第3話 数字と魔法と失言
「おし、こんな感じで、いい、かな」
風呂場を綺麗に磨き上げ、満足そうな顔をした三郎が『この世界の』言葉をたどたどしく使いながら独り頷く。教会には大人が三人で入っても十分くつろげる広さの風呂場があり、最近の掃除当番はもっぱら三郎となっている。
三郎のソルジでの生活が、三ヶ月になろうとしていた。
その間、三郎は必死に言葉を勉強した。必要に迫られるどころか、周囲の人間がその言葉を使うのだから覚えざるを得ないのである。そんな環境のせいもあってか、意思疎通が何となく出来る程までになってきていた。
とは言え、まだまだ言葉として未熟な事もあり、教会から外に出ることはほとんどなく、子供達に混ざって勉強をしたり、家事手伝いをしたり、教会の雑務を手伝ったりと、案外忙しい日々を過ごしている。
スルクローク司祭とトゥームは、教会を訪ねてくる人々に三郎のことを「別の大陸から漂着した人」と紹介している。三郎は、特にトラブルに見舞われることも無く、言葉の問題もあるせいか、逆に親切にされることの方が多いくらいだ。
常に笑顔のティエニと、気弱な表情ながらもがんばってティエニのお姉さんをしているリケの二人が、良き学友となってくれたのは三郎にとって有難いことだった。
三人の子供達の中で一番年上である十二歳のラルカは、昼間は学校に行っているので、三郎と一緒に勉強しているティエニとリケを羨ましがっていた。
三郎は子供用の本が、見聞きした事のない言語を勉強するのに、とても良いものなのだなと感心した。そして、言葉を覚えるのと同時に「この世界」についても少なからず学ぶこととなった。
巨大クレーターの内側であるクレタスに住んでいる人々は、十歳から学校に通いだすのが一般的だ。それまでの間、親の働く姿を間近に見ながら読み書きや簡単な計算、そして家業についてなど、情操教育も含めて基礎を教えるのは親の勤めとされている。
貴族ともなると幼い時から、有名な学者などを家庭教師に招いたりもするようだ。
クレタスには、エルートと呼ばれる種族やドワーフなど、人型の種族も住んでいる。そういった他種族は、特有の社会と文化を営み人間と交流を持っているのだと、三郎は教えてもらった。
三郎の元いた世界でいうところの人間も、人型種族の中の一種族とされていて『人族』と呼ばれている。人族は、他の種族を『亜人』だなどとさげすんで表現をする事はない。ドワーフの子供が、人族の学校に通うこともあるくらいに交流は盛んなようだ。
十歳から学校に通いだすのは少し遅い感じがすると、三郎が言ったところ、トゥームは「この教育体制は、子が親とその仕事を尊敬するようになり、親も子の模範たらんと勤めるのだ」と教えてくれた。
そう言われてみて三郎は、一度も働いている姿を自分の子供に見せたことが無かったと振り返る。仕事に関連する事で見せていたと言えば、帰宅して疲れている姿や、仕事が上手くいかなかった時の不機嫌な姿だけだったと思い出されて、何だか耳が痛かった。
「サブローのおっちゃん、お風呂掃除終わった?」
ティエニが風呂場の様子を見に来て、相変わらずの笑顔で声をかけてきた。三郎に茶色のロングチュニックの着方を教えてからと言うもの、自分が三郎に色々と教えてあげる立場なのだと意気込んでいるようで、ティエニが三郎当番のようになっている。
男同士という事もあり、魔力で動く不思議トイレの使い方などを教えてくれたのもティエニだ。
「おうティエニ、ちょうど今、終わった、所だよ」
捲くっていた袖を直しながら、ティエニに返事を返す。
「トゥーねぇが、呼んで来てって言ってた」
そういえば、この後は数字と計算をトゥームが教えてくれる事になっていたな、とティエニの言葉で三郎は思い出した。
「ティエニとリケは、勉強、好きだよな」
ダイニングに向かい並んで廊下を歩きながら、三郎は何となく話しかける。ティエニとリケが年の割りに、素直に勉強の時間を受け入れているように感じていたからだ。
「オレは、大きくなったらとーちゃんみたいな漁師になるからね。勉強しないと立派な漁師になれないからね」
ニシシと笑いながら、ティエニは答える。ティエニの父親とリケの父親は、漁に出ていたときに事故で亡くなったのだと三郎は聞かされていた。
「そっか、ティエニはえらいな」
三郎はそれだけ返事を返すと、ティエニの頭を乱暴に撫でた。抗議の声を上げるティエニだが、表情は嬉しそうだ。
ダイニングに行くと、トゥームとリケがいつものお勉強態勢でテーブルに着いていた。
三郎はトゥームを見て『これで眼鏡でもかけてたら完璧なのに』と毎回思ってしまうが、口に出したことは無い。そんなことを言ったら、冷ややかな目で見られるのは想像に難くなかった。
