第九十七話~司隷侵攻 一~
第九十七話~司隷侵攻 一~
光熹四年・初平三年(百九十二年)
鄭を任されている段煨の元へ、緊急の知らせが届いた。その知らせとは、皇甫嵩についてである。函谷関に駐屯している皇甫嵩が、ついに進軍を開始したというものであった。その様な急ともいえる敵の動向変化を聞いて、段煨は思わず眉を寄せてしまう。何せ今までは、積極的に打って出てこなかったからである。確かに幾度か攻め寄せてきたこともあったが、本格的な侵攻とまではいかない程度でしかなかったのだ。しかしながら今回の場合、報告によれば今まで以上に兵数が多いのである。そうなると、今回は本気の侵攻かも知れないと段煨も気を引き締めていた。
「慌てることはない。落ち着いて迎え撃つのだ」
「はっ」
段煨は、迎撃の為の指示を出しつつも、もう一つの前線となる臨晋の様子も気に掛ってしまった。あちらにも董家一族に連なる董越が派遣されているので、不測の事態が起きているとは思えない。それでもなぜか、段煨は気になってしまったのだ。思わず彼は、臨晋が存在する方角へ視線を向けてしまう。少しの間、見える筈もない臨晋へ思いを馳せた段煨であったが、やがて頭を振ると思いを断ち切った。その理由は、優先させることが違うからだ。今、段煨が対応しなければならないことは、進軍を開始した皇甫嵩への対処である。まずは、この軍勢に対して手当てをしなければならない。臨晋のことは、皇甫嵩を撃退してからの話だと気持ちを切り替えると、段煨自身は皇甫嵩と対峙するべく自身で兵を率いる。しかしながら、段煨が気に掛ったことは的中していたのであった。
臨晋に駐屯している董越であるが、こちらは完全に泡を食っていた。それは、孫堅の動きを知ったせいである。とは言うものの、当初は董越も慌ててはいなかった。それはなぜかというと、孫堅の侵攻自体は今までも幾度もあったからである。しかし、侵攻のいずれも撃退するか小競り合い程度で済んでいたこともあって、董越は孫権に侵攻の意思はないと楽観視していたのだ。ゆえに今回の侵攻も、簡単に対処できるだろうと高をくくっていたというわけである。だが、それは大きな過ちであったことを、今さらながらに董越は理解させられたのであった。
そもそもからして孫堅による小競り合い程度にしか思えない侵攻自体が、策だったのである。孫堅自身は、それこそ大規模に進行して、長安まで一気に抜いてしまえばいいぐらいに考えていた。だが、その考えを押しとめたのが周異である。彼は盧植を送り届けるという名目で揚州を出た孫策のお目付け役だったわけだが、その孫策が孫堅と合流したあとは客将という形で孫堅と共に従軍していたのだ。その反董卓連合も、名目上ではあるものの洛陽から董卓がいなくなったことで解散した。その後、周異は故郷へ戻ろうとしたのだが、その周異へ、軍師として声を掛けたのが孫堅である。声を掛けられた周異は暫く悩んだが、やがて了承している。これにより、息子の周瑜も孫策へと仕官していた。なお、故郷についてであるが、そちらは長男に任せることにしている。まだ家督は継がせてはいないものの、事実上周異の代理として差配することとなっていた。
話を戻す。
さて。
周異の策であるが前述した様に、敵である董越を油断させることに他ならない。あえて先に上げたような小競り合い程度の戦を繰り返すことで、孫堅には攻める気がないと相手に思い込ませたのだ。事実、臨晋の董卓軍の大半は大将である董越も含めてその様な心持となっていた。敵軍の有り様からそろそろ攻めの頃間と孫堅も周異も考えていた矢先、劉逞からの臨晋攻めの書状が届いたというわけである。元から臨晋を落とすつもりであった彼らにとって、臨晋攻めの命など渡りに船と言ってよかった。
「大将軍からの命もある。いよいよ実行に移す」
「よろしいかと」
「うむ……出陣だ!」
こうして孫堅は、劉逞から与力として派遣されている関羽と徐晃も伴って臨晋に向けて進軍を開始した。その途中で、偶然にも臨晋より派遣されたと思われる小軍勢と遭遇するも、鎧袖一触とばかりに撃退して見せている。彼はそのまま進軍し、いよいよ臨晋近郊へと到達したのであった。一方で、孫堅に簡単に撃退されほうほうの体で戻ってきた兵よりの報告に目を通した董越はというと、初めは信じられなかったのか相手にしなかった。しかし、二度、三度と似たような報告がされたとなれば話は別である。簡単に蹴散らされてしまったという報告に驚きを隠せないまま、それでも迎撃の為の準備を終えた頃、前述の様に孫堅の部隊が臨晋郊外へと駐屯したのである。その報告に慌てて出陣した董越は、孫堅と対陣したのだった。
