⒌ありすより、捧ぐ朽ち果てた夢の。
私は何を言えばいいのか分からなかった。言いたいことは沢山あった筈だった。なんで、も、どうして、も。けれどそれらは一つも形にならないで、音のない空気のまま、口から零れ落ちる。
「ねぇ、有子ちゃん」
「ゆういに、会ったの」
やっとの思いで私が絞り出した言葉はそんなものだった。義兄が。いもうとが。いとこが。みんなどこかで苦しんでるのかもしれない。助けたい、会いたい。そう思っていた筈なのに。
「そう。良かった。ね、良い子でしょう。あの子は。不器用だけどなんだかんだ優しいし」
「……けど、会えないよ」
「何か悪いことでもしたの?」
「ずっと探してるような気もするし、さっき別れたような気もする。……私が、無理言ったから」
「有子ちゃんは叱ってほしいの?」
ぽたりとおちた言葉は胸の内を黒く染める。責めてほしかったのか、私は。
父はゆっくりと、言い聞かせるように言った。
「そうしてほしいなら、そうするよ」
優しい言葉。
「帰りたいなら、それも良い。忘れたいなら、忘れさせてあげる。生憎、僕にもできることとできないこととあるから、有守くんと有栖、ゆういについては諦めてもらうことになるけど、ね」
でもまぁ、最初はそうだったし、別に良いのかな?そう言った。
そして言う。けどね、と。
「本当にそうなのかな?また、有子ちゃんは間違えたいの?」
酷く、辛辣な言葉。また、という言葉が重く伸し掛かる。笑顔が無言で私を咎める。
ええ、分かっていますとも。ずっと前から。私は間違えてばかり。けれど、間違えてから気付くんだ、いつだって。
じゃあどうすれば良いの、言いかけた言葉を飲み込んだ。
代わりに唇を噛み締めて、手を差し出した。
「それ、返して」
父は驚いたように目を見開いた。私はまだ血の止まらない父の手を見る。
その手に握られているのは銀の鈴。
「それ、預かってるの。だから、返さなきゃ」
「僕が返しておいても良いよ?」
父は優しく言った。けれど私は首を横に振った。
「私が、預かったの。父さんじゃあ、ないわ」
柔らかく微笑んだ。精一杯の気持ちを込めて。
「父さんに頼むことはない。私がやらなくて、誰がやるの?あの子は」
しっかりと、目を合わせて。
「私の家族だわ」
ふわり、父は優しく笑った。そして私にそれを差し出す。
血で汚れた銀の鈴は少し小さくなったように見えた。
「……いつの間にか大きくなっていたようだね」
「いつまでも、子供のままじゃあ、いられないもの」
じりり、と指先を焦がす熱を抑えて、笑った。
それじゃあ、と父は顔を寄せた。
「ひとつだけ、僕からの餞別」
ゆうこには内緒だよ。柔らかな声が耳を擽る。
「魔法の呪文を教えてあげよう」
耳元で囁いた。
そうして、とん、と私を突き放すと父は笑顔で言った。
「時間をあげようね、少しだけ。これは僕の我が儘だ」
止まった時間が動き出す。
黒い罅割れが走り出して、世界が崩れだした。
ぐらりと音もなく足元が崩れて真っ暗な中に投げ出される。
全くの自然体で立つ父が私を見下ろして、ゆるゆる手を振った。笑顔が憎い。
「さぁ、もう行きなさい。……ゆういに、よろしく」
ああ、誰かに似てると思ったんだよ、さっきの人。
あの人、父に似てるんだ。
……けれど、それならあの人は誰?
◆◇◆
自分の手も見えないような暗闇の中をたゆう。
ゆらゆらと、まるで泳いでいるみたい。吐いた息が泡のように昇っていった。きらきらと光っている。けれどひとつも苦しくなくて、ゆったりと微睡む。
不思議。まるで夢の中のよう。
ぬるい闇に浸かって、漂っていた。
思考が千切れていく。誰のものとも知れない歌が聞こえていた。甘い声で愛を強請っている。
けれど、それすら遠くなり、やがて耳鳴りに似た静寂だけが残る。千々になった歌の欠片が舞っていた。
口からこぽり、と泡が溢れた。
沈んでいるのか、浮かんでいるのか。
ああ、まるで夜の海のようね。
途端、世界が罅割れて光が溢れた。
光が目を焼く。白が世界を染める。ぽたりと落ちた黒い雫は誰?
