第8話『デビルボアはこう食べる』
倒れたはずのデビルボアが、ぴくりと動いた。
そのわずかな痙攣だけで、俺の背中にぞわりと冷たいものが走る。
「……なあ」
声が、自分でも情けないくらい引きつっていた。俺は一歩、いや二歩、反射みたいに後ずさる。
「まだ生きてないか、これ」
巨体は横倒しのまま、ふしゅう、ふしゅうと熱い息みたいなものを吐いている。地面も、かすかに震えていた。さっきまで俺を轢き殺そうとしていた化け物の名残が、まだそこにある。
――なのに。
その横を、にすけがいつもの歩幅で普通に歩いていった。
「任せろ」
「任せろじゃねえって!!」
止めるより早い。
にすけはデビルボアの首元に膝をつき、迷いなく刃を走らせた。
ドッ、と嫌な音がした。
次の瞬間、血が一気に噴き出す。
「うわっ!?」
思わず顔を背ける。鼻先を鉄臭さがかすめた。熱い。生き物の熱だ。ついさっきまで動いていた命の熱が、そのまま飛び散ってきたみたいで、心臓が嫌な跳ね方をする。
だが、にすけは一歩も引かない。
噴き出す血の勢いを見て、刃の角度をわずかに変え、流れを整えている。あまりに自然で、あまりに手慣れていて、逆に寒気がした。
「血抜きだ」
「いや、見りゃ分かるけど! 今やる!?」
「今じゃなきゃ意味がない」
短く言い切って、にすけは視線を落としたまま続けた。
「血と一緒に、魔素も抜く」
……魔素抜き。
そういう理屈は聞いた。村人たちが自然発生型の魔獣を怖がる理由も、血をきちんと抜かないと危ないって話も、頭では分かってる。
でも。
「……なんかさ」
流れていく血を見て、俺は眉をひそめた。
「普通の血って感じ、しなくね?」
赤い。間違いなく赤い。けど、それだけじゃない。どこか濁ってる。重たい色だ。底の方に、赤黒い何かが淀んでるように見える。
にすけの手が、一瞬だけ止まった。
本当に、一瞬だけだ。
「……あとで分かる」
「なんだよ、それ。怖ぇんだけど」
俺がそう言っても、にすけはそれ以上説明しなかった。
その沈黙が、余計に嫌だった。
解体は、速かった。
いや、速いなんてもんじゃない。
一切の無駄がない。包丁の刃が入るたびに、肉が部位ごとに分かれていく。肩、背、腹、脂、内臓。どこに何があって、どこをどう切れば次に繋がるのか、それが最初から全部頭に入ってるみたいだった。
「おい……手慣れすぎだろ」
「慣れてるからな」
軽く言うが、軽くねえ。
俺が見ているのは、ただの後処理じゃない。技術だ。積み重ねだ。何十回、何百回とやってきた奴にしか出せない静けさだ。
しかも、相手はただの猪じゃない。さっきまで暴れ回っていた危険度A級の魔獣だぞ。
それを前にして、この落ち着きはなんだ。
怖い。
けど、目が離せない。
やがて取り出された肉を見て、俺は言葉を失った。
赤が濃い。深い。生々しいのに嫌な色じゃない。そこへ白い脂が走っている。
――いや、白じゃない。
よく見ると、その脂はほんのわずかに金を帯びていた。
「……これ、本当に食べ物なの?」
フィリーネが、いつもの強気を少しだけ失った声で言った。
にすけは手を止めない。
「だから食うんだよ」
一枚、引く。
また一枚。
薄く、正確に。刃の角度が一切ぶれない。肉が切られているというより、形を与えられていくみたいだった。
そして、皿の上で肉が円を描く。
重なって、広がって、また重なって。
赤と白と、わずかな金。
気づいた時には、そこに――花が咲いていた。
「……おい」
思わず声が漏れる。
「さっきまで俺ら殺そうとしてたやつだよな、それ……」
自分で言って、自分で意味が分からなくなる。
なんで魔獣の肉が、こんなに綺麗なんだよ。
フィリーネが、ぽつりと呟く。
「……きれい」
その声には、本気の驚きが混じっていた。
にすけは静かに手を止めると、亜空間から小さな包みを取り出した。丁寧に、まるで壊れ物でも扱うみたいに開く。
中にあったのは、味噌と、乾いた出汁。
見慣れた色だ。けど――少ない。
「……それ」
俺は気づく。
「前から使ってたやつだよな」
「ああ」
にすけは短く答えた。
「転生の時に、女神から持たされた分だ」
