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序 段丘崖と少女

 明るい夏の記憶。ぼくがこの(いな)無田(しだ)市に越してきた七月のこと。


 麦藁帽をかぶり、肩に水筒を提げ、サンダルに足を突っ込んで街へ駆け出した。子どもならではの冒険心。まだまだ知らないことが多かったこの土地の隅々まで開拓しようと、たった独りで走り回った。


 その日の収穫は大きかった。雑木林。空を仰いでも視界の半分は枝葉で覆われる。外から見てもかなり広いことが推測され、探検には絶好の場所だ、とぼくは早速林の中に飛び込んだ。


 入口の辺りは石造りの足場があったり、看板が立っていたりとまだ整備されている感じがあった。しかし数分も歩けば周囲から人の匂いは消える。順路らしい道もなく、せいぜい土の踏みならされた跡がある程度。


 そんな景色の中だから浮き立って見えたのだろう。そこだけ木の生えていない円形の空間。ぽつんと立つ古びた祠。付属する鳥居からはすっかり色が落ちている。唐突な人工物の登場に少し驚いて、ぼくは祠の周りをぐるりと回り、しばらく観察した。しかしこの小さな祭祀場に何の特徴もなく、ぼくはすぐに興味を失って林の更なる奥へと足を進めた。


 それからの発見は期待以上だった。木の幹には七色に輝く珍しい虫。小池には素早く飛ぶ青い鳥。住宅街ばかりが広がっていると思われたこの街に、こんなに豊かな自然が残っていたなんて知らなかった。ぼくは夢中になって林を巡った。


 影がわずかに東に伸び始めた頃、散策に飽きたぼくはふと辺りを見回した。足は疲れて、汗もたくさんかいた。お昼の時間も過ぎているし、そろそろ家に戻ってご飯を食べよう。そう思って帰り道を探した。


 しまった、と思った。どこから入ってきたか分からない。どの方向も同じように見える。とりあえず林を出ようと、行き当たりばったりで足を進めた。時間は掛かったものの、脱出は難なく成し遂げられた。


 頭上を覆う木々がなくなって急に光が強くなった。その眩しさにほっとしたのも束の間、目の前に広がっている住宅街は全く見覚えのないものだった。完全に道に迷ってしまったのだと、そのとき初めて自覚した。


 急に焦りの気持ちが湧いてきた。そもそもこの林を見つけるまでどれくらい掛かっただろう。ここが家からかなり遠い場所であるのは間違いない。そんなところから、どれが目指すべき方向なのかも分からない状況で、無事に自宅まで辿り着けるなんてとても思えなかった。


 少し、途方に暮れた。為すべくもなく、空を見上げた。ため息ひとつ。


「道に迷ったの?」


 最初、どこから話し掛けられているのか分からなかった。目線を水平に戻し、右を向き、左を向いても誰もいないので空耳かと考えた瞬間、真後ろから「こっち」という声がした。


 振り返ると女の人がいた。背丈はぼくより頭ひとつ分高く、淡い橙のワンピースを身に付けている。結ばれていない髪は肩にかかり、黒いのだろうけど陽の光を受けて少し茶色っぽく見える。顔は全体的に平べったい印象で、微笑みのせいか、くしゃっと潰れた感じがする。細い目の奥から覗く瞳は暗く、どこまでも落ち込んでゆくようだ。


「連れてったげる」


 夏蜜柑のように甘い声がして、ぼくは今彼女に話し掛けられているのだということを思い出した。


 何か応えようとしたが、それよりも早く彼女は歩き始めた。


 知らない人についていくな、とは小さい頃から言われているけれど、このときは見えない糸で引っ張られているような、逆らい難い穏やかな力に身体を動かされているような、そんな不思議な感じがして、気がついたときには彼女と並んで歩いていた。


