第九十六話~出陣 八~
第九十六話~出陣 八~
光熹四年・初平三年(百九十二年)
牛輔のいる董卓軍の本陣では、混乱の度合いを極めていた。その理由は言うまでもなく、呂布を大将とした劉逞旗下の別動隊より奇襲を受けたからである。牛輔としても、まさか自分が行ったことをそのまま返されるとは思ってもみなかったのだ。しかも敵先鋒の大将が本陣内へ入り込んでいる状況であり、とてもではないが反撃を命じられる状況にはない。そう判断した牛輔は、ほうほうの体で本陣より逃げ出したのであった。また、胡軫を対象とした別動隊による敵本陣襲撃を提案した賈詡であったが、彼自身も内心では牛輔と同様な思いを抱いていたのである。しかし、今そのことを悔いている時間はない。一刻も早く脱出を図る必要があるからだ。
「ひけー、ひけー」
本来であれば、しっかりと撤退の命を出したいところである。しかしながら、先ほども述べた様にそのような時間を作ることはできない。そこで賈詡は、自ら撤退の命を一回だけでも出しながら撤退に移ったのである。彼は味方へ叫びながら必死に逃げを打ったのであるが、このことが彼に不幸を呼び寄せてしまうこととなった。果たして彼が呼び寄せた不幸、それはたった一回だけ出した撤退の声を、あろうことか高覧と麹義に聞かれてしまったことにある。張遼に続いて敵本陣に突撃し、当たると幸いに敵を屠っていた彼らの耳に、さほど大きくはないが確かに撤退を命じる声が聞こえてきたのだ。今まさに敵本陣に対して奇襲を仕掛けたばかりの味方が、こうも早く撤退を指示するとは考えづらい。となれば、この声の主は敵ということになる。しかも引けという命を出せるのであれば、軍内部で上位に位置する者ということに間違いない。それであるならば、捕らえるなり討つなりしてしまえば手柄となるのは間違いなかった。ちょうど、目の前の敵を討った二人は、絶命した敵兵より愛用の獲物を引き抜くと、跨っていた馬を駆り声が聞こえた方向へ移動したのだ。すると逃げを打っている敵兵士に交じって、明らかに身なりがいい人物がいるのを見掛けることとなる。その直後、高覧は手にしていた得物をやり投げの様に持つと、身なりのいい人物の足元に向けて投げつけたのだ。必死になって逃げを打っていたその男は、いきなり跨っていた馬の足元に突き立てられた長柄の武器に対処などできる筈もない。避ける間もないどころか気付く時間もなく馬に跨った男は、周りにいた数人の味方を巻き込んで盛大に転んでしまう。何が起きたのかと理解できないまでも、転んだことだけは理解できた身なりのいい男、即ち賈詡は頭を振って意識を覚醒させようとした。そこに馬に跨った麹義が現れ、いまだに体を起こせていない賈詡を含めた数名に対して剣を突き付けたのである。そこで漸くすぐ近くにいる敵の存在に気付いた彼らであるが、麹義から発せられる武人の気合の様なものを僅かであっても感じ取ってしまう。しかも続いて高覧が現れ、彼らは下手に動けばその直後には剣で切られるとの思いに至り、身動ぎ一つできなくなってしまった。
「降ればよし。さもなくば、我が剣にて命を奪う」
「……降伏いたします」
『降伏いたします』
降伏を促す言葉を聞いて、少しだけ考えたあとで賈詡は高覧の言葉に従う返答をした。すると賈詡の言葉に追従する形で、いわば賈詡のせいで巻き込まれた兵士数名も降伏の意思を伝えたのである。実はこの兵士数名であるが、賈詡の顔を見知っていたのである。流石は、本陣に詰める兵と言ったところであろう。それゆえに賈詡が降伏すると、彼らも降伏を判断したのだ。ともあれ高覧と麹義の二人は、こうして賈詡を捕縛したのであった。
一方その頃、賈詡より先んじる形で撤退という名の逃走を図っていた牛輔であるが、彼は絶体絶命の状況に追い込まれていた。彼は途中で偶然見つけた馬に駆り逃げていたのだが、その途中で背筋を何かが駆け抜けたのである。悪寒とも言っていい何かが気になった牛輔は、ふと後ろに視線を向けた。すると牛輔の視界に黒の馬体、一般的には青毛と呼ばれる馬に跨った一人の男が迫ってくるのが認められたのである。しかも明らかに、男が駆る馬の方が速い。そのことを理解した牛輔は、跨っている馬に全速力を出させていた。そして改めて後方を確認したが、何と速度を上げているにも関わらず距離が詰まっていたのである。この事実に牛輔は、それこそ狂った様に馬を掛けさせたのであった。
