十三.出方
――――シャラン、シャラン、シャラン……
定刻――屋敷の裏鈴が高く鳴り響いた。
「どうやら、お出ましだ」
客神の出迎えに、篁沙久が急ぎ玄関先まで向かう。
一息つき、緊張した面持ちでいざ彼が戸を開けると、目の前に広がっていたのは、――一面の濃霧。
一寸先まで真っ白な景色は、まるで雲海の中に迷い込んだよう。
そんな分厚い濃霧のカーテンの向こう側を目を凝らして見渡してみると、小さな影のようなものがゆらゆらと揺れているのが見えた。揺らぎながらも影は真っ直ぐ、徐々にこちらに近づき、やがてはっきりと形を現した。
「久しくね、篁沙久」
凛とした佇まいで霧から姿を現したのは、領巾を纏った垂髪の大和撫子。引き眉に垂れた目、筋の通った小さくも尖った鼻、控えめな薄い唇。顔の造形のみならず、白粉も塗らずにシミ一つ、しわ一つ存在しない、透明感に満ちたその美肌は、まるで面紗を纏っているよう。
「お待ち申し上げておりました、須勢理姫」
旦那の大国主命とは異なり、須勢理姫は一人の従者も引き連れず、単身で玉城神社を訪れた。
「さあ、どうぞ」
仰々しく女神に頭を下げ、篁沙久は厳格に歓迎の意を示し、彼女を廂の間へと招き入れた。
「ようこそおいでくださいました、須勢理姫様」
廂の間では、長らく彼女の到着を待っていた珠梨が迎え入れる。
平静を装い、促される通りに須勢理姫は部屋に敷かれた座布団へと足を向かわせる。だがその際、前を通り過ぎる時、彼女が御簾向こうを値踏みするような目で自分を一瞥したのを、珠梨は見逃さなかった。
「貴女が、贄姫ね。フフ、噂に違わず、なんと可愛らしいこと。名はなんと言うの?」
「三代目贄姫、名を珠梨と申します。此度は、我が国と発災予定であった東海大地震との悪縁を見事断ち切ったことによるご功績と伺いました。誠に感謝申し上げます」
謝辞の言葉とともに、珠梨は深々と頭を下げた。
「心ばかりではございますが、ご所望の品を奉納させて頂きたく存じます。――篁沙久」
須勢理姫の御前に、白布を掛けられた三宝が差し出された。
供えられたそれに、須勢理姫は早速手を伸ばし白布をめくり、生饌を検ると、須勢理姫はフッと笑みをこぼした。
「大したものですね。一目見ただけで、これまでの奉納品と質が違うのは明らか」
須勢理姫に献上したのは、この前収穫したばかりのカブ、大根、人参、そしてエンドウ豆。
嗜好として食事を楽しむ神は、この生饌を使用して料理を作り、食す。
人間界では、家庭菜園で作ったごく普通の野菜でも、ただ珠梨が作ったと言うだけで、食材の価値は雲泥の差に変わる。彼女から奉納された野菜で作られた料理は、言わば一見さんお断りの、京都高級料亭の中の特別料理クラスのそれに匹敵する。
収穫時期や、個数が限られているため、神位が低い神々では珠梨が生きている間にお目にかかれないほどに、生饌は神々から人気が高い。
「確かに、賜りました。天照大御神様には、何卒宜しくお伝え下さいませ」
「かしこまりました」
「これだけの量があれば、今度の宴でお客様に料理でお出しできそう。その方が、きっと主人も喜びましょう」
無意識か、意図的か……一瞬判別がつかない程、須勢理姫は旦那の話を自然に持ち出した。
だが、恐らくは後者……むしろ、今日はその話をするつもりで須勢理姫は玉城神社に足を運んだのだろう。
それで不安に感じた珠梨が一瞬、須勢理姫の背後に控える篁沙久の方に視線を向けた。それを察した篁沙久の表情も緊張し、強張らせた。
「ぜひ、皆々様でお召し上がり下さい」
ここは一先ず、意図に気づかないフリをして平静を装い、珠梨は社交辞令を挟むことで話題を切り替えようと試みた。しかし――
「今度、主人のお務めの関係で、宴を開く予定なの。そこでおもてなしとしてお出ししたら、きっと主人達もお喜びになるわ」