りん、と、鈴がまた、ひとつ鳴いた。
◇◆◇
「ねぇ、ゆうい」
「来てくれと頼んだ覚えはありませんよ」
鉄の格子を隔てて私たちは言葉を交わしていた。
「あなたのご家族については全部上司に押し付けたので、もう私に用はない筈ですが」
「ここまで必死に頑張ってきた私に言うことですか、それ」
そこはなかなか居心地の良さそうな部屋で、私たちを隔てるものが鉄格子でなければ閉じ込められているなんて思わなかっただろう。
私がいるのは冷たい石畳。彼女がいるのは柔らかそうな絨毯の上。私は立ったまま、彼女は豪奢なソファを一人で占領している。どちらかというと私の方が牢に繋がれているという方がしっくりくる。
「……立場が逆のようだ、と思ったでしょう従姉妹様」
「そりゃあ、そうでしょう。格差ですか、これ」
「私の場合ここにいるのはパフォーマンスの一種ですからね」
「パフォーマンス?」
「意味がないんですよ、私を鎖に繋ぐことは。これは私が本部に属していることを示すための行為他なりません」
つまり、彼女は彼女の意思でここにいる?
高そうなソファにだらしなく寝そべったゆういは凛とした佇まいが嘘みたいに気怠げだった。
黒い目が力なく淀んでいた。……いや、いつも澱んでいたけれど。
「疲れてるの?」
「まぁ、それなりに」
見る限り動く気は無さそうだった。いつ喋ることも面倒だと言い出すか分からない程だ。
「さっきね、父さんにあったの」
「従姉妹様のお父様と言いますと……ああ、叔父さんですか。………………いや、拘束されてる筈なんですけど、何してんだあいつ。……話は、できましたか?」
「あったの久しぶりでね、何話していいのか分からなくて」
「けれど、会えてよかったようですね」
「そう思う?」
「勘ですが」
音はない。水滴が落ちる音がするとか、風が走る音が聞こえるとか、そういったものは何もない。淀んでいるわけでもない。ただ、止まっているのだ。
「それとね、不思議な人にあったよ。父さんに似た人でね、ゆういって名乗ってた」
「それは叔父さんでしょう」
「父さんの名前はありすだよ?」
「その前はゆういでしたから」
「……それなら、なんで私のこと知らないって言ったんだろう」
別に、面と向かって知らないと言われたわけではない。けれど、彼は私のことを知らなかった。少し、それなら寂しい。そもそも父が二人いたのでなければあれは説明つかないではないか。変なの。
じっ、とゆういは私を見ていた。
「知らなかったからだと思います」
言葉を丁寧に選んでいたのだろう、彼女は。ゆっくりとした速度で確かめるように囁いた。
「恐らく、あなたが会ったのはありすになる前のおじさんなのでしょう。名前にはそれだけの力がありますから」
よく分からない言葉だった。父は、父ではないのだろうか。生まれた時はゆういであったとするならば、どうして父はありすになれるのだろう。
親が子供に最初に与える祝福が名前であるとして、それはこれから行く道を端的に示す呪いともなり得る。そんなことは知っている。そしてそれが単純であるが故に酷く強い力を持つことも知っている。それこそ、一生を縛る程に。
そう考えると同じ名前をずっと続けることによって生じる弊害はどれだけのものだろう。同じ道を歩むようにと、生まれながらに定められているようなものではないか。
そしてそれを誰かが奪うことは許されていない。そして、改変も許されはしないのだ。
「あのひとは、"ししばゆうい"という名前を捨てました。名前に付随するチカラごと。だから、行き場を失った名前がその記憶をなぞり形をとったとしても、何も可笑しくありませんよ」
何も言えなかった。そんなことがあっていいのか、私には分からない。ただ、そんな人の血を引いていることが酷く恐ろしいと、そう思った。
いつの間にか彼女の柔らかな暗い目は、底の見えない目に戻っていた。
思い出して、淀む、深い記憶。酷く透明で、何を諦めたらそうなるのか。
「運命を歪める様を異常だと思いますか?」
うっすらと、彼女は笑う。諦めた笑みだった。
「異常ですよ。間違いない。……けれど、あなたの目の前にいる私も、その一人ですよ?」
ーーー分かっています?
