第300話 恐怖の表情
ゾレンは、消失した己の右手を前に、唖然とするほか術を持たなかった。
(あの見習い、反物質術式と言っていたか。異なる時空に存在する元素を召喚できるとでも?いや、構築しているヤツの魔法には召喚術式は組み込まれてはいない。であるとすれば、直接この場に反物質を生成している事になってしまうだろうが。ありえぬ、ありえぬよな)
目玉が飛び出しそうなほど両目を見開き、ゾレンは出現した術式を凝視する。
シャポーの魔法を構成している術式は、難解で複雑に組み上げられていた。即座に解析し、対抗魔法を作り上げるのは困難であろうと、ゾレンも直感的に感じ取る。そしてもう一点、おおよそ人族の許容量を上回る魔力が、シャポーの思考空間から魔法へ向けて注がれているのも、見てわかったのだった。
ゾレンが理解しようと試みている間にも、シャポーの魔法は効果を発揮し続ける。
「ぬぅっ」
術の影響を受けて右の袖が消え去ると、手首より先を失ったゾレンの腕があらわとなった。
(私の身に着けている物すらも残さぬ気であるか。しかして、失った右手に痛みも出血も見られんとはな。消滅と明言した通り、存在せぬ物には痛覚もあり得ないと言った所であろうか。いや待てよ……まずい、非常にまずいのではないのかね)
ゾレンは咄嗟に全身を目で確認した。
体のあちらこちらが「存在せぬ物」と化し、ぽっかりと隙間があいている。服も同様に、巨大な虫食いの如く、様々な形で欠けてしまっていた。
「考察している場合ではなかったということか。これも魔導師の性であろうな。とりあえずだ、術式ごと圧し潰してくれよう」
ゾレンは叫ぶと同時に、強靭な意思力で暗黒色の積層魔法陣を動かし、完成させていた重力魔法をシャポーへ向けて発動した。
シャポーの周囲へと、重力術式による影響が表れ始める。
だが、超重力によってぺしゃりと対象を潰してしまう前段階で、ゾレンの術式は停止してしまうのだった。
「何故止まる」
振り向いたゾレンは、要所要所を失った己の魔法陣を目の当たりにする。
暗黒の積層魔法陣すらも、所々削り取られたように変形していた。
(魔法すらも消滅させられるとでもいうのかね。いや、これは違う。術式を構成している魔含物質に対応する反物質により消去されている。重力魔法の法陣が暴走せぬ理由が理解できぬが、間違いのない事実であるか)
眼球を血走らせ、ゾレンはシャポーを睨みつけた。
「小娘が。見習いの分際で、この魔道の天才ゾレン・ラーニュゼーブを消し去ろうなどと、ふざけるなよ」
常から、己を見失った事のないゾレンが叫んだ。
積層魔法陣を失われた手の代わりに操作し、地面に落ちていた剣を拾い上げる。
魔法において絶対の自信を持っているはずのゾレンが、シャポーへと剣を投げつけた。
剣は、魔力によって軌道こそ調整されているが、物理的な攻撃であることに変わりは無い。
積層魔法陣から伸ばされた長いリーチより繰り出される投射物は、人の投げる数倍の速さでシャポーへと迫る。
金属のぶつかり合う音と火花が散った後、シャポーを守るようにトゥームが修道の槍を構えていた。
「魔法以外の攻撃は、防ぐよう言われている」
トゥームが言うと、弾いた剣が地面に落下して高い音を響かせた。
彼女は、シャポーに頼まれていたのだ。
無意識下で展開されるシャポーの防衛術式は、対魔法と対物理の二種類が存在している。
魔法に対応する物については、師匠であるラーネとの訓練によって、細かな調整まで施すことができていた。
ゾレンの魔法をことごとく凌いでみせたのが、その証明だ。
しかし、物理攻撃に対する防御ともなれば話は別となる。
中央王都を奪還する際、機巧槍兵を相手にシャポーが出現させた防御魔法は、大変に見事な球状の魔法ではあったが、シャポーは欠点を見つけていたのだ。
