二 抱擁
十月にもなると日が沈むのもだいぶ早く、既に西の空は赤く染まっている。
合唱コンクールが終わった日、帰り道でひとりになったところ、「彼女」に遇った。「彼女」は、今日は中学生の制服のようなものを着ていた。
「今日は合唱コンクールだった」
「そうなんだ。結果は?」
「優勝したよ。でも、特に揉め事もなく終わって、張り合いがなかったな」
「そんなものか」
コンクールの会場はぼくの最寄り駅から二駅ほど離れたところにあるホールで、たいした距離ではなかったのでぼくは歩いて帰っていた。稲無田崖線はこのあたりまで伸びている。ぼくらは崖の上を歩いた。崖沿いは大抵草木が生い茂っているもので、日没前の風景は一層暗く思えた。
「ぼくに抱き着いてくれないか」
「彼女」は嫌そうにこちらを睨んだ。
「試してみたいんだ。どんな気持ちになるか」
「乗り気じゃないな。あまりきみに触りたくない」
そう言いながら「彼女」はぼくに抱き着いてきた。ぼくも「彼女」の背中に手を回した。
「彼女」の身体は硬かった。確かに物体を抱いているのだという感じがした。まず自分の心臓の脈動を感じたが、それとは区別されて、「彼女」の心臓も脈打っているのが分かった。お互い少し息が荒いようだった。緊張していた。「彼女」の頭頂部からは汗のにおいがした。
「やっぱりぼくは嬉しいみたいだ」
喋ると自分の胸から「彼女」の肩へ振動が伝わって気持ち悪い。
「鳥肌がすごい」
「彼女」は嫌悪感むき出しの声を出した。
「初めて逢ったとき、きみはぼくに口づけをしただろう」
「きみがまだ幼かったからね。今じゃこんなに大きくなって、声も低くなって、毛深くなって……。もうしたくないよ」
「きみは子どもを産めるのか」
ぼくは「彼女」を抱く腕の力を強めた。
「知らないよ、そんなこと」
「知らないというのは、その身体で人間と交わったことがないから?」
「そうだよ。気味の悪いことを言うね」
段々会話の声は小さくなっていった。
「しかし、神と人間が交わるという話はそんなに珍しくもなさそうだぜ。それだけ生きていて、やってみようと考えたことはないのか。きみには交流すべき他の神なんていないみたいだし」
「ない。あたしの身体は確かに人間の女の形をしているから、子を産み得るんじゃないかって疑念は晴れない。それで、子を作る性行為というのは、あたしにはなぜかとても恐ろしいことのように思える」
ぼくは「彼女」を抱いたまま地面に倒れ、地面に手をついて「彼女」から少し距離をとった。「彼女」は怒りの表情を浮かべていた。
「今言うべきことではないかもしれないけれど、きみがあたしに危害を加えた場合、あたしは自分の身を守るために、きみを殺すからね」
殺す。何だかその言葉を久しぶりに聞いた気がした。
「きみはぼくに命を捧げろと言ったよね。勝手に殺したりはしないのか」
「それでは捧げたことにならないでしょ」
「ぼくがこのままいつまでも命を捧げないようならどうする?」
「あまり待ってはいられない。せいぜい中学卒業までだ。それを過ぎてもグズグズしているようなら、あたしはきみを殺して別の子を探すよ」
「ひょっとして、笹音さんもそうやって殺すつもりだった?」
「いや、笹音はただの友だちだった。あたしは男の子がいい……」
まだ「彼女」がぼくの命を欲しがる理由は聞いていない。時期や相手の性別にこだわるところを見ると、イナマロが関係しているのだろうか。
「かつてこの土地で捧げられていた生贄って、十五歳くらいの少年だったのかな。きみはササメが恋したイナマロを自分の手で殺せなかったから、彼と同じ年頃の少年の命を欲するようになったんじゃないか」
「そんなの、分かり切っていたことじゃない。恥ずかしいから、わざわざ言わないで」
「彼女」は本当に恥ずかしそうだった。
ぼくは「彼女」に覆い被さるのを止めて立ち上がった。
「神と付き合っているんだってこと、忘れない方がいい」
「彼女」は起き上がりながら言った。
「あたしに口づけされてから、きみは魅入られていた。きみがあたしを好きになったこと、果たして偶然だろうか。心配せずとも、きみはそのうち喜んで命を差し出すようになるよ」
「きみがぼくの心を操っていると?」
「そうなのかもね」
「思うに、恋は与えられるしかないものだ。その意味では、ぼくがきみに操られていようがいまいが、同じことだよ。ぼくはきみの身体が好きなんだ。きみの顔を見ていたいし、きみの腕に触りたい。きみの声を聞くとぼくはとても嬉しい」
「それなら、嫌われないよう努力してくれよ。あたしはきみを殺すことができるし、逆に、あたしがきみの前から去るということもできる。あたしも少女なのだから、あまり必死な感じだと、ちょっと怖い」
神に怖がられるというのは不思議な思いがした。
「彼女」はぼくに背を向けると、崖の下へと跳んで降りた。ぼくは急いで追おうとしたが、ここの崖は怪我をしないで飛び降りるには高すぎた。一番近くにあった階段を使って下った頃には、崖の下に「彼女」の姿はなかった。
遇ってからこんなに早く「彼女」が去ったのは多分初めてのことだった。