「じゃぁ、ティエニとリケは計算の勉強の続きね。サブローは⋯⋯っと、そうね、数字のおさらいからやりましょうか」
全員の着席を待って、トゥームが学習シラバスに目を通しながら言った。学校に上がる前までにどこまで勉強していればいいか、中央王都にある教育省から各家庭に向けて出ている学習計画書で、それにそってティエニとリケは勉強している。
三郎の学習計画については、トゥームが作ってくれていた。なかなかハードでピーキーなチューンがされている内容だと、三郎は思っているのだが、今のところ何とかついていけているので文句は言わない。
「「「はーい、おねがいしまーす」」」
ティエニとリケと三郎が、声をそろえて返事をする。トゥームが満足そうに頷くと、授業は開始された。
三郎が、言葉を覚えるより何倍も苦戦しているのがこの『数字』である。
日常生活や通貨といった基本的なところは、十進法で済むので三郎も違和感無くすごせている。しかし、魔力を扱うための数学が別に存在し、素数で繰り上がるうえに独特な規則を持つ数字やら、読み方の全く違う数字などを覚えなければいけないのだ。
三郎は、こちらの世界に来て魔法が使えるようになった、とかそういう素敵な変化は一切なかった。
変わった事と言えば、月に一回か二回ほど原因不明の高熱を出すだけで、それも半日と経たずにおさまってしまうため特に気にも留めていない。水と空気の違いに体が驚いてるだけだろうと、自己解決してしまっているほどだ。
勉強を始めた当初、魔法関連の数字なんて魔法が使えるわけでもないから、急いでおぼえる必要は無いだろうにと三郎は思っていた。だが、これが日常的なやり取りに間々入ってくることがあるので、習わざるを得ないのである。
例えば、部屋の明かりに使っているランプのエネルギー源である、不思議な色の結晶を買ったりする時や、風呂・トイレや台所の不思議な仕組みもその結晶で動いているので、それらについて日常のやり取りをする時など、どうしても会話に出てきてしまう。
ちなみに、子供達は三人とも生まれたときから普通に慣れ親しんでいるため、複雑な数を難なく使いこなせている。
最近、三郎がこちらの世界で感じている最大の不満は、この数字達へ向けられている。数字に関わる事以外の日常については、概ね満足している、と言うよりもけっこう充実していた。
まぁ、若くて美人なシスターが先生なので、本当にそこが不満なのかときかれでもしたら、三郎は言葉を濁す自信は満々だったが。
「電気やガスみたいに、エネルギー結晶が、使われてるんだもんな、参っちゃうよなぁ⋯⋯大魔法文明かよって、文句も言いたく⋯⋯ん?」
変てこルール素数繰り上がり数字を練習しながら文句を言ってみて、三郎は自分の言葉にはっとなり顔をあげる。
「魔法文明⋯⋯だと⋯⋯」
自分の言葉に打ち震えながら、芽生えた疑問をトゥームに投げかける。
「トゥーム、クレタスは魔法文明とか、そんな時代とか、言われてたり、する?」
「魔法文明とは呼ばれてないけど、そんな感じの事を言ってる歴史学者はいるわよ。それに、実際使ってるじゃない?」
今更何を言っているんだ、と言わんばかりの顔でトゥームが人差し指を立ててさらりと答える。トゥームの指差す先には、例のランプがぶら下がっていた。
三ヶ月もの間、ごく自然に、そしてあまりにも地味に魔法が生活に入り込んでいたため、三郎はそこに考えがおよんでいなかった。
「じゃぁ、手から火だしたり、みんなそういう魔法とか、できちゃったりするのか?」
日本男児ならもれなく魔法を使ってみたいのが当然だ、などと三郎は信じている口の人間だ。その為、目が少年のようにキラキラと輝いてしまう。
「んー、普通は出来ないわね。魔導師なら出来る人もいるけど、適性もあるし専門分野もかなり学ばないといけないから」
三郎とトゥームの魔力に対する考えが少しずれているのを感じ取って、トゥームは真面目な顔になり話を続ける。
『迷い人』かもしれない三郎が、この世界の事を誤解していると、今後何らかの支障が出るかもしれないと思えばこそだ。
「元素ってあるじゃない?」
「水素とか⋯⋯酸素の、事だろ」
原子の周期表を思い出しながら、三郎は答える。理系あがりとはいえ機械工学を専攻して来たため、化学は遠い遠い高校生時代の記憶を掘りおこさねばならなかった。
知的な所を見せてやろうかと、三郎の頭には原子番号順に『ヘリウム』とか『リチウム』が先に浮かんではいたが、この世界での名前が分からず酸素に至るまで言葉が出てこなかった。
「そう、魔含元素と言われる物が数種類があって、そこからエネルギーを取り出して、私達は生活に使ってるの」