皇甫嵩と段煨が、孫堅と董越が睨み合っている頃より少し前、宛を出陣した劉逞だが、彼は軍勢を三つに分けていた。一つは太史慈を大将とした部隊であり、彼の部隊が進軍する先は鄭となる。そしてもう一つの部隊だが、こちらを率いているのは張郃となる。彼らの向かう先は、臨晋であった。つまり彼らは、皇甫嵩と対峙している段煨と、そして孫堅と対峙している董越。彼らに対して、奇襲なり急襲なりを仕掛けることを目的とした部隊なのであった。
劉逞側にとっては幸い、そして董卓側にとっては不幸なことだが、牛輔の部隊が事実上壊滅したということはまだ知れ渡ってはいなかった。結果としてその隙をつく形で進軍した劉逞は、鄭と臨晋へ軍勢を送り込んだということなのである。こうすることで、それぞれの戦でより勝利の確立を高めようとしたのだ。
「子義には義真殿の援軍、儁乂には文台殿への援軍へ向かって貰う。よいな」
『ははっ』
「両名とも、大いに働いてくるがよい」
それから間もなく、太史慈は鄭へ張郃は臨晋へそれぞれの兵を伴って進軍を開始した。そんな太史慈と張郃が率いる別動隊を一頻り見送った劉逞であったが、彼も本隊を率いての進軍を再開する。彼が進路を向けたのは、長安であった。彼らの目的は、蜂起する朱儁や王允などを助けることにある。同時に長安を確保し、朱儁らが兵を挙げることで生じる混乱を早急に抑える為であった。
その一方で長安にいる朱儁たちはというと、ことを起こす前準備が整ったと言ってよかった。劉逞が繋ぎを取ったことで味方となった馬騰と韓遂は、長安近郊に向けて密かに軍勢を動かしている。流石に大軍勢を率いているわけではないが、しかしてそれ相応には兵を揃えているのは流石だと言えるだろう。あとは兵を進めている劉逞が長安へ到着する頃合いを見計らって、董卓を居城の郿城より長安へ誘き寄せる。そして董卓をおびき寄せる手段であるが、こちらについても言うまでもなく劉協の快癒であった。董卓を討つ為、病を患ったことにしていた劉協であったが、策の仕上げとしていよいよ回復の兆しを見せたと発表がなされたのである。するとこの話を聞き及んだ董卓は、郿城を出て長安に移動したのだ。それこそ朱儁や王允の思惑通りであり、彼らは董卓が長安へ現れるとの話を聞いて笑みを浮かべていたという。とはいえ、ことが順調に運んだわけではない。それというのも、董卓が長安に赴くことに難色を示した人物がいたからである。それは誰であろう、李儒に他ならなかった。彼は劉協への使者として董卓ではなく、弟である董旻にするべきだと進言したのだ。しかしながら董卓は、その言を頑として聞き入れなかった。無論、これには理由がある。位人心を極めしかも朝廷にて絶大な力を持つ董卓であるが、その権力を維持するためには劉協という駒がどうしても必要だからだ。彼の中では自身が皇帝にという野心もあるのだが、実行するにはまだ早いとも考えている。少なくとも、劉弁と彼を支える劉逞の排除を行ったあとでなければ難しいと考えていた。それだけに、今の段階では劉協の快癒祝いには自身が行かねばならないと考え、李儒の進言を受け入れなかったのだ。これには、李儒をついには折れる。董卓が言っていることが、必ずしも的外れと言うわけではないからだ。こうして自身が長安へ向かう為には最大の障害となるだろう李儒を抑え込んだ董卓は、一族の大半を引き連れて長安へと移動したのであった。
こうして長安へと入った董卓ではあったが、驚いたことにすぐには劉協と面会しようとしなかった。それどころか彼は、長安にある自分の屋敷に留まり続け、劉協との面会の申し出すらも出さなかったのである。権力の維持という目的の為には劉協という存在がまだ必要と考えている董卓が何ゆえにそのような行動を取ったのかと言うと、ある思惑があったからだ。董卓はこの様な行動に出ることで、劉協からの命が出るのを仕向けていたとされている。つまりあえて自分から向かうのではなく、劉協から呼び出しをさせることで、自分という存在が劉協にとって必要なのだと内外に向けて印象付けることを目的にしていたのだ。しかもその中には、先に上げた内情を隠すという目的も合わさっていた。もっとも、今回のことで董卓を討つ気である劉協側であることを考慮すると、知らなかったとはいえ滑稽な行動であったと言えるかも知れない。ともあれ、長安に入ってからも屋敷に半ば籠った状態で劉協からの面会申し出がない董卓であったが、その事態もいよいよ動くことになる。それはついに、劉協からの命が届いたからである。漸く思惑通りとなったことに対して董卓は、隠しきれない笑みが表情に現れていた。
