(36)退職を迷う私
彼の愛情を信じきっていても、どこかおっかなびっくりで一義さんとお付き合いしている。
そんな私に呆れることも笑うこともなく、それどころか彼は『雅美は、ホント可愛いなぁ』と嬉しそうだ。
時々強引に事に及ぶことはあっても、基本的には穏やかな一義さんに優しく包まれ、私は今日も営業事務の仕事に精を出していた。
「雅美、そろそろ昼飯にしようと思うんだが」
新商品を売り込むための資料を纏め終えたところで、一義さんに声をかけられる。
営業部の人たちは私たちの付き合いを知っているので、今さら隠すのも馬鹿らしく思い、過度な接触でなければ彼を咎めることはしなかった。
パソコン画面に表示されている時計を見れば、既に昼休憩の時間である。
「私の仕事が遅くて、待たせてしまいましたね」
苦笑い浮かべると、頭をポンと叩かれた。
「雅美の仕事が遅いと感じたことは一度もないぞ。そうじゃなくて、俺が昼飯を待ちきれなかっただけだ。ああ、弁当はそれか?」
デスクの横に掛かっていた手提げ袋を一義さんが手に取る。
今日は私がお弁当を作ってきたので、それをこれから彼と一緒に食べるつもり。手提げ袋を持った彼について、廊下を歩いてゆく。
そしてこの前と同様に小会議室へと入っていった。この会社では、後片付けさえきちんとすれば、どこで食事をしてもいいことになっているのだ。
手近な席に並んで腰を下ろし、私はお弁当の包みを広げる。蓋を取ると、一義さんが嬉しそうに笑った。
「俺が好きなイワシの竜田揚げが入ってるな」
「たっぷり作ってきたので、遠慮なくどうぞ」
割り箸を手渡したところで、
「じゃ、さっそく愛妻弁当を楽しませてもらうか」
との言葉が。
「あ、愛妻ってなんですか!?」
告げられたセリフに思わず反応してしまう。しかし、彼は平然としたまま。
「いや、愛する雅美に作ってもらった弁当だから、嬉しくて、つい。そうだな、まだ雅美は妻じゃなかったな」
「そうですよ。もう、からかわないでください」
手をパタパタと動かして顔に風を送っていると、
「からかったつもりはないんだが。じゃあ、未来の愛妻が作ってくれた弁当ってことで」
さらに赤面もののセリフが。
「いえ、あの、それは……」
「なんだよ。俺は嘘を言ってないぞ」
ニッコリ笑う彼に、結局私の顔から赤みが消えることはない。
それでも嫌な思いをしたわけではないので、怒るに怒れない私だった。
イワシの竜田揚げのほかに、枝豆入りのだし巻き卵や鶏肉の照り焼きなど、彼の好物を取り分けてあげた。
それらを次々に頬張り、一義さんはお世辞抜きで美味しいと褒めてくれる。
その表情に、私もつられて笑顔となった。
――やっぱり、人から美味しいって言われるのは嬉しいわね。喫茶店を開くのが楽しみなってきたわ。
相変わらず営業事務の仕事に就いているが、喫茶店を開くという話を諦めたということではない。ほんの少しずつではあるものの前に進んでいる。
しかし、まだ退職手続きには踏み切っていなかった。
いっそのこと、思い切りよくスパッと辞めてしまおうという気持ちがなかったわけではない。退職して、開店に向けて集中したほうがいいとさえ思っていた。
ただ一義さんが、『そう、焦ることはないさ。仕事をしながらでも、開店準備は出来る。いよいよの段階になってから辞めても大丈夫だ。お前の夢は逃げていかない』と言ってくれたのだ。
何年も続けてきた事務の仕事に対してそれなり愛着を抱いていることを、彼は見抜いていたのだろう。
相変らず、私以上に私のことを分かってくれているのだと感心していれば、
「息子さんの見合い相手として考えていた雅美を、いきなり奪い取るような形で手に入れたからな。ここでお前を辞めさせたら、雅美のお茶を楽しみにしている阿川部長が木刀を片手にウチの会社へ怒鳴り込んでくるぞ」
と、苦笑まじりに言ってくる。
「まさか。阿川部長はとても懐の広い方ですよ。そんなことをするはずがありません」