「ふむふむ⋯⋯まがん⋯⋯」
「たぶん、サブローの言っている魔法は、体内の魔力を呼び水にすることで他の物質の魔原子に働きかけて、自然現象を操る事を言ってると思うんだけど」
「ふむ⋯⋯まげんし⋯⋯」
「そういった魔法は、今教えてる数字を使った計算と、共振を与えることの出来る特殊な言語を使ったりして、場合によっては装具も必要で⋯⋯」
「⋯⋯」
三郎の眉間に徐々にしわがよりはじめる。まだ不慣れな言葉な上に、専門的な内容が加わってくると思考が追いつかなくなってくるのだ。
「あぁ⋯⋯ごめんなさい、もっと簡単に説明したほうがいいわよね」
三郎の様子に気付いたトゥームが、苦笑いしながら謝り、分かりやすい説明は無いものかと思案してから言葉を続ける。
「物は全て、空気や生き物まで含めて、多かれ少なかれ魔力を含んでいるの」
「全ての物⋯⋯この紙もか?」
三郎が、ひらひらと数字の練習をしている紙を振ってみせる。
「そう、その魔力を取り出したり使ったりするには、かなりの知識と訓練が必要になるわ」
「知識⋯⋯ねぇ。ってことは、トゥームは知識がありそうだし、魔法みたいなもの、使える?」
何かの魔法を見てみたいと言う気持ちから、興味津々といった声色で三郎は聞く。
「わたしが詳しいのは、教会の修道騎士になるために勉強したからで、魔術師の使う魔法の知識とは違うの。体内の魔力を効率化して、身体能力を最大限引き出すための技術だから」
ティエニとリケの勉強の進み具合に目を落としながら、三郎の期待のこもった問いをさらっと受け流す。何か見せろと言わんばかりの視線に、目を合わせないようにするのも忘れない。
「トゥームって、騎士なの?」
三郎のファンタジック興味を引く単語がぽろっと出たため、思わず騎士という言葉に食いついてしまう。
「わたしはまだ修練兵って言って、修道騎士の資格をもらう前の訓練兵みたいな立場よ」
変なところが引っかかるんだな、とトゥームは内心では思いながらも親切に説明する。
「へー、トゥームは、修練兵って言う、兵士なのか⋯⋯初めて知った」
「まぁ、聞かれてなかったし、平時はただの修道女だもの」
トゥームは、特に問われなければ自分のことを喋るタイプではないが、秘密主義でも無いため、質問されれば素直に答える性格だ。
「トゥームお姉ちゃんは、最年少で修練兵になったすごい人なんだって、大人の人達が言ってたよ」
課題が終わって、トゥームに確認してもらっているリケが、少し自慢げに三郎に話す。
子供達は三人ともトゥームを実の姉のように慕っているので、自分が褒められるのと同じくらい誇らしいのだろう。
「最年少か、すごいな。ちなみに最年少って何歳、だったんだ?」
「んー⋯⋯五年くらい前だから、十四になったばかりだったかな」
リケの課題に丸を付けながら、トゥームは半分上の空で答える。その様子を嬉しそうに隣で覗き込むリケと、まだ課題に必死に取り組むティエニ、そして、ティエニの隣には間抜けな顔でトゥームを凝視する三郎。
「えっ⋯⋯今、じゅうきゅう?まじか」
三郎の口から微かにもれた一言に、トゥームがピクリと素早く反応する。
「サ・ブ・ロー?あなた私の事を、何歳だと思ってたのかしら?」
まずったと三郎が思ったときには、刺すような視線と妙に口角の上がった表情となったトゥームが、三郎を微笑みながら睨んでいた。
トゥームが訓練を受けた兵士だと言う、あまりにも鮮度の高い情報が、三郎の焦りに拍車をかけて次の言葉が放たれる。
「いやぁ、二十代後半くらいかな、と⋯⋯あっ」
「『あっ』じゃないわよ!十歳も上に見えるの!?ウソでしょ?」
トゥームは、実年齢よりも歳上に見られることが多いので、二歳くらい上に見えたと言われても許せたはずだ。しかし、十歳近くも上に見えたと言う予想外すぎる答えに、掴み掛からんばかりの勢いになってしまう。
「何というか、色っぽいと、いいますか、女性らしいと、いいますか⋯⋯ははは」
「はははじゃないわよ!」
流石に十歳も間違った場合の上手いフォローの仕方は知らないな、と三郎も自分自身に呆れてしまう。
「右も左も言葉も分からない状態のときに、暖かい芋を⋯⋯じゃない、暖かく手を差し伸べた人に対して⋯⋯老けて見えるみたいに、思ってても言わないでしょ!っていうか、思ってる自体失礼なんだけど!」
最年少で修練兵になったすごい人でも、乙女なんだなぁと、しみじみ感じる三郎だった。
(四十代から見れば、二十代後半なんて十分若く感じるんだよ、とか言っても理解されないだろうなぁ)
三郎は、そんな事を心の中で考えるが、言った先のハイリスクローリターンを鑑みて言葉をのみこんだ。
次回更新は9月17日、日曜日の夜になります。