第一章 はじまりの朝
これは、とある研究者の人生の一筋である。
これは、とある研究者が失ったものを取り戻そうとした記録である。
双三郎は、数字を信じる人間だった。
研究室の時計が示す時間。
実験装置が記録する数値。
顕微鏡越しに見える小さな変化。
感情という曖昧なものより、数字の方が正しい。
少なくとも、あの日まではそう思っていた。
「もうすぐ生まれるんだよな」
珍しく研究室を出た双三郎は、駅へ向かう道を急いでいた。
娘の明音に子供が生まれる。
研究以外のことで予定を変えることなど、ほとんどなかった彼にとって、それは特別な日だった。
病院へ向かう途中、ふと花屋の前で足を止めた。
何か贈り物を持って行きたい。
研究者としてではなく、祖父になる人間として。
「すみません。胡蝶蘭はありますか」
店員は申し訳なさそうに首を振った。
「すみません。先ほど最後の一つが売れてしまって……ダリアならございます」
ダリア。
双三郎はその名前を聞いて少し考えた。
花言葉は、優雅、気品、華麗。
悪くない。
「では、それをください」
彼は花を受け取った。
その時、双三郎は知らなかった。
本当の意味で花言葉を理解していなかったことを。
知識として知っていることと、経験として理解することは違う。
その違いを、彼は後になって思い知ることになる。
――いや。
分かっているつもりだった。
その程度だったのだ。
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病院に到着すると、受付の女性は一瞬表情を曇らせた。
「石川明音さんのお父様ですね」
その言葉に、嫌な予感がした。
案内された先には、「集中治療室」と書かれた扉があった。
その前で、娘の夫である涼介が膝をついていた。
「涼介……」
彼は顔を上げた。
目の下には深い疲れがあった。
その時、扉が開いた。
看護師が出てくる。
「難しい状況です」
双三郎の手に力が入った。
「理由は?」
看護師は少し迷った後、答えた。
「生まれてくるお子さんに、先天性の疾患が確認されています」
「治療できるんですか」
「……現在、判断できません」
その言葉だけを残して、看護師は戻っていった。
双三郎は手に持った花を見た。
いつの間にか、違和感があった。
ダリアを買ったはずなのに。
花の形が違う。
調べてみる。
そこにあった名前は――花蘇芳。
花言葉は。
「裏切り」
双三郎はスマートフォンを閉じた。
今はそんなことを考える時間ではない。
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数時間後。
泣き声が聞こえた。
小さな、小さな命の声だった。
「おめでとうございます」
医師が言った。
娘も、孫も生きている。
それだけで十分だった。
病室で初めて赤ん坊を見た時、双三郎は言葉を失った。
小さい。
あまりにも小さい。
研究室で何千ものデータを見てきた彼でも、その存在を数値では表せなかった。
「名前……どうする?」
涼介が聞いた。
双三郎は少し考えた。
「蓮というのはどうだろう」
明音は首を横に振った。
「陸がいい」
「陸?」
「大地みたいに、強く生きてほしいから」
その名前を聞いた瞬間、双三郎は初めて思った。
この子の未来を守りたい。
研究者ではなく、祖父として。
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しかし、その未来は長く続かなかった。
陸は十一日間しか生きられなかった。
双三郎は毎日記録を書いた。
体重。
睡眠時間。
授乳回数。
数字にすれば、失わずに済む気がした。
一日目。
体重 3055g。
睡眠時間 十二時間。
授乳回数 十一回。
三日目。
体重 2988g。
数字は変化していった。
だが、命の時間だけは戻せなかった。
十一日目。
陸は静かになった。
その日から、双三郎は研究室に戻れなくなった。
机の上には、白紙の研究資料ではなく、一冊の育児日記が置かれた。
何度も読む。
何度も確認する。
そこには陸が生きていた証拠がある。
しかし、証拠は過去を変えられない。
だから双三郎は考えた。
医学では無理だった。
ならば。
科学なら。
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八年後。
双三郎の研究室には、誰にも見せていない資料があった。
タイトルは、
「生命情報の再構築に関する研究」
彼はもう、陸を忘れるために研究しているのではなかった。
陸を取り戻すために研究していた。
倫理。
法律。
常識。
その全てが彼の前に壁として立ちはだかった。
だが、彼には一つだけ確信があった。
失ったものを取り戻す方法が存在するなら。
誰かが最初の一歩を踏み出さなければならない。
その役目は、自分だ。
机の上には、八年前の育児日記。
そして最後のページには、たった一行だけ書かれていた。
「陸を、もう一度。」
双三郎は電話を手に取った。
相手は、明音の夫。
石川涼介。
これは、二人の人生を壊す電話になる。
それでも。
やるしかなかった。
彼には、もうそれしか残されていなかった。




