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九 生贄

 ある朝、学校の下駄箱を覗くと手紙が入っていた。差出人はやはり晴だった。


『突然こんな手紙を出してごめんなさい。でも、どうしてもお願いしたいことがあるのです。

 以前話した通り、わたしは羊子が殺されたのだと考え、その犯人を探し当てようとしました。だけど羊子の死は事故だと判断されています。だからこれが殺人だとしたら完全犯罪。何の痕跡も残さず人を殺すなんてことができるのか。わたしは頭を抱えました。


 そんな中、五年前にもうちの中学の生徒が似たような不審死を遂げたことがあるという噂を耳にしました。それからわたしは友人の姉など、当時のことを知る人に対して聞き込みを始めました。情報を集めるうちに分かったところによると、その男子生徒はあるビルの非常階段から転落して亡くなったそうです。でも、実際にその場所に行ってみて、誤って落ちるような場所じゃないと思いました。ちょうど、羊子の発見された用水路が溺れ死ぬような場所ではなかったのと同様に。それで、五年前の事故と羊子の件は何か関係があるのではないかと思い始めました。


 聞き込みを続けているうちに、五年前の事故の真相を知るという人に出会いました。彼女はうちの中学の卒業生で、当時中三、今は大学二年生になります。彼女は事故について、あれは殺人で、その犯人を知っているとも言いました。犯人は、当時彼女が仲良くしていた女の子。普通の人にはないような不思議な力をもっているそうです。


 こんなオカルトのような話、確かに信じがたいですが、五年前の、そして羊子の件が殺人だとすれば、何か人間を超えた力を想定するしかないのです。


 それから更に調べを続け、その女の子の正体ももう検討がついています。そう、献が以前話していた不思議な女の子こそその子だとわたしは思っています。友だちを人殺し扱いされて気を悪くしないでとは言いません。でも、わたしはどうしても羊子の死の真相を知りたいのです。


 だから、これからその女の子に会うことがあれば、そのときわたしを呼んでもらえないでしょうか。会いたいのです。きっといつでも駆けつけます。わたしのメールアドレスは……』


 晴が書いたとは思えないような理性的な文章だった。図書館のときといい、最近の晴の態度はちょっと怖いほど冷静だ。


 「彼女」に会いたい、というのが晴の望みらしいが、ぼく自身、祭の夜以降「彼女」に会っていなかった。晴が自分の連絡先だけを示して具体的に会う日時を決めようとしなかったのは、このようにいつ会えるか分からないという「彼女」の性質を考慮してのことか。


 羊子を殺した犯人が「彼女」であるという晴の主張に、ぼくはあまり反感を覚えなかった。もういい加減、「彼女」を普通の人間と見なすのは難しい。「彼女」は歳を取らず、この街のことは何でも知っていて、どこにでも現れ、勝手に消えるのだ。何の痕跡も残さずに人を殺すことくらいできてもおかしくはない。


 ただ、可能性は否定できないというだけで、ぼくはやっぱり「彼女」が羊子を殺したとは思わないし、そんなこと、あってほしくない。だから晴が「彼女」に会いたいというのなら会ってもらおう。その上で「彼女」は犯人などではないと言ってもらおう。


 結局次に「彼女」と遇ったのは第一学期の終業式の日、夏休みの始まりの日だった。学校は午前中に終わり、自宅で昼食をとったぼくは散歩に出かけた。そんなときのこと。珍しくぼくの家の近くで、白い服を着た「彼女」に遇った。


 「彼女」の顔を見て、最後に会ったのが祭の夜だったことを思い出した。若干の気まずさを感じて黙っていたが、「彼女」も何も喋らないのでぼくの方から口を開いた。


「きみに会いたいって人がいる」

「うん。だから急がなきゃ」


 そう応えると「彼女」はぼくに背を向けて歩き始めた。ぼくはわけの分からないままその後を負った。

 不思議だった。「彼女」はただ歩いているだけに見えるのに、ぼくとの距離はどんどん開いていく。焦って走っても一向に追いつけない。「彼女」はぼくと一定の距離を保ちながら、それでいてぼくの視界から消えることはせずに、悠々と歩き続けた。


 ぼくらが辿り着いたのは口折川だった。相変わらずこの辺りの河原には人気がない。「彼女」が川堤の上で立ち止まったのでぼくはようやく追いつくことができた。


 息を整えながら周囲を見回すと、橋の下に二つの人影があった。見知った顔だ。晴と念夫。その組み合わせを見たとき、まずい予感がした。予感はすぐに現実のものとなった。


 念夫が晴を殴った。晴は倒れた。念夫は晴の顔を強く踏んだ。


 ぼくは川堤の斜面を駆け降りた。急いで橋の下まで向かった。念夫はダンゴムシのように身を庇う晴の頭を蹴り続けていた。ぼくは無我夢中で念夫を突き飛ばした。「やめろ」とぼくが叫ぶと、念夫は冷たい眼でこちらを睨んだ。


「きみは知っていたんだろう。こいつは羊子をいじめていた。こいつが羊子を殺したんだ」


 念夫は怒声を上げた。普段の、不良に立ち向かうときでも平静さを失わないような彼からは想像もできないほどの剣幕だった。そしてぼくは、ああ、と思った。きっといじめの共犯者の誰かが口を割ったのだろう。あの日いじめの事実を伏せたぼくの判断は極めて正しかった。


