Beautiful Life (2021/02/09)
風の心地良さというものを私は久方ぶりに味わった。海を渡り、山肌を削り、あるときには車を横転させもする風の心地良さ。そよと吹く風は、多彩な仮面のうちの一つでしかない。
私は窓際の椅子に座って外へ足を突き出している。そうして何をしているのかと言えば、お湯を張った水槽の中に足を浸しているのだ。お湯の温度は僅かに暖かく感じられる程度で、冷えた身体が慣れていくのとお湯が外気によって冷やさせれていくのを考慮して、お湯を継ぎ足しながら徐々に暖めていく。手元にはタオルが必須で、ちょっとした発泡酒や齧りつくためのおつまみがその次に重要なもの。気分によって電子書籍を読んだり、ラジオを聴いたり。いずれにしてもタブレット端末を手の届く範囲に置いておく。
自宅での座り仕事のために滞留するものを解そうとして思い立った習慣は、予想に反して長く続いている。それは、自分の飽きっぽさには打ち勝ったものの、変わりゆく世情には未だどうにもできずにいる、という二重の意味だ。触らぬ神に祟りなし。どこかで実際に聞いたお年寄りの言葉が頭の中で反芻される。それは親族だったのか近所の人だったのかあるいはテレビで聞いたものか。
この習慣は季節の移り変わりとともに若干の改良を迫られて、電気ケトルや給湯器を使ってお湯を継ぎ足すのではなく、ガスコンロでお湯を沸かすのが最も自分の肌感覚に合っているのだと気付いた。お湯はお湯に変わりない。けれど、そこに一手間を加えて適切な湯加減でお湯を作る、そのことがとても楽しい。
お湯に浸していた足を浮かび上がらせると、湯気に包まれてまるで生まれたてのような肌が現れる。三つの時代を生きている私は、その欺瞞を自分自身であざ笑う。この冬空を渡る風はどこへ流れていくものか知れないけれど、その乾いた感触は、私の自嘲的な笑いから湿っぽさを奪い去る。
「そろそろ、お時間ですかね」
誰にともなく呟いた私は、タオルを手にして足を拭き始める。そこへ、彼の人からの電話の着信音。
「あっ、来た。ちょっと待っててー!」
叫ぶ私は、はにかみながら足を丁寧に磨き上げる。
彼の人も知らない習慣を、私はここでいつまで続けていくのだろう。そう遠くない未来に、きっと環境は変わっていくような気がした。




