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第三章 計画の実行

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モールス信号の音が部屋に鳴り響いた。

△△病院の前に、双三郎は立っていた。


早朝四時。まだ空は藍色を残していて、街灯だけが白く浮いている。手にはスーツケースを一つ。中身は空だった。


──これでいいのか。


何度も自分に問うた答えは、いつも同じところに落ちていく。他に方法がない。それだけだった。


受付には、思いのほか早くから人がいた。この時間に面会などできるはずがない。分かっていながら、双三郎は迷わず足を進めた。


「すみません。◯◯研究所の者です。臨床のご相談で参りました」


我ながら苦しい言い訳だと思った。この時間に、この格好で、まともに取り合ってもらえるはずがない。


けれど、受付の女性は特に表情を変えず、あっさりと頷いた。


「どうぞ」


拍子抜けするほど簡単だった。


その直後、どこからともなく声が聞こえた気がした。低く、感情のない声。


「――通せ」


空耳だろうか。振り返っても、誰もいない。双三郎は気を取り直し、寝静まった病棟の廊下を、足音を殺して歩いた。


小児科病棟。ガラス越しに眠る子どもたちの顔を、一人ずつ確かめていく。


やがて、その子を見つけた。


年齢も、輪郭も、寝顔の作りも──陸に似ている。カルテには、明後日退院予定と記されていた。


これ以上ないタイミングだった。まるで、誰かに用意されていたかのように。


点滴の管をそっと外し、眠ったままの体をスーツケースに横たえる。ファスナーを閉める手が、わずかに震えていた。


受付を通り抜けるとき、また同じ声がした。


「――通せ」


今度は、はっきりと自分に向けられたものではないと分かった。それは受付の女性に向けられていた。


双三郎はそのまま何事もなく病院を出た。駐車場に停めていた車に乗り込み、山小屋を目指す。二時間の道のりを、双三郎はほとんど何も考えずに運転した。考えてしまえば、引き返したくなる気がしたから。


山小屋に着いたのは、日が高く昇った頃だった。


台所の床板を外し、隠し階段を露わにする。大人一人がやっと通れる、コンクリートの狭い通路。その先の三畳の部屋に、スーツケースごと運び込んだ。


子どもを取り出し、寝かせる。呼吸はまだ穏やかだった。


双三郎は育児日記を開き、震える手で一行だけ書いた。


『もう、前のようにはさせない』


やがて、子どもが目を覚ました。


「……ここ、どこ……お母さんは……」


か細い声だった。双三郎は、その声に応えなかった。ただ、静かに、繰り返した。


「お前は、陸だ」


子どもは首を振った。「違う、僕は」


「お前は、陸だ」


何度も。何度も。


拒む声は、やがて泣き声に変わり、泣き声はやがて掠れ、掠れた声はやがて、何かを諦めたような沈黙に変わっていった。


双三郎はその間、ずっと同じ言葉だけを繰り返し続けた。自分の声が、もう自分のものではないような気がした。まるで、誰か別のものに操られているような。


数時間後。ようやく子どもは、小さく頷いた。


「……ぼく、は……陸」


双三郎は、家族の名前を一つずつ教え始めた。父。母。祖父。これから住む家。これから生きる人生。


すべてを終えたとき、外はもう暗かった。今日はこのまま引き渡さず、一晩明けてから家族のもとへ連れていくことにした。


地下室を出て、双三郎は小屋の中で眠りについた。


眠っている間、地下室から獣のような叫び声と、何かを壁に叩きつけるような音が聞こえていた気がする。だが、いつの間にかそれも止み、静寂だけが残った。


翌朝。


地下室に降りると、子どもはベッドの上で、静かに眠っていた。


そして、壁一面に、爪で──あるいは指先から流れた血で──こう書かれていた。


『おまえは だれ』

『ぼくの なまえを かえせ』


双三郎はその場に立ち尽くした。


自分がしたことの意味を、そのときになって、ようやく理解した。


けれど、もう遅かった。


震える手で、眠ったままの子どもを再びスーツケースに収める。山小屋を後にするとき、双三郎は振り返らなかった。


車を走らせながら、ふと車載ナビの日付表示が目に入った。


二〇〇六年、七月。


数日後には、この子は「陸」として、両親のもとへ帰る。


そして誰も――本当に、誰も知らないまま。

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