魔法の球の内部と外部を隔てる障壁となり、シャポーを外界から隔離するうえ、解除に多少の時間をも必要としてしまう。
魔法防御の術式に比べ、シャポーは物理防御の術式を十分に調整できていないのだ。戦闘経験の少なさゆえの弱点と言えよう。
「修道騎士めが」
ゾレンは、むき出した歯をぎりりと噛みしめ、恨みのこもった唸り声を上げる。
修道騎士が飛び込んで防いだことから、剣の投擲が有効な攻撃であった可能性を、ゾレンは肌感覚で感じ取っていた。
(大地の魔法陣を経由して送っている、エネルギー結晶からの魔力供給こそ途絶えていない。が、あの魔導師の小娘を倒す手立てを、短時間で見出すことは、私でもできまいな。修道騎士が加わったのだから勝機は絶望的に失われたか。であれば、私が消滅した後の手立てを「私自身」に行うのみかね)
攻撃が手詰まりとなったことで、ゾレンの思考が一方向へと絞られ、奇妙な冷静さが彼の心の中に芽生えた。
「くくく」
「何が可笑しいの」
ゾレンのくぐもった笑いを聞き、トゥームは気が変になったのだろうかと、探るような口調で質問を投げかける。
答えの無い場合は、気が狂った状態で、前触れも無しに襲い掛かって来る恐れがあるからだ。
トゥームの予想に反してゾレンは言葉を返してきた。
「私を追い詰める者がいようとは。いやはや、手さえ残っていれば拍手を送りたい所なのだがね。残念と言っておこうではないか」
ばっと両腕を左右に伸ばしたゾレンが、舞台での口上のように高らかに言う。
彼の背後では、黒い積層魔法陣が密やかに魔法の構築を開始している。体を大きく広げたのは、その動きを可能な限り隠す目的があった。
(私が消え去るまでに、何者かに憑依可能な霊体化の術式を行使せねばならん。最悪でも、意識体となって、生まれ来る命に我が意志を植え付けるだけでも良いとしようではないかね。上手くすれば我が魂を呼び出させ、再度クレタスの地に降り立つこともできよう)
屍術を習得したゾレンだからこそできる芸当だ。
ゾレンの後ろに浮かぶ積層魔法陣は、消失してしまった部位を残る術式で補完しつつ、望む魔法を構築してゆく。
(屍術とはな、魂をも操る術式なのだよ。見習い風情が理解できよう領域では――)
『貴方の魂すら、残す気はありません』
ゾレンの思考を読み取ったかのように、シャポーの声が響いた。
「魂をも消滅させようと言うのかね。そのような理論、仮説とて発表されたことは無いではないか」
冷や汗がこめかみをつっと流れるのを感じつつ、ゾレンは嘲笑うように返した。
『説明するだけ無駄でしょうが「可能」とだけ伝えておきます』
構えを崩さぬトゥームの背後から、両目を青白く発光させたシャポーの顔が覗く。
「ほざいていれば良い。肉体を取り戻した暁に――にょあ」
喋っていたゾレンの言葉が、突然意味をなさなくなる。驚きに顔を歪めたゾレンだが「えう。えお、あ」と声を発するのみとなっていた。
(脳の、一部を、消滅、させ、られた、か。天才、で、ある、我が、頭脳を、ををををを)
ゾレンは体をびくりとさせつつも、必死にシャポーを睨みつけ続けた。
『反物質九十二術式は、消失体積に比例して消滅速度が加速します』
シャポーの言葉は、ゾレンに届いているのかすらわからなかった。
ゾレンを構成する物質は、支えを失いながらも、地面に衝突することは無い。
落下の加速度を上回る勢いで、ゾレンはクレタスから消えようとしている。
「ぶぇば」
呪いの言葉を吐こうにも、思考を失ったゾレンには、言語として一言すらも残すことが許されない。
全てを失う恐怖の表情を最後に、魔導罪人ゾレン・ラーニュゼーブの全てが消滅したのだった。
次回投稿は6月25日(日曜日)の夜に予定しています。




