第0話 プロローグ
王子三朗(42)は、心地よい風に頬をなでられて目を覚ました。意識が徐々にはっきりしてくると、不快な地面の硬さに顔をしかめる。二日酔いで口の中が気持ち悪いのもあいまって、心地よさはすぐに遠ざかって行った。
何とか上体を起こして周りを見渡す。東京で見慣れたビル群や住宅街など、どこにも見当たらない。
「ここ⋯⋯どこだ?」
のどかな平原の中に一本、舗装されていないが踏み固められた土の道が真っ直ぐに通っている。アスファルトで舗装されていないとは言え、二車線道路以上はある幅広の道だ。
遠くには木々が青々と茂り、遥かに霞む山々が美しくそびえ立っている。風景画でしか見たことのない様な景色が広がっていた。そんな中、道の中央にスーツ姿で座り込んでいる三郎は、妙に浮いた存在として感じられる。
「あー、なんだ⋯⋯昨日は⋯⋯」
短く整えられた、いかにもサラリーマン然とした黒髪を掻きあげた。
全く反りの合わない上司への社内接待で、無理やり飲まされた記憶がよみがえる。三朗の知る中でも「良い」店に連れて行けと半ば強引に連れまわされ、三軒目まで全て、これでもかと自腹を切らされた。他社のお偉いさん相手への接待で使っていた上等な店だったため、かなりの痛手だ。当然、接待費として落とせるわけも無い。
そんな情けない立場になったのも、つい最近のことだった。
三郎の卒業大学の学閥トップだった中山常務が、社内事業の失敗で責任を負わされて左遷されたのがそもそもの始まりだ。中山常務にかわいがられていた三朗はもろに煽りを食らい、技術系の部署から慣れない営業系の部署に回された。
その常務と出世で争っていた現在の上司が三朗いびりを始めて数ヶ月。給料は下がるわ、仕事はトラブルわ、まともな部下は付けてもらえないわ、妻は子供を連れて出て行くわ、子供には馬鹿にされるわ、家庭裁判所には呼ばれるわ、養育費は高く取られそうだわ⋯⋯と、散々な日々が思い起こされる。
それなりに大きな企業だったし、出世もそこそこして安定した未来があったはずなのだが⋯⋯。
「はははは⋯⋯はぁ⋯⋯」
目の前に横たわる壮大な自然を前に、乾いた笑いと溜め息が漏れた。
良い空気を吸ったおかげか、二日酔いの気持ち悪さも心なしか軽くなった気がする。太陽が心地いいなと空を仰いだとたん、ふと我に返った。
「って、今何時だ!?会社に遅れ⋯⋯る?」
そう言ってみて奇妙だと気づく。昨日見たTVのニュースで、十二月に入った東北地方では、大雪が降っているとか流れていたはずだ。三郎の住まいがある東京も、十分に寒くなってきていた。なのに、まるで小春日和な気候。いきいきと葉を広げる草木に、清々しいまでの青空。空気もうまい。
「夢か?」
ベタな流れだとは思いつつ頬をつねってみると、予想どおりとても痛かった。痛みのおかげで少しだけ冷静さを取り戻し、ここまでの経緯を覚えているだけ、整理してみることにした。
三軒目で上司から解放され、帰宅するために何とか最終電車に乗った。悪酔いの気持ち悪さを堪えながら、自宅のある駅まで到着するも、最終バスは終わっていた。タクシーを使う手も考えたのだが、出費が痛かったので、仕方無く徒歩で帰ることにしたのだった。
「んで、家に⋯⋯帰った覚えがないな」
三郎は、酔っても記憶をなくした事が無い。歩いて帰る途中、足がもつれて転んだ事を思い出した。倒れた拍子に手に持っていたカバンとコートを、前方に放り投げてしまった映像も甦る。今現在、周辺に見当たらないところを見ると、あのままサヨナラしてしまったのだろう。
酔って無くさないようにと、会社で支給された携帯と自分のスマホをカバンにしまっていたため、通信手段が一つも無い。
そして転んだまま、全てがどうでも良くなって眠気に負けたのだったか。三郎は眠りに落ちる瞬間、とても気持ちよかったのも思い出すのだった。
「あれは、どう考えても死ぬな⋯⋯あの気持ちよさは、死亡フラグってやつだ」
最近、散々な事が重なりすぎていて、なるべく主観的に考えないようにしていたため、この事態もなんとなく他人事のように受け止めていた。
十二月にもなり、酒に酔った中年が路上で眠りに落ちたら、結末は言わずもがなである。新聞の地方欄くらいには載るだろうか、と他愛の無い考えまで浮かんでしまう。
「ここは、天国ってやつですかねぇ?」
冗談交じりに呟いた後、実際には生きていた運のよさに感謝しながら立ち上がる。スーツについた土を払い、あたりを再度確認した。
バス停や電車の駅は無いだろうか。車が通りかかってくれればヒッチハイクしてもいいと、三郎は考える。とりあえず交通手段が何か無いかと思ったとき、ふと気が付いた。
「電線が無い」
『狭い日本、電線辿れば民家あり』なんて言葉が頭をよぎる。中学生の頃、交通標語を勝手にアレンジして作った標語もどきだ。当時、海外の旅行番組を見ていて、のどかな片田舎の町に電線が無い事に感銘を受けたのがきっかけだった。
「酔った勢いで海外に来ちゃたとか?まっさかね。ははは」
そんな事は、三郎自身が不可能だと十分わかっていた。パスポートを持ち歩く習慣の無い人間が、唐突に海外へ出国など出来るはずもない。
乾いた笑いをはり付かせながら、方角を探るために太陽の位置を確認した。三郎の立っている道はおおよそ南北へ延びているようだ。まず、南へ向かう道の先に視線を向けると、遥か遠方に海らしきものが見えた。東京で見ていた海よりも美しく輝いているように感じるのは、気のせいだろうか。
「この距離で美しいも何も分からないか」
自嘲気味にそうもらすと、北へ通じる道へ視線を向ける。なだらかな丘の先へと道が続いて見えなくなっている。特に理由は無かったが、三郎は一路北を目指すことにした。幸いにして、財布はスーツの内ポケットに入れていたので、民家さえあれば何とかなるだろうと、財布を手で確かめた。
「日本にこんな場所、あったっけなぁ?」
一抹の不安を誤魔化すように呟き、おじさんは歩き出した。二日酔いは、不思議なくらいに消え去っていた。
日曜日の夜に投降していきたいと思います。次回は8月27日の予定です。