さらっと言うが、さらっと流していい話じゃない。
この世界に味噌も出汁もない。少なくとも、俺の知る限り、こんな香りを持つもんはない。
つまりそれは、にすけにとって“元いた世界の味”だ。
帰れない場所から、かろうじて持ってきた最後の欠片みたいなもんだ。
にすけの手が、その包みの上で一瞬だけ止まる。
本当に、ごく短い間だけ。
次の瞬間には、全部鍋に入れていた。
出汁が湯に溶ける。
味噌が広がる。
ふわり、と香りが立った。
――空気が変わる。
「んぐ……っ」
喉が勝手に鳴る。
ごくん。
自分でもはっきり分かるくらい、生唾を飲み込んでいた。
やばい。
腹が減ってるとか、そういう話じゃない。
肉の甘い匂い。味噌の深さ。出汁の静かな奥行き。それが一気に鼻の奥へ押し寄せてきて、体の内側を直接つかんでくる。
食え、と。
今すぐ、口に入れろ、と。
「なによこれ……」
フィリーネも、完全に香りに引き寄せられていた。目つきがいつもと違う。警戒していたはずなのに、もう鍋の方しか見ていない。
青い炎が、静かに揺れていた。
神銀製の魔導コンロの上で、土鍋がコト……コト……と小さく音を立てる。
その前に置かれた木皿の上で、肉の花が静かに咲いている。
「……は?」
思わず声が漏れた。
さっきまであのデカい猪だった。暴れて、突っ込んできて、壁を砕いて、俺を殺しかけた化け物だ。
その肉が――
花になっている。
薄く引かれた肉が幾重にも重なり、中心は巻かれ、外へ外へと開いている。赤と白。脂の縁にだけ、わずかに金が宿る。
「……なにこれ……」
フィリーネが息を呑む。
もう、強がりはどこにもなかった。ただ見ている。見惚れている。
武蔵は何も言わない。
ただ一歩近づいて、静かに頷いた。
「……整っている」
「いや、整ってるとかの話じゃねぇだろこれ……」
思わず突っ込んだが、言ってる途中で自分でも分かる。
整ってる。
たしかに、それが一番しっくりくる。
無駄がない。迷いがない。意味のない線が一つもない。美しいって、こういうことなのかもしれない。
にすけが皿を持ち上げる。
その動きにも、迷いがない。まるで最初からここまで見えていたみたいに。
「崩すな」
「は?」
次の瞬間。
ドン。
肉の花が、そのまま鍋の中へ乗せられた。
「いやそのまま入れんのかよ!?」
俺の叫びも無視して、鍋の中の出汁がゆらりと揺れる。
グツ……
グツグツ……
音が変わった。
空気が変わった。
肉が、動く。
じわり。
ゆっくりと。
閉じていた花びらが、熱を受けて少しずつほどけていく。
「……おい……」
思わず呟く。
咲いてる。
鍋の中で、花が咲いてる。
しかも崩れない。ただ煮えて終わるんじゃない。熱を受けて、完成に向かって開いている。
脂が溶ける。
透明になって、だしの中に落ちる。
その瞬間。
ボッ、と赤い火が立ち上がった。
「うおっ!?」
思わず肩が跳ねる。
ただ脂が落ちた反応じゃない。なんだ、今の火。
あのデビルボアが最後に吐いていた熱が、そのまま鍋に残って燃え上がったみたいだった。
赤い。生き物の怒りが火になって跳ねたような、不気味なくらい鮮やかな赤。
ぞくりとした。
うまそう、だけじゃない。
怖い。
なのに目が離せない。
「ほう、いまの火は…なるほど。
この料理、名付けて、紅蓮牡丹鍋だな」
フィリーネが、鍋を見たまま口を開く。
「ねえ、なんなの、その牡丹鍋っていうのは? イノシシ鍋じゃないの?」
にすけは、肉の煮え加減を見ながら答える。
「ああ、イノシシ鍋を牡丹鍋って言うのはな、諸説あるんだよ」
「しょ、諸説?」意外な返しに声が裏返る俺。
「俺のいた世界ではその昔、肉食を禁じられてた時代があってな。猪の肉を直接言わないための言い方、いわゆる隠語ってやつさ」
「ふ、ふ〜ん……」
フィリーネが素直に頷く。だが、にすけは軽く首を振った。
「まあ、一番分かりやすいのはこれだな」
そう言って、鍋の中の肉の花を指差す。
「こうやって並べると、牡丹って花に似てることからそう呼ばれた、っていうな」
「……へえ。牡丹って花、こっちの世界にはないかもだけど……洒落たネーミングね」
「食いもんに花の名前か……」