声にならない声を聞いた気がした。
「……ねぇ、あなたの名前を教えて」
彼女は笑みを深くした。
「どちらの名を名乗りましょうか。生まれた時に呪われた方?それとも呪った方?」
「与えられたものを」
「ししば、Q#8と申します。ししばの、しし、は神様の神が二つ、ば、は廻る、と書きます。強いて言うなら神々廻とでもいいましょうか」
「名前のところはどうしたの。聞き取れないよ」
「上司に奪われました」
ーーー付随するチカラと一緒に。
甘い、吐息のような声に息が止まる気がした。
「苦しくは、ないの?」
「私よりも、あの方の方が苦しいかと。劣化して尚世界を歪める神々廻。それの真骨頂。あの方がいかに上位の神であろうと私たちの名前に触れるのは並大抵のことじゃあありませんよ」
「……私たちというのは双子の人?」
「ええ。私はソレから名前を奪いました。……意味は、ありませんでしたけどね」
彼女は体を起こすと椅子を降りて、私の方へ歩いてきた。
「それでも、私を連れて行こうと思いますか?」
「……連れて行こうと思ったの、分かってたの?」
「分からないと思いましたか、従姉妹様?あなたは少し、優しすぎますよ」
優しいのはどちらだと思う。
ゆっくりと差し伸べられた左の手が格子の隙間から私の頬に触れた。冷たい手だった。磁器の人形に触れたなら、きっとこの温度だろう。ぴくりとも動かない指先は白く、作り物のような印象を助長する。
私はその手に触れた。
この手は、痛々しいといった私のために用意されたものだ。
「ねぇ、お願いがあるの」
「何でしょう?」
「一緒に来て」
「それに意味はありませんよ?」
「首突っ込んだんなら最後まで付き合って」
引っ込められた手を追った。そしてその手を握る。
「私を助けて」
「求めてばかりですね、従姉妹様?」
「有子、と」
「……意味、分かってます?」
「私が名乗ったの。あなたに私の名前を預けるから。だから、私の名前を呼びなさい。私を認めて」
彼女が溜息をついた。右の手で額を押さえる。
呆れたようだった。
「私に、あなたの人生を押し付ける気ですか?」
「私の名前にそこまでの価値はないよ」
これは事実だ。私に価値がないと断じたあの人は何も間違っていないのだ。特別な力はない。私でなければならない理由もない。掛け替えのないたった一人である、なんて宣うつもりもない。
ここに来るまでにどれだけ思い知ったことか。
「あなたからすれば、私の人生なんて一瞬でしょう?」
握った手を離して、もう一度手を伸ばす。
指を絡めた。
温度のない指は動かない。熱を与えられたなら良かったのに。
「ゆうい」
「はい」
「主任さんに、一緒に謝ってくれる?」
「……え、嫌です」
「そう、ありがとう。じゃあ行こう」
「え、嫌ですからね?私あの方に一緒に謝るとか絶対しませんからね?絶対ですよ?」
「……と見せかけて?」
「死んでも謝らない」
心なしか手が強張っている気がする。まるで悪いことをした子供が意地を張っているみたいだ。
私は空いた片手で少し汚れた鈴を差し出す。
「これ、ありがとう」
「何で汚れているんでしょう」
「父さんがぐしゃって」
「ああ手がぐしゃっと」
どうしてわかるんだろう。
「また馬鹿なことをしているんですね、あの方は」
鈴を受け取った彼女はどこか呆れたように言った。
そして少し、目を閉じて何かを考えるような仕草をして、私の方を向くと、笑った。
「仕方がありません。最初に約束しましたからね。連れて行くって」
ーーーまぁ、従姉妹様にはかなり大変なことだと思いますけれど。
そう聞こえた。
「じゃあ……」
「コレは、もう少し預けておきましょう。私にその権利があるかは別として」
ゆういは私が返したばかりの鈴を押し付けてくる。
「あなたにその権利がないなら誰にあるの。同じ名前の父さんですら拒絶したのに」
指先から痺れが伝わる。
「違いますもの。叔父さんは、私たちとは」
くすくすと、口先だけで笑って、
「名前も、力も、意味はありませんでした。私たちはどれだけ足掻いてもひとりがふたつにはなれませんでした。……けれど」
彼女は私の手を解く。
「それ故に私はいまここにいるのでしょうね」
淡く、甘く、微笑んだ。
◆◇◆
「さぁ、従姉妹様、どうぞ」
どうぞって何が。さぁって何?