須勢理姫は、今日はどうしても、大国主命の話をしたいらしい。
「フフ。今日は稀代の贄姫からの供物の奉納日。そしてもう一つ、私は違う目的を持ってここに馳せ参じました。……とはいえ、こうもあからさまにしていれば、薄々気付いてはおられることでしょう。ですので率直に、まずは私から、贄姫にお渡ししたいものがあります」
指先一つ動かして、まるで手品のように須勢理姫はなにもないところから忽然と、風呂敷に包まれた荷物を顕現させた。
「篁沙久、こちらを贄姫に渡して頂けるかしら」
「中は先に私の方で検めることが条件になります」
「ええ、構わないわ」
須勢理姫から風呂敷を受け取り、篁沙久が中を開けて出てきたのは、山吹色の生地に、豪華絢爛な白菊柄があしらわれた反物だった。
「これは?」
「絹糸で織った反物です。縁結びの私が、糸を紡ぎ織った反には、悪縁を裁って良縁を結ぶ『悪縁切り』の力があります」
『悪縁切り』――その名のとおり、人間関係の悪縁や、酒やギャンブルなどの悪癖、今の不遇な状況から逃れるためなどの縁切りを行い、新たに良縁を結ぶ行為。
縁結びの神は、ただ新たに縁を結ぶだけでなく、古い縁を断ち切るという役割も担っている。
「どうぞ、お納めください」
神が自ら手掛けた物には、神通力が宿る。
人間界で言えば、神秘の力を宿した、まさに神からの贈り物。人智を超えた力を与えることは、世の均衡を崩壊に導く引き金。故に天界で作られた物を人に渡すことは、一部の例外を除き禁忌とされている。
「……なぜ、これを私に?」
「せめてもの贖罪でございます」
「『贖罪』?」
「先日、主人が贄姫に働いた無礼のそのお詫び。天照大御神様に報告が上がり、しばし贄姫への接見が禁止された主人の代わりに、この場を借りて正妻として直接御詫び申し上げに参りました」
そして、須勢理姫は徐ろに、深々と珠梨に頭を下げた。
「この度は、大変申し訳ありませんでした」
洗練された所作、申し訳なさと緊張を持ち合わせた表情に、真摯な謝罪の言葉……
この光景は、珠梨と篁沙久にとっては、まさに目を疑うものだった。
今まで、大国主命のように珠梨を手籠めにしようとした神は何人もいた。しかし、当然のように、それに対して詫びに訪れた神は誰一人としていない。
なぜなら、「奉納品は、神の所有物」が故――。
何千年と神々に根付いてきたその常識が、珠梨の『人』として本来守られるべき権利を、当たり前のように踏みにじってきた。
それ故に、例え表面上のパフォーマンスだったとしても、非を認め、頭を下げただけでも評価に値した。
……だが、ただ謝れば良いなどという、「世の中の仕組みが簡単でない」ことは、もうわざわざ口にせずとも分かるだろう。
況してや、幾度となく意表を突かれ、騙され、傷つけられてきた珠梨には、言葉や行動など繕えるものではもう、誰も信用できなくなってしまっていた。
そして、その審美眼は、確実と言えるほどに的確だった。
その証拠に、須勢理姫の致命的なミスを、珠梨は瞬時に見抜いた。
どんなに表情を繕えても、どんなに謝罪の意を表しても――『目は口ほどに物を語る』
「実は、主人もあれから後悔を募らせる日々を送るばかり。自分がしてしまったこととは言え、深く憂い、気分の落ち込みから少々床に伏せるようになってしまいました。閨の中で珠梨様への謝罪の言葉を口にしない日はございません。どうか、御慈悲を……!」
額が床に張り付くほどに、須勢理姫は深く珠梨に頭を下げ続けた。
しかし、たまに面が上がる度、一見誠心誠意に見える謝罪が、何かを目論むための布石にしか見えなくなるほどに間違いなく――――須勢理姫の瞳は、不気味に嗤っていた。