 再び念夫は晴に蹴りかかった。ぼくはとっさに彼を羽交い絞めにして抑えた。


「逃げろ」


 砂利の上にうずくまっている晴に言う。その顔は傷だらけで、鼻と口からの出血で白いワイシャツはひどく汚れていた。


「わたしが殴られた直後に献が来たってことは、そこにいるんだね。例の女の子」


 晴は悠長にもそんなことを呟いて起き上がった。


「あの人は言った。五年前、自分の友だちを殺したのは当時仲良くしていた女の子で、その子は人にはない不思議な力をもっていたと」


 その声は暴行を受けて地に伏していたとは思えないほどしっかりしたものだった。だが今はそんな話をしている場合じゃない。


「早くしろ。殺されるぞ」

「その話を聞いて、わたしは、不思議な女の子の正体は妖怪や悪霊の類だと考え、この街の昔を知る人に尋ねたり、本で調べたりした。そして辿り着いた結論、わたしが思う羊子殺しの犯人、それはこの地に根差す祟り神、カザカミだ」


 カザカミ。その名はぼくの思考を一瞬凍結させた。


「その通りだよ」


 後ろから聞こえてきた声。それは今まさに羊子殺しの犯人として名指されている「彼女」のものだった。


「献、あたしの言葉を伝えてあげて。あなたの考えは正しいと。羊子を殺したのはこのあたしだと」

「きみまで変なことを言うな」


 手一杯だった。必死に念夫を抑えているのに晴は逃げようとしない。そんな状況で「彼女」が人殺しだなんて話を受け容れる余裕はなかった。


「やっぱりそこにいるんだね」


 今度は晴が叫ぶ。


「神さま。いらっしゃるんだったらわたしに姿を見せてほしい。どんな形でもいい。わたしにあなたを信じさせてほしい」


 晴には「彼女」が見えていない?


 そのとき、体力に限界がきた。念夫はぼくの腕を振り払って晴の顔面に殴りかかった。


「いいよ」


 「彼女」の明るい声が響いた。


 念夫の拳は晴に届かなかった。


 念夫の首から血が噴き出た。勢いよく、赤い筋を成して。足がもつれ、何歩か後退した。身体全体が痙攣した。仰向けに倒れた。手足はしばらくびくびくと動いていたが、やがて静かになった。それでも血は吹き出たままだった。


 晴はそんな念夫の様子を真剣に見つめていたが、やがて笑顔を浮かべた。


「やっぱり神さまはいたんだ」


 何の混じりけもない声。血にまみれたその顔は穏やかだった。


「羊子は事故で死んだんじゃない。自殺したのでもない。神さまの生贄になったんだ!」


 晴がそんなことを喋ったあたりで、目の前で起こっていることの意味がようやくぼくの頭に入ってきた。


 走り出していた。悲鳴とも慟哭ともつかない声を上げながら。逃げるため。目の前の悲劇から。ぼく自身に対する脅威から。


 晴は全て正しかった。「彼女」は、カザカミは祟り神。いとも簡単に、自由自在に、人の命を奪う。念夫は血を噴き出して倒れた。羊子もきっとあんな風に容易く殺されたのだろう。ずっとぼくの隣を歩いていた女の子に。


 羊子や念夫が殺されたことには激しい悲しみと憤りを感じるが、それ以上に、次に殺されるのはぼくではないか、という恐怖が身体を支配していた。「彼女」はいつもぼくの傍にいた。「彼女」がちょっと気まぐれを起こせばぼくの頭も吹っ飛んでいたかもしれない。こうしている今だって、いつ殺されるか分からないのだ。


 何も考えずに走っていた。けれど気が付いたら橋の上に逃げ込んでいた。口折川を跨ぐ橋。なんとなくこれを渡り切れば助かる気がした。だって向こう岸は別の街。ぼくは「彼女」と共にこの街の外へ出たことはないのだ。


 そのとき、ぼくの足が止まった。はっと振り返る。橋のコンクリートの上に陽炎が立っている。そして揺らぐ景色の奥に、夏の日差しのもとで眩しく輝く「彼女」がいた。


 「彼女」は微笑んでいた。同時に、寂しげにも見えた。祭の夜、ぼくが図らずして「彼女」を神さまと呼んだときと同様に。


 ぼくは自分の感情が信じられなかった。今すぐ逃げなきゃいけないのに、向こう岸は安全なのかもしれないのに、足が動かない。いや、動きたくないのだ。


 あそこにいるのは恐ろしい祟り神。羊子と念夫、ぼくの同級生を二人も殺した。命を命と思わず軽々と奪ってしまう、人智を超えた存在。ぼくだって今すぐにでも殺されるかもしれない。なのに、あの立ち姿を見て湧いてくるこの感覚はなんだ。つま先や肘を快感に似た痺れが襲い、胸の奥が炙られているように熱い。「彼女」に関する視覚情報が全身の筋肉に浸透していくようなこの感覚は。


 ああ、なんということだ、こんな状況でも、これだけの悲しみと恐怖の中でも、全く愚かなことに、依然として、ぼくは、「彼女」のことが好きなのだ。


 踏み出した。どうしようもなく不合理な一歩を。

 

 引き返した。ぼくの住む街、悲しみと命の危険が遍在する街、大好きな「彼女」がいるその街へ。


 川堤のところまで戻ったときにはもう「彼女」はいなくなっていた。「彼女」自身が陽炎であったかのように。だけどその幻は、またすぐにぼくの前に現れるのだろう。陰惨な事件など知らないというような無邪気な顔で。ぼくを惹きつけてやまない可愛い顔で。


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