐臭を噴き上げた。力を失った閻夜は、自らの疫病を保持できなかった。苦悶のなか外皮を爛れさせ、地を掻く爪を剥ぎ落とし、翼膜を擦り合わせ唸った。
疫病は、命ある者に平等なる終焉をもたらす。確かに、神の御業であることに間違いはない。
その業を受けるのは閻夜も、私も例外ではなかった。
私が目を覚ましたのはひと月後らしい。
寝返りを打つと、発疹からぬめった汁と悪臭が飛び出た。その臭いで空の胃液を吐いた。一晩中吐き続けた。声帯は腫れ上がった。
声を上げることもできぬ中、仲間たちは清浄の加護を身につけながら、黄土色に染まった枕や、血まみれの肌着を取り替えた。
それでも、水を飲むことにすら苦痛をもたらす喉の腫脹と、汗すらかけぬ高熱は癒えなかった。
ときに神官が訪れ神に祈った。森の魔女が沼のボアの生き血と猿の頭蓋で軟膏を作り顔に塗りつけた。町医者が、ミントとレモングラス、春サザンカの花の煮汁を喉奥に噴霧した。
さらに3ヶ月が経った。その間、森の魔女が疫病で死んだと聞いた。
やっと立ち歩けるようになった。
仲間たちは豪奢な宿を貸し切っていた。あらゆる調度、神聖な捧げものが飾られていた。しかし、部屋にも便所にも鏡はなかった。
顔に触れれば、吹き出物が潰れ激痛が走った。その感触だけでも、ひどく爛れていることがわかった。
筋力は落ち、黒檀のドアすらも巨岩に思えた。
勇者はすぐに良くなると言った。正義に休息が不要なんてことはないと言った。
むしろ休息は神も聖職者も魔族すらも必要としていると。
焦る必要はまるでなく、どれほど私に負担をかけたかと詫び、復帰を待ち望んでいると繰り返し伝えた。また共に立とうと言ってくれた。
さらにひと月が経ち、私はパーティをやめると伝えた。山猪の顎肉が噛みちぎれなくなっていたからだ。