それから数日したその日、いよいよ董卓と劉協との面会が実現した。果たしてその行動こそ、董卓の命運が決まった瞬間でもあったというわけである。程なくして宮廷へ参内した董卓は、面会という目的を果たす為に劉協の元へと向かう。間もなく面会と相成ったのだが、そこで董卓はいささか不機嫌な表情を現していた。その理由はと言うと、この面会の場に王允と黄琬の両名がいたからである。黄琬はまだしも、王允に対しては洛陽で起きた暗殺未遂に関わったという疑惑がある。いまだに決定的な証拠は見付かっていないが、ほぼ暗殺を企てた犯人であることに間違いはないと李儒から聞き及んでいるのだ。その不快な思いが、意思とは無関係に出てしまったというわけである。とはいえ、今回の面会は劉協の快癒祝いである。だからこそ董卓は、王允のことは一まず脇へと置いておくことにした。
「陛下。こたびの快癒、真にめでたく存じ奉ります」
「うむ。大師にも心配を掛けた」
「いえ。その様なこと、お気になさらず。臣として、当然のことにございます」
「そう言うな。朕も病とはいえ、そなたに心配を掛けたこといささか気に掛けておる。そこで、朕より渡すものがある。受け取ってもらえるか」
「陛下からの賜りものを断ることなど、ありえませぬ」
「そうか。では……受け取るがいい!」
まるで宣言するかのように劉協が声を張り上げたその直後、この謁見の場に兵が雪崩れ込んできたのだ。当然だが、兵を率いているのは朱儁であり、そして士孫瑞となる。まさかの事態に呆気にとられた董卓であったが、その隙を討つ気で現れた朱儁が見逃す筈もない。彼は手にしていた剣を振りかざして、董卓へと躍りかかっていった。するとすぐ直前まで呆気に取られていた筈の董卓が、腰に佩いていた剣を抜いたのである。そのお陰で彼は、真面に切り付けられることは避けることができた。しかし、全くの無傷というわけにはいかない。致命傷とまではならないものの、決して浅くはない傷を負ってしまったのであった。
「皇帝陛下! これは、どのような仕儀でありますか!」
「言ったであろう。そなたに対する朕からの褒美だと。遠慮などせずに、存分に受け取れ!!」
「陛下! こちらへ」
劉協が董卓の問いに答えたその直後、黄琬が劉協の安全を確保するべく彼を後方へと下げる。そしてその前には、王允が守るように立ち塞がっていた。無論、彼だけではない。さらに十名以上の兵が董卓と王允の間に揃っている。この様相に、董卓は歯ぎしりしていた。軽くはない怪我を負った身でこの場から逃れるには、劉協を押さえる必要がある。しかし劉協からは既に距離を空けられており、これでは劉協を手中の珠とするには無理がある。その上、劉協の元へと辿り着くには黄琬と王允。さらには、十数名以上の兵を突破しなければならない。健常な状態でも難しいことを、怪我を負った身ではさらに難しかった。
「もはや、そなたの命運は尽きた。自分がしでかしたことを振り返りつつ、捕らわれるがよい」
「くっ!」
幸い、利き手は怪我を負ってはいない。それゆえに朱儁の打ち込みを董卓は、どうにか受け止めることができていた。しかしながら、彼の腕にあまり力が入らない。かろうじて受け止めことはできたもののそれだけであり、少しずつ押し込まれていく。ついには朱儁の剣の刃が、董卓自身の体へ届き傷つけ始めたのである。
「うおおぉぉ!」
「なにっ!!」
董卓は雄叫びの様な声を張り上げると、驚いたことに押し込まれていた朱儁の剣を押し返し始める。それは、追い込まれたことによって出た膂力であった。ついには、朱儁の剣を跳ね上げることに董卓は成功する。しかしながら董卓の反撃も、そこまでであった。朱儁の剣を払い上げて間もなく、彼は槍によって強に体を打ち付けられたからである。董卓も想定していなかった一撃を放ったのは、この場にいる兵の一人であった。
「……ぐっ」
肩口に一撃を食らった董卓が、思わず膝を突く。直後、続けて幾つもの槍が董卓を上から押さえつける様に叩きつけられていく。腕に覚えのある董卓と言え、反撃などできはしない。すると、一度は剣を弾かれた朱儁がゆっくりと董卓に近づく。床に押さえつけられている董卓を睨んだあと、朱儁は剣を振り上げてから振り下ろした。しかしながら振り下ろされたのは、剣の刃ではない。横にした剣身であり、その部位に首を討ち据えられてしまうった董卓は一瞬で意識を飛ばしてしまい、白目を剥いたのであった。
「逆賊を捕らえろ!」
『はっ!』
こうして董卓は、意識のないまま牢獄へ繋がれたのであった。
別連載
「風が向くまま気が向くままに~第二の人生は憑依者で~」
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