「え、と。来てくれるんだよね?私と一緒に」
「そのつもりです、従姉妹様。さぁどうぞ」
だから、どうぞって何だろう。
「私、自力でここから出ることはできなんですよ。腐っても鯛、腐っても上司。逆立ちして太陽が西から三回ほど登らなければ私は彼に勝てません」
「さっき意味ないとか言ってたよね!?」
ていうか勝てるんだ。一応。
「まぁ、あれです。色々です。従姉妹様ごとこの辺一帯上司も巻き込み消滅させてもいいなら方法は幾つかあるのですが……」
「チェンジで!」
「だから、従姉妹様。ここから私を出してください」
「どうやって」
いとこ君はきょとんとした顔で首を傾げると、眉を寄せ、手を顎にやると困ったように呟く。
「従姉妹様、私言いましたよね?かなり面倒なことになると」
「え?あ、うん」
「現在私はこの場に名前を用いて留め置かれています、宛ら翅を画鋲で留められた昆虫標本とでも言いましょうか」
「蝶とか、もうちょっと言葉選べたでしょうに……」
「蝶は嫌いです。特にあの目が」
そうですか。
「……で?私はどうすればいいの?」
「簡単なことです。一言、私の名前を呼んでくださればいい」
「ゆうい?」
「……ああ、すみません。少し言葉を間違えたようです」
名前を呼ぶだけなら易しい。面倒の欠片もない。けれど彼女が面倒だというのだ、そんなわけがない。
現に、彼女は檻の向こうに立っている。
「名前……が、特別なものであることはご存知ですね?」
「それは勿論」
「従姉妹様がいくら従姉妹様といえど所詮従姉妹様、私の運命を縛れる何てことは万が一にも起こりえません」
従姉妹様連呼しすぎだろう。しかも起こりえないでしょうって。確かに、私が彼女の上に立てる何てありえないだろうと言える程度に力の差が歴然としているのは確かだ。認めよう。私ではどう足掻いても彼女に勝てまい。それこそ、太陽が西から昇っても。
けど酷い言い草だな。
「従姉妹様にできることと言えば、精々一瞬、ほんのひととき、瞬き程度の刹那、上司から私の名前を奪還する程度でしょう」
「いや、それ相当だから」
瞬き程度の、何で軽く言うけれどあの美人様は相当な力をお持ちである。神様だと言われても納得できそうだ。そんな方から、役立たず、無能、ただの人間、などと呼ばれている私が名前を奪う?寝言は寝ていえというレベルだ。
しかし螺子の飛んでいるとしか思えない台詞を宣ったいとこ君は首を傾げる。
「そうですか?あなたの力は私にはないものですし、可能かと」
「はぁ?」
「神々廻の血が十全とは言えないものの、あなたには有栖川の方の血があるでしょう」
「……私、あなたに苗字教えたっけ?」
「いいえ、けれど分かります。有栖川は巫女の系統でしょう。先代は特に傑出していましたね、確か名前は結子」
みこのけいとう。せんだい。けっしゅつ。ゆうこ。
……お母様、あなた一体何者?
父といい、母といい、何なんだ。
「彼らの血はこういったことにとても向いていますよ。それに女子に強く出るんです、あの家の力は」
「もうついていけないんですけど」
「まぁそんなものです。必要があれば語りますが」
とにかく、と彼女は一言おいて言った。
「あなたはあの平和ボケして内部に対して警戒を怠った上司程度なら、瞬間的に、ですが、余裕で上回る力を発揮できるでしょう、ということです」
いくらなんでも端折りすぎだろう。分かりやすかったけど。
「じゃあ、私はどうすればいいの?」
「私の名前を呼んでください。上司から一瞬でも主導権を奪えればどうとでもなります」
「……なんて呼べばいいの?」
「神々廻Q#8……あー、名前の音は分かりますね?字を教えます。頑張って組み立てて死ぬ気で喚んでください」
まさかの召喚。
「ゆう、は憂う。い、は祝う。です」
憂い、祝う。憂いを祝う。憂祝。
私はひとつ、頷いた。
「……ゆ、ぅ」
言いかけて、死ぬかと思った。
首が絞まるように、息が止まる。空気が乾いた音を立てて漏れた。
意味を成さない音だけが喉を通り抜けていく。
喉元を抑えて、ゆういをみた。
彼女は凪いだ夜の海のような目で、私を見ていた。
「……ねぇ、ひとつ聞いてもいい?」
「どうぞ」
歌が聞こえた。
夢見るように、泳いでいた。
やさしくぬるい、闇の中。
「『あまい、あまい、あいをちょうだい』」
愛を強請る歌をきいた。
「あれは、だれのうた?」
『にがい、うたは、きらいだわ』
甘い声で歌っていた。ゆういの声に蜜を垂らせば、きっとああなるのだろう。
夜の海。夜明けのない、色。沈んでいく色がそっくりだ。
色を失った唇が戦慄いた。
「……ゆうい」
小さく、私は呼んだ。
焦点が合う。目があう。
「ゆうい」
私はもう少し力を込めて、呼んだ。まだ、届かない。
じわじわと足元から冷たさが這い上がってくる。首に手を伸ばして、ゆっくりと力をかけるように。
一度振りほどかれた手に、もう一度手を伸ばす。冷たいけれど、冷たくない。熱を、愛を、与えられたなら。
「そのうたは、ゆういのものです」
私が、彼女に与えられるものは何?
「ゆういの、在り方でした」
「そっか。でも、あなたのものじゃないね」
手を伸ばすのは、そこに気持ちがあるから。
手を繋ぐのは、熱を分け与えるため。
全てはあげられないけれど、分け与えることならば。
「いつか、あなたのうたを聞かせて?」
きっと、彼女のうたはうつくしい。
それに、ひとかけらでも熱を与えられたならそれはどれだけ素晴らしいだろう。
何もできない私に、ほんの少しのできること。
「きっと素敵。……ね、憂祝」