【参話】了
翌日は何だか家の中が慌しかった。
家の中とは、僕の家の中。
そして朝からあの嫌な臭いが家中に立ち込めていた。
僕は何だか落ち着かなくて、学校に行くのを止めた。
最近は学校にいても全然面白くない。
みんなが僕を無視して、先生までもが僕を存在しないかのように扱う。
田舎の学校の方が、イジメが悪質なのだろうか。そして、ちょっぴり都会から転校してきた僕は、ついにその標的になってしまったのだろうか?
僕は家から出る気がしなくて、夕暮れまでずっと部屋にいた。
一階からは、普段には無い慌しさと静けさが交互に混ざり合って、ねじれたような音を立てていた。
影が長く伸びるその時間、東側の窓を覗くと、彼女がいた。
僕に気付くと、またあの笑顔。
どこか愁いで、でも朗らか。
僕をじっと見つめている彼女は、ほんとうに死んでいるのだろうか?
肩に着く黒髪が少し揺れていた。
瞬きをする。
僕に何か言いたげで、その眼差しに吸い込まれそうだ。
僕はただ彼女の少し潤んだような黒い瞳を見つめ返していた。
不思議と恐怖は無い。だって、もう暫く前から会っている娘だ。
一階の喧騒は完全に消えて、何時もの静けさの中にただ、外を飛び交うツバメの声だけが響いている。
彼女はふと、通り過ぎるツバメを視線で追った。
僕も思わず視線でそれを追う。
その先に見えた黒服の集団は、ゆっくりとした足取りで住宅の陰に消えていった。
彼女は再び僕を見つめると、今度は笑っていなかった。
ゆっくりと瞬きする。
陽射しは弱まり、部屋の中に暗がりが出来る。
一階からは相変わらず嫌な臭いが漂っている。
彼女が僕の家の玄関を見下ろしていた。
僕は何故彼女が僕の家の玄関を見つめているのか不思議に思った。
そう言えば、さっきから頻繁に玄関ドアが開閉する音が聞こえている。
僕は彼女の視線を辿るようにベランダへ出て玄関を覗き込む。
外はまだ、思いの外明るかった。
夕陽が沈みかけてはいたけれど、緋色の蒼穹にはまだ星は見えない。
母親の姿がチラリと見える。
黒いスーツを着た男の人と、黒いワンピースを着た女の人が出て来た。
西側のお隣の伊勢崎さん夫婦だ。
「今日は有難う御座います」
「元気出してね。何でも相談して」
話好きのあのおばさんが、少なめに言葉を交わして庭を出て行く。
その後にこの前のだれだかわからないおばさんが出て来た。
おそらく、あの人が田辺さんだろうと僕は思った。
「じゃぁ、また」
田辺さんは庭先でこちらを見上げた。
辺りはほの暗くなってきた。
ほの暗い中に佇む田辺さんは、また、少し哀しそうな笑みを僕に向ける。玄関の明かりに、白い真珠のネックレスが静かに光を放っている。
今日は誰かの命日だっただろうか……。
婆ちゃんが亡くなったのは冬だし、爺ちゃんは僕が生まれて直ぐの頃に他界している。
それに、さっきの集団の中に、佐々木先生がいたような気もする。
僕は何だか心細くなって東側の窓を再び覗く。
隣の家の窓に、もう彼女の姿は無かった。
夜、一階の全てを、あの嫌な臭いが満たしている。
僕は電気も点けずに廊下を歩いていた。
リビングはひっそりと静まり返って、誰の気配もしない。
キッチンの食卓に僕の分の夕食は無かった。
僕は家族の気配を探って、再び歩く。
和室から両親の微かな声が聞こえた。
「もう四十九日だから、ご飯の用意もやめよう」
「そうね……そうするわ。でも、部屋はずっとあのままがいいわ」
「ああ、そうしよう」
客間の和室から零れ出る悪臭。
僕はずっとここへ入る事を拒んできた。
それでも急に人恋しくて、僕は両親の顔が見たくなった。
息を停める思いで、僕は和室の戸を開け中に入った。咽るように立ち込める、焼香の香気
両親は並んで正座し、一方方向を見つめて沈黙している。
黒光りする観音開きのわりと大きな置物。
仏壇だ……嫌な臭いはここから放たれていた。立ち込める線香の煙るその場所は、僕が来てはいけないのだ。
両端に立てられた白いロウソクの上で、オレンジ色の大きな炎が揺らいでいる。
仏壇に立ててある小さなカラー写真は……宮本一敏。
僕だ。
僕は軽い頭痛にみまわれて、自分の消えかけた記憶を辿る。
思い起こせばそうなのだ。
ここへ越して来て間もない頃、僕は自転車に乗っていて、車に撥ね飛ばされたんだ。
隣の窓辺で彼女に逢ったのは、僕がこっちの世界に来た日だったのか。
彼女に初めて逢ったのは、四十九日前だっけ。
そうか……今日は、僕の四十九日なんだ。
明日も、窓辺で彼女に逢えるだろうか。
― 了 ―
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