【弐話】
僕が育ったのは埼玉県の小手指駅にほど近い、行政道路沿いの住宅地だ。
正確には浦和所沢線と呼ばれるこの道路は、夕方何時も渋滞して、走っているうちに必ず陽が暮れるので地元では「夕暮れ道路」とも呼ばれていた。
大きな古書チェーン店や大型ゲームセンターなど、遊ぶ場所はいくらでもあった。
父さんの転勤で東北に来た。
父さんも母さんも空気がきれいですごし易いとか言うけれど、小手指だって別に空気が汚い感じはないし、電車で東京まで近いのは今考えると大変在り難かった気もする。
ただ、車の往来が圧倒的に少ないから、通学路の安全はかなり確保されているかもしれない。
そのくせ自転車に乗るときはヘルメットを着用するように学校側から指導されている。
そんなのカッコ悪くてダサダサだ。
あんなペラペラの白いヘルメットが、自動車とぶつかった時に役に立つのだろうかと思うと、カッコ悪さと引き換えにしようとは思わない。
だから僕は、新宿のショップで買ってもらったATBに乗るときも、ヘルメットなんてかぶらない。
少し遅い時間、一階の廊下を歩いているとリビングから両親の話し声が聞こえた。
「仕方ないさ」
「まだこれからだったのに……かわいそうよ」
「暮らし易い土地だと思ったのだけれど……」
両親の声は哀しそうだった。
僕は誰かの不幸を想像した。
もしかしたら、お隣の家の事でも話しているのだろうか。
リビングから零れるのは低い声で、会話の全ては聞こえなかった。
暗がりの廊下から階段を上がって、僕は自分の部屋へ帰る。
少し前から一階には、なんだか嫌な臭いがして僕はほとんど一階には留まらない。
何処からその臭いがするのか、なんとなく判っているから寄り付かない。とにかく僕は自分の部屋が一番落ち着くんだ。
朝、鳥の囀りで目が覚めた。やたら間近で聞こえる鳥の鳴き声は、窓の直ぐ外――ベランダの下からだ。
ツバメの巣で卵が孵ったのだろう。
ヒナのけたたましいような鳴き声と、それに応えるような親鳥の声。
窓の外を見ると、ツバメが飛び交っている。
住宅地の空き地には草も生い茂って、餌には困らないだろう。
僕は隣の窓を眺める。
誰もいない。
彼女の部屋のガラス窓には、僕の家と僕が覗く窓だけが映り込んでいる。
時折ツバメがひゅうっと風を切るように横切ってゆく。
朝の陽がなんだか眩しくて、僕は窓だけを少し開けて顔を引っ込める。
陽射しが注ぎ込む部屋の中も、朝のすこしひんやりとした空気に包まれて、ツバメの囀りだけが響き渡る。
「今日、窓が開いていたのよ」
「昨日、閉め忘れたんだろ」
「そうかしら……」
夜、リビングから両親の声が聞こえてきた。
僕は何だか一階にいるのが嫌で、直ぐに二階へ戻ったから何の話か判らなかった。
夜中に窓の外を見る。
彼女の部屋の窓辺は、当たり前のように沈黙している。
まるで誰もいないようだけれど、以前一度だけ一階の隅の部屋の電気が点いたのを見た事が在る。
彼女は身体が悪いから、夜は早く寝てしまうのかもしれない。
翌日も彼女とは逢えなかった。
夜、フラフラと廊下を歩いていたら、リビングから両親の話し声が聞こえた。
「一家心中でだって」
「どうりでな……なんか佇まいが違うから」
「もう二年近く経つらしいわ」
「家はどうするんだ? 取り壊さないのか?」
「それがね、時々窓に、女の子の姿が見えるそうよ」
「なんだ、それ?」
なんだか尋常ではない話題だ……どうやら隣の家の事を話しているようだ。
隣でいったい何が起きたというのだろう。
「田辺さんが、そういうの見えるんだって。他にも見た人はいるって」
「道路を挟んでいてよかったな」
「夕方になると、時々二階の窓辺で読書をしてるんだって」
「そりゃ、壊すに壊せないな……知っていたら、他の土地を買ったのに」
窓辺で読書? 彼女の事だろうか?
隣の一家は、二年前に一家心中したのか? 彼女は、一家心中した家の娘?
じゃぁ、僕が時折笑顔を交わすあの彼女は……そう言うことなのだろうか……。
やっぱり彼女は不幸なのだ。