さて、牛輔を後方より追い、しかも目に見える形で距離を詰めている男が誰なのかと言えば、呂布であった。そして言うまでもないことだが、彼が駆る馬は汗血馬の雷閃である。牛輔が跨っている馬も決して駄馬というわけではないのだが、それでも馬の持つ力が違いすぎていた。その上、馬に跨っている呂布の馬術の方が牛輔より遥かに上手いのである。これだけの条件が揃えば、呂布と牛輔の距離が縮むのも当然であった。
それこそ一秒ごとに距離が詰まっていく両者であったが、ここになりふり構わず逃げ手を打っている相手とそうではない相手の差が現れてしまった。常に後方に気にしつつも必死に逃走を続けていた牛輔であったが、追い込まれているという状況が彼の馬の扱いに狂いを生じさせてしまう。普段では考えられないことであるが、限界以上にまで馬を追い込んでしまったのだ。その結果、馬の脚が骨折してしまったのである。全力を超えさせる様に牛輔がしごいているさなかに馬の脚が折れてしまえば、その結果など言うまでもない。馬は倒れ、跨っていた牛輔は投げ出されてしまったのだ。運がいいのか悪運が強いのか判断に迷うところであるが、何と牛輔は大怪我を負わずに済んだのである。それでも勢いのままに地面へ投げ去られたことで、意識が混濁してしまう。しかし、前述の様に怪我らしい怪我を負っていなかったこともあってか、比較的短時間で意識を取り戻したのであった。
「この、駄馬が!」
意識を取り戻した牛輔から最初に出た言葉は、罵声であった。今まで必死に走り続けた馬に対して、あろうことか罵倒したのである。この言葉が聞こえた呂布の頭には、一瞬のうちに血が上った。あれだけ必死に走り続けた馬を、労わるどころか罵倒したのである。雷閃という愛馬を持つだけに、この言葉は許せるものではなかった。馬を罵倒したあとに状況を判断して必死に走り続ける牛輔へ近づくと、呂布は脇をすり抜け様に戟で一閃する。雷閃の速度も乗った見事な一撃であり、何と牛輔の胴を両断してしまったのだ。あまりの一撃に痛みすら感じなかった牛輔であるが、突然視界が下がっただけでなく下半身だけが目の前を走っていくことを不思議に思ってしまう。その直後、下に目を向けた牛輔は、自身に降りかかったことを理解したのだ。つまり、目の前を橋いていた下半身こそ、自分のものであるということに。慌てて視線を前に向けると、ちょうど自分の下半身が倒れたところであった。
「せめて、我が介錯をしてやろう」
その一言が、牛輔が聞いた最後の言葉であった。
「敵将、討ち取ったり!」
名乗りすら上げていないこともあって討った相手が分からなかった呂布であったが、その身なりから将であることは間違いないとして鬨の声を上げたのであった。
牛輔の放った別動隊も防いだだけでなく、敵本陣への奇襲を成功させた劉逞は、いよいよ全軍を前線に投入した。これによって、王方の援軍もあってかろうじて前線を維持していた楊定の敵先鋒が、ついに崩壊してしまう。そして前線の大将であった楊定も、朱霊によって討ち果たされてしまう。また、王方も崔琰によって討ち取られてしまった。前線を打ち破った劉逞は、そのまま侵攻を続けさせる。中軍すらも鎧袖一触とばかりに打ち破ると、ついには呂布たち別動隊が奇襲を仕掛けた嘗ての牛輔の本陣にまで進撃したのであった。
「これで勝ちよ。のう子龍、衛統」
『はっ』
劉逞は自身の護衛でもあり、そして幼馴染でもある趙雲と夏侯恩へ声を掛ける。間違いない事実に両者も同意し、返答していた。その返事に頷くと、劉逞は改めて陣を構築させる。流石に嘗ての牛輔の本陣は避け、少し距離を置いた場所に新たな本陣を置いたのだ。その本陣へ、胡軫の別動隊を駆逐した白波衆が戻ってくる。それから暫くすると、呂布たち別動隊もまた本陣へと戻ってきたのであった。