「他にも諸説あるんだが――」
にすけが、ちょうど火が通った肉を箸で持ち上げる。
「今はそんなことより」
そのまま流れるような手つきで木椀と箸を俺に差し出してきた。
「どんな味か、だろ?」
全員、黙った。
ごくん。
また唾を飲む。
俺は木椀を受け取って、箸で肉を口に運んだ。
はぐっ。(ん?な、な、なんだよこれ…)
柔らかい。
いや、柔らかいどころの話しじゃねえ。
噛んだ瞬間、ほどける。もう、最初からほどける前提でそこにあったみたいに、すっと消える。
脂が広がる。
甘い。
濃い。
舌に残らない。すっと溶けて、次の瞬間に出汁が来る。包む。まとめる。全部を一つにする。
肉の力強さ。脂の甘さ。味噌の深さ。出汁の奥行き。
全部が一緒になって、口の中で完成していた。
「……う、う、うめぇえええ……」
自然に、言葉が漏れた。
フィリーネが呟く。
「……なにこれ……甘い……」
完全にツンが消えている。自分で言って、自分で驚いてる顔だ。
武蔵も一口食べ、ゆっくりと頷いた。
「ふむ……整っている」
いや、便利だなお前のその言葉。
「ワフ……?」
ケルちゃんが、じっと鍋を見ていた。三つの首、三つの目が、肉の動きを追っている。
「……食うか」
にすけが肉の入った木椀を差し出す。
ケルちゃんはくんくんと匂いを嗅ぎ、ぱくっと一口。
「ワフ!!」
「ワフワフ!!」
「ワフゥ!!」
三つの首が一斉に反応し、尻尾がぶんぶん振られる。
「おいおいおい!」
思わず笑いがこぼれた。
「お前も分かるのかよそれ!」
それにしても……まだ口の中が、うまい。
もう、にすけの飯がうまいのは分かった。認めよう。
でも、それだけじゃない。
今、はっきり分かる。
これはただの“うまい飯”じゃない。
さっきまで俺を食おうとしてた魔獣だぞ?
それを、ここまで持ってくるか、普通。
血を抜いて。
魔素も抜いて。
肉を花にして。
火を通して。
ここまでの味にする。
工程とか技術とか、もうそんな言葉じゃ足りない。
そうだ。
――覚悟だ。
にすけは最初から決めてた。
“食材にする”って。
だから迷いがないんだ。
だから、この味になる。
俺は今まで、“強い奴”は見てきた。
武蔵みたいに斬るやつ。
フィリーネみたいに射抜くやつ。
でも、こいつは違う。
にすけは――人には脅威である魔物を価値に変える側の人間だ。
戦って終わりじゃない。
そこから先まで、全部やる。
それも、当たり前みたいな顔で。
正直……スケールが違う。
怖さすら感じる。
でも、同時に分かる。
この鍋の味は、偶然じゃない。
今まで積み上げてきた時間も、技術も、覚悟も、全部がここにある。
だから、うまい。
多分、そういうことなんだろうな。
――ふと、にすけを見る。
その顔には静かな満足感があった。
でも、それだけじゃない。
その奥。
まだ見ぬ未知の食材へ向けた、飢えたみたいな目。
食って終わりじゃない。
次を見てる目だ。
「これで味噌と出汁が尽きた。あとはこの世界の素材で、オリジナルを超えるもんを造るしかねえ」
「その素材探し、俺も手伝えばいいんだろ? 拒否権ねぇんだろ」
「ああ、そうだな。頼むぜ」
その返事が、妙に自然で。
こんなやり取りをしてる自分が少し誇らしくもあった。
そして、次の一口を入れた瞬間だった。
――ドクン。
胸の奥が、強く鳴った。
「……っ」
熱い。
体の内側が、じわっと熱を持つ。
さっきの“うまい”とは違う。
もっと奥。
「……なんだよ、これ……」
指先まで、じんわり力が満ちてくる。
ただの食事じゃない。
何かが、入り込んでくる感覚だ。
にすけの動きが止まった。
鍋じゃない。手元の肉だ。持ち上げて、断面をじっと見ている。視線が変わる。料理を見る目から、別の何かを見抜く目に。
「……妙だな」
「は?」
俺は思わず聞き返す。
にすけは短く言った。
「味はいい。火も通ってる。問題ない」
一拍。
「だが、抜けきってない」
「……何がだよ」
にすけは、肉の断面を指でなぞる。
ほんのわずか。
そこに、何かが残っている。
「……“混ざってる”」
「だから何がだって!?」
その時だった。
――カサカサカサカサ……!!
