真夜中の少女と魔法の珈琲豆
カウンターで寝息を立てる少女にタオルケットをかけて、お師匠さまに思いを馳せる。出会い、別れ、それまでに過ごした時間、かけられた言葉の数々。そのどれもが忘れようもなく、涙が出るほどに懐かしい。その中でもとりわけ印象深い言葉を、わたしは小さく口にする。
夢がいつか冷めるように。
魔法はいつか解けるもの。
なるほど、わたしはいままでずっと、魔法にかけられていたらしい。そしていま、ようやく魔法は解けた。なら、わたしのやるべきことはたった二つ。と言っても、普段と変わるところは何一つない。それどころか、片方はもうとっくに終わってしまっていた。
そう、わたしは、少女にコーヒーを淹れるためにここにいたのだ。
とても愉快だ。愉しくて快くて、自然と頬が緩んできてしまう。全く、ようやくここに辿り着くまでに、ずいぶん時間をかけてしまった。そんなお師匠さまの気持ちを味わいながら、わたしはもう一つの仕事に取り掛かるべく棚から瓶を取り出す。じゃらりと音のするそれの中身は、真っ黒になるまで焙煎を済ませたコーヒー豆だ。わたしはそれを抱えたまま、お店の入り口に向かう。
ずっと、気になっていた。このカフェ・アルトのお店全体に漂う、お師匠さまの魔法の残り香。残滓でありながら強く匂い、お店のどこにいても感じ取れるのにどこが発生源であるとも言えないその魔法の正体。それが、今ならわかる。
「さあ、深煎りの魔女のお出ましよ」
瓶をいったん床に置き、赤いコートと真っ黒な三角帽を身につける。軽く身体に馴染ませて、そのまましゃがんで床を払う。出入り口付近の床は、この店を訪れた数多の人々を受け止めてなんともいえない風合いを醸し出していた。
「……あった」
お店の床に描かれた魔法陣、その始点。それさえ見つけてしまえば、全体像も頭の中に思い描ける。一世一代の大魔法を、お師匠さまがやったようにわたしもやるのだ。わたしなら、それができる。その確信を胸に、瓶からコーヒー豆を掴み出す。
「……ふふ」
コーヒー豆で魔法陣を描く魔女など、後にも先にもわたしくらいのものだろう。それを想うととても愉快で、それでいてとても私らしいように思えて、自然と笑顔になる。魔女の証たる三角帽がかかったコートスタンドの足元から始まり、テーブルの合間を抜け、キッチンを通って裏口へ。ラテアートを描くような心持ちで、自らの持てる技量の全てを尽くして魔法陣に装飾を施していく。
一時間ほどもかけただろうか。魔法陣の始点であり終点でもあるウォールナット製のコートスタンドの下に、わたしは帰ってくる。焦げ茶色の床に所狭しと描かれた、コーヒー豆による黒の曼荼羅。その出来栄えに満足して、わたしはそっと目を閉じ、願いを口にする。
「――――――――」
そろそろと目蓋を上げる。お店の中は一見したところ何も変わっていない。だが、わたしは成功を微塵も疑っていなかった。それは約束されていたようなものだったからだ。
描かれた模様を踏んで崩さないようにそろそろと歩き、相変わらずすやすやと寝息を立て続けている少女を起こさないよう木製のシャッターを静かに開けて、ロンドンの街へと踏み出す。懐かしいガス灯の光に照らされる、白のヴェールをかぶったロンドンがそこにあった。
「ん、うぅ……」
吹き込んだ風の冷たさに、抗議するようにもぞもぞと身体を動かす少女の気配を感じ、わたしは苦笑しながら扉を閉める。その小さな軋みに、しかし少女は覚醒してしまったらしい。それは、彼女が他人に眠りを妨げられるような育ちをしてこなかったことを意味するのだと、わたしは知っている。
「お目覚めかしら、お嬢さん?」
後ろから声をかけると、ぼうっとした顔つきで少女が振り向く。その表情は、わずかな驚きを示すものへと変化する。
「貴方は……誰?」
「わたしはこの『カフェ・アルト』のマスターよ、可愛らしいお嬢さん」
少女がじっとこちらを見つめる。わたしは微笑みを形作り、その視線を受け止める。彼女の考えていることが、わたしには手に取るようにわかる。それは『雰囲気はよく似ている』そして『あの人はどこへ?』だ。
「ひとつ、聞いていいかしら」
「ええ、どうぞ」
明晰な少女は、正しい問いを口にする。
人が真実で答えるとは限らないと知るのに、彼女にはまだ経験が足りない。
「……わたし、とても素敵なおばあさまにコーヒーを淹れていただいたの。貴方、その方のことを知らない?」
わたしは、不思議そうに見えるよう、表情を作って答える。
「ここはわたしのお店よ? それより貴方、鍵がかかっていたはずなのにどうやって中に入ったの? わたしにはその方が不思議なのだけれど」
「わたし、あの人に……!」
そこで少女ははたと気付く。自分が名乗りもしなかったこと、相手の名前を聞きもしなかったこと。そして、一度別れた誰かと再び会えるかどうかは、誰にもわからないこと。唇を噛んでうつむく少女は、きっと共に時間を過ごす誰かの名前を大切にする女性に成長するだろう。
「そうね、ひょっとしたら、魔女に会ったのかしらね」
呟くようなわたしの言葉に、少女が顔を上げる。
「魔女? あの人が……?」
彼女はコートスタンドの三角帽と帽子を見つめ、信じられないといった面持ちでつぶやく。
「それはともかく、これをつけなさいな」
わたしの投げたそれを少女は目を白黒させながら受け取って、目の前で広げる。彼女にはまだ少し大きい、新調したての朱染めのエプロンだ。状況がつかめずにいる少女を横目に、わたしはスタンドに立てかけられたほうきを手に取って床に散らばったコーヒー豆を掃きよせていく。
「ああもう、もったいないったら……」
少女は、まだこのときは床に描かれた魔法陣に気付かない。だから、これでいい。彼女は目を瞬かせ、エプロンを手にしたまま立ち尽くしている。
「……エプロン?」
「エプロン以外の何に見えるかしら? さ、このばら撒かれた豆と、そこのコーヒーと、屋根の下で一夜を過ごした代金くらいはいただかないとね」
「……ごめんなさい。わたし、お金を持ってないの」
「ええ、そうでしょうとも。だから、エプロンをつけなさいな。コーヒーの一杯くらい、淹れられるでしょう? トーストと目玉焼きはわたしが作るから、早くしなさいな。朝は忙しいんだから。それとも、お嬢さんはコーヒーの一杯も淹れられないほど世間知らずなのかしら?」
そんなわたしの言葉に、少女の目が反発心の火を灯す。とても、かわいらしい。
「……わたしにもできるわ。あの人が淹れるのを見ていたもの」
こうして、わたしと彼女はとてもとても苦い朝のコーヒーをいただくことになる。彼女がまともなコーヒーを淹れられるようになるのは一ヶ月後、お客に出せるまで上達するのはようやく三ヶ月後のことだった。