白波衆を率いる郭泰と別動隊を率いていた呂布から報告を受けた劉逞は、手放しで両軍勢に参加した将を誉めただけでなく労っていた。自分が使えている主君からの賞賛に、彼らも素直に受け止めていたのである。その後、劉逞は首実検を行うことにした。そこに立ち会うのは劉逞旗下の将は勿論だが、他にも賈詡がいたのだ。高覧と麹義が捕虜とした人物がまさか賈詡だと聞いて、劉逞も驚いていた。何せ劉逞の陣営では、李儒と並んで賈詡も警戒されていたからである。同時に劉逞は、その軍師としての力量も買ってはいたのだ。
兎にも角にも、首実検を行うのに適した人物であることに変わりはない。そこで賈詡は、劉逞からの依頼という形の命によって首実検に立ち会っていたのだ。
「牛輔、楊定、王方。賈詡よ、間違いないのだな」
「はい。相違ございません」
「そうか。ご苦労だったな」
「……はっ」
首実検も終わると、次に劉逞は樊稠と面会した。怪我の為に後方へと下げられていた樊稠だが、牛輔を追った別動隊によって捕らえられていたのである。彼を捕らえたのは、軍勢を指揮していた高順であった。彼は劉逞旗下の将の中でも、力量においてはかなりの上位に入る男である。樊稠が万全の状態であればまだしも、怪我を負った状態では勝ちを収められるわけもない。ついには捕らえられて、彼もまた降伏したのであった。
因みに胡軫であるが、前述した様に誰とも知れない人物に撃たれた上に乱戦から損耗が激しく誰とも判断できないでいた。その為、戦場に撃ち捨てられてしまったのであった。
「どうだ、その方ら。我に仕えぬか?」
『何と!』
劉逞は樊稠だけでなく、賈詡に対しても家臣になるように勧誘したのである。樊稠については、既に董卓配下の将としての力量は知っていた。それだけに捕らえたことで、命を失わせるのは惜しいと思えたのである。また、賈詡であるが、彼が涼州にいた頃は流石に劉逞も知らなかった。しかしながら彼は、董卓に従って洛陽に入ってか僅かの間に出世を果たしている。そしてついには、李儒に続く地位にまでのし上がっていたのだ。敵であれば警戒するこれだけの才の持ち主であるが、味方とすることができれば頼もしいというものである。それだけに、ここで命を散らせるには樊稠同様に惜しい。そこで劉逞は、二人を勧誘したのである。しかし彼らは、首を縦には降らない。正確には、降ることができなかったのだ。それは、長安にいる家族を案じてである。長安へ移ってからというもの、董卓には酷薄さが出てきていることを賈詡と樊稠は感じ取っていた。それだけにここで劉逞に仕えるとなれば、家族が血祭りにあげられてしまうのは間違いなかった。
「そうか……分かった。では、そなたたちは捕虜だ。よいな」
『ありがとうございます』
劉逞は一まず、彼らを勧誘することを棚上げにしたのである。どの道、今回の出陣において、長安にいる朱儁や王允、さらには馬騰や韓遂などとも連携して董卓の命を奪う予定である。なれば、二人の勧誘は董卓を討ったあとでも問題はないと判断したのだ。
また樊稠と賈詡にしても、劉逞の作戦については知る由もない。しかし、樊稠と賈詡が抱える事情を鑑みてくれたことは理解できた。だからこそ、二人は礼を述べたのである。同時に樊稠と賈詡は、劉逞へ恩義を感じたのであった。ともあれ、牛輔の東征軍を完膚なきまでに打ち破った劉逞ではあるものの、先に述べた様にまだ董卓を滅ぼす策のただ中である。劉逞は早速にでも、次の手を打っていた。まずは、弘農郡にて函谷関を守っている皇甫嵩の軍勢に対してである。劉逞は使者を送り、函谷関より打って出て張済と張繍へ攻勢を掛けるように命じる。同時に、河東郡にいる孫堅へも使者を出し、臨晋への侵攻を開始する様にと命じたのである。また、長安の朱儁宛に密使を派遣し、牛輔の軍勢を討ったことを伝えている。そして劉逞自身はというと、牛輔の進軍した道筋を逆に使い荊州から司隷へ進軍したのであった。
別連載
「風が向くまま気が向くままに~第二の人生は憑依者で~」
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