「どうしてぼくが迷ってるって分かったの」


 ぼくは素朴に尋ねた。


「そりゃ、分かるよ。だって、きみは来たばかりでしょ。この街に」

「何で知ってる」

「ここに住んで長いから。この土地のことなら、だいたい分かるよ」


 意味がよく分からなかった。


 程なくしてぼくらは小さな崖を見上げた。上側からは木の枝が張り出し、足元には小川が走る。そんな自然の造形を無視して、道路は崖の上と下を結んでいる。来たときも、同じ場所ではないけれど似たような風景を目にした気がした。


「この崖の連なり。稲無田崖線って言うんだ」

「がいせん?」


 聞き慣れない言葉に首を傾げる。


「崖の線。この街は(くち)(おり)(がわ)の河岸段丘上にある。この地に人々が定住し始めたのは縄文時代、この段丘崖下の水場を中心とした集落が発生した。きみの住んでいる小里野(おりの)段丘面に降った雨は地面に染み込んで地下水脈を成し、この崖から湧き出る。稲無田湧水は原始の時代から現在に至るまで、人々の暮らしを支える重要な水源となった。だから崖は大事なんだよ」


 社会の授業でも始まったのかと思った。彼女の使う言葉は小難しくて理解できないし、どうして今そんな説明をするのかも分からなかった。


「この街が好きなんだね」


 何となく思いついたことを口走った。


「うん、大好き。……今のあたしの説明、たぶんきみは学校の勉強みたいで堅苦しいと思ってる。だけどね、長い間棲んでいるとそんな言葉もいとおしく思えてくるんだよ。切ないくらいに」


 彼女の応答は、やはりよく分からないものだった。


 それから坂を上り、車通りの多い道路と線路を越えると、周囲の風景は見覚えのあるものとなってきた。


「着いたよ」


 彼女の声に顔を上げると少し遠くにぼくの家が見えた。

 驚いた。家の場所に関することなんて何も話さなかった。それなのに彼女はぼくをここまで連れてきてしまった。


「思ってたより近い」

「あの林に来るまでのきみは、だいぶ回り道をしていたんだね」


 彼女は笑った。

 ともあれ、助かった。お礼を言わなければならない。ぼくは深く息を吸った。


「きみ、誰なの」


 一瞬、それが自分の声だと分からなかった。あれ、おかしい。「ありがとう」って言おうとしたはずなのに。彼女が一体どこの誰であるのか、確かに気になってはいたけれど。言葉が勝手に口をついて出た。どうして。


「名前を訊いているのかな」

「うん」


 それからしばらく、互いに黙っていた。ずっと喋らない彼女を見て、お母さんが、人に名前を訊くときは自分から名乗るもの、と言っていたのを思い出した。


「ぼくの名前は――」


 口を開きかけたそのとき、ぼくの唇は塞がれた。彼女の睫毛がすごく近くにあった。ほんの短い間の出来事。はっと忘れていた呼吸を再開した頃には彼女の顔は元通り見上げる位置にあった。ちょっと当たっただけ。それでも柔らかい感触がずっと口周りに残っていた。


 あまりにも突然のことで、動転する余裕もなかった。ある意味冷静な放心状態で、呆けたように口を小さく開けて立ち尽くす。


「名前というのは特別な言葉なんだ。本当に力強く名を呼べば、その人を自分のものにすることだってできる。だから、あまり簡単に名乗らない方がいい。特に、あたしのような者に対しては」


 彼女の話していることの意味は、もちろん頭に入ってこなかった。


「きっと、そのうちまた会えるよ。同じ街に住んでいるんだから」


 そう言うと「じゃあね」と手を振って彼女は曲がり角に消えた。ぼうっとしていたぼくは我に返り、慌てて後を追った。


「ありがとう」


 大声を上げながら彼女の曲がった方向を見たが、道には既に誰もいなかった。

 左手の人差し指と中指で唇をさすった後、掌を見つめた。別れ際、ぼくに向かって振られた彼女の左手には、薬指が無かったな、などと思い出しながら。


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