背筋が、ぞわっと粟立つ。
音が多い。
一つじゃない、複数だ。
「……おい、聞こえたか?」
俺が言うより早く、武蔵が静かに立ち上がった。視線は暗闇へ向けられている。
「多数の何かが……来る」
「はぁ!?」
フィリーネが弓に手をかける。俺も反射で短剣を握り直した。
空気が、一気に変わる。
さっきまであんなにうまかった鍋の湯気が、今は妙に白く、不気味に見えた。
それでも。
にすけだけは、動かない。
鍋の前に座ったまま。
視線は、肉。
「……やっぱりな」
ぽつり、と呟く。誰に向けたでもない声。
「この肉が証拠だ」
「は?」
俺は思わず振り向く。
こんな状況で何言ってんだ。
にすけは顔を上げない。
ただ、静かに言う。
「この迷宮、何かがおかしい」
その言葉と同時に。
湯気の向こうで、何かが動いた。
影が、増えている。
ぞくり、とした。
鍋の匂いはまだ甘いのに、その向こうから来る気配だけが、嫌に冷たい。
食うために戦う。
――そう思った直後に、食えない何かが来る。
この迷宮は、最初からそういう顔をしていたのかもしれない。
俺は短剣を強く握りしめた。
口の中にはまだ、紅蓮牡丹鍋の味が残っている。
なのに背中は、冷えていた。
――つづく。
――あとがき――
カゲル「……なあ」
にすけ「なんだ?」
カゲル「A級魔獣って、“食べてうめえ…”で終わる存在だったっけ?」
にすけ「ちゃんと血抜きして、下処理して、火を通せば大体うまい」
カゲル「雑!!」
フィリーネ「でも実際おいしかったじゃない」
カゲル「いや、そりゃ認めるけど! 認めるけどなんか悔しいんだよ!!」
武蔵「良き鍋であった」
カゲル「武蔵はもっとこう……なんかないのか!?」
武蔵「整っていた」
カゲル「万能かその言葉!!」
ケルちゃん「きゅるるるっ♪」
にすけ「ほら、ケルちゃんも満足してる」
カゲル「お前完全に餌付けされてるよな!?」
フィリーネ「というか、あの味噌ってそんなに貴重だったの?」
にすけ「ああ。もう使い切った。」
カゲル「え?」
にすけ「出汁も味噌も、元いた世界から持ち込めた最後の分だったからな」
フィリーネ「…………」
カゲル「いや急に重くなるのやめろ!?」
武蔵「だからこそ、あの鍋には価値がある」
カゲル「うわなんか締まりそうな空気出してきた!」
にすけ「まあ、無けりゃ作ればいい」
カゲル「軽っ!?」
フィリーネ「……でも、アンタなら本当に作りそうなのよね」
にすけ「当然だ。醤油も味噌も、必ずこの世界で再現してみせる」
カゲル「始まったよ和食職人の目だ……」
武蔵「道は、繋がっている」
カゲル「今日はポエム率高いな!?」
――というわけで。
第8話
「デビルボアはこう食べる」
ここまで読んでくれてありがとう。
戦って終わりじゃない。
倒した魔獣をどう食べるか。
そこまで含めて、この作品の“冒険”だったりする。
そして次からは、迷宮の異変も少しずつ動き始める。
“混ざってる”魔獣。
不気味に光る黒紫色の眼光。
低層に現れるはずのない存在。
少しずつ、この迷宮の奥が見えてくるかもしれない。
それと少しだけお知らせを。
この作品の漫画版も、Kindleで配信中だったりする。
鍋の湯気とか、にすけの解体とか、フィリーネのツン顔とか、ケルちゃんのわふわふ感とか……絵になるとまた違った空気が出てると思う。
気になったら、そっちもぜひ。
(検索→Kindle→凡人冒険者カゲル)
カゲル「結局最後は飯テロなんだよなこの作品!!」
ケルちゃん「わふ!きゅるるっ!」
⸻
また次の話で。