焼きたらこが入ったおにぎりを差し出しながらそう言い返すと、彼はさらに苦笑を深めた。
「雅美は本当に分かってないなぁ。中途半端な態度を見せようものなら、般若の形相で詰め寄ってくると恐れられている、あの阿川部長だぞ。その部長が雅美を自分の家に招いて、しかも息子の嫁にしようと考えたんだ。お前がどれほどあの人に気に入られているのか、よく分かったよ」
おにぎりをバクリと頬張る一義さんに、私も苦笑を浮かべる。
「家に招いてくださったのは事実ですが、お見合いを考えてくださったのは、やはり社交辞令としか思えないんですけど」
かぼちゃの煮物を口に運びつつ答えた私に、彼は大きなため息を吐いてみせた。
「今まで雅美には黙っていたが、実は、あれから阿川部長から電話があったんだよ」
「は?いつですか?」
訊けば、阿川部長が滋さんとのお見合い話を持ち出し、そこへ一義さんが割り込んできて私に告白をした翌日のことだという。
部長はあの時いったん帰っていったが、それは私があまりに混乱していたからその場は引いたのだとか。
日を改め、一義さんの気持ちを確かめたかったそうだ。
「本気で雅美を息子の嫁にと考えているから、中途半端な気持ちであったら、すぐさま手を引いてくれないかと言われたよ」
「それは冗談ですよね?」
阿川部長はとても気さくな方で、単なる事務員の私にも親しく接してくれた。
だからと言って、一義さんにそんな電話をするほど私のことを気にかけてくれていたとは、どうしても考えられない。
ところが、彼は大きく首を横に振った。
「冗談なものか。たとえ電話越しでも般若の阿川部長と話をするのは、大口の契約を纏める以上に緊張したな。もちろん、雅美のことを絶対に譲る気のなかった俺も、鬼の顔をしていただろうが」
フッと片頬を上げて笑う一義さんの顔は優しそうに見えて、目の奥がものすごく真剣である。とても冗談を言っているようには思えない。
私は何も言うことが出来ず、やや間を空けてから、コクリと一つ頷くのがやっとだった。
「それだけ雅美のことを気に入ってくれているということだ。見る人が見れば、雅美はそれだけ魅力的だってことだぞ」
その言葉には頷き返すことが出来ず、困った様に笑うのが精いっぱい。
「本当に雅美は奥ゆかしいなぁ。まぁ、いずれは辞めることになるんだ、焦ることはない。それまでは、阿川部長の相手を頼む」
「は、はい」
そう返事をすると、ゴクリとお茶を飲んだ一義さんが静かに微笑んだ。
「それと、雅美に退職を勧めない理由は他にもあるんだ」
「それは何でしょうか?」
首を傾げて横にいる彼を見遣れば、微笑みを浮かべたまま穏やかに話し出す。
「どんな形であれ店を経営するのであれば、雅美は人と接することをもっと覚えた方がいい。だから、もうしばらくこの会社で色々な人と関わり合った方がいいと思ったんだ」
私は言葉を返すことが出来なかった。
自分に引け目を感じていた私は、これまで積極的に人と接することをしてこなかったのは事実だ。
それに以前、喫茶店を開いてみてはどうだと一義さんが提案した時も、美味しい飲み物を出すだけでは経営は成り立たないのだとも思い至っていた。
彼の言うとおり、私はもっと人付き合いというものを勉強するべきなのだろう。
「この前は職場にいることがつらかったら辞めてもいいとは言ったが、それはいい解決方法じゃないかもしれないと後になって気が付いた。雅美が精神的に強くなるためにも、人と接する機会を減らさないためにも、もう少しこの職場で働くべきだと思ったんだ。店主になるということは、給料をもらって働く立場とは違う苦労があるだろう。店を構えた以上、簡単に逃げ出すことも出来なくなる。営業部にはクセのある人間も多いし、外部の人間と接触する機会もあるしな」
色々な観点から私の事を考えてくれている彼に、胸が熱くなる。
一義さんはただ「可愛い、可愛い」と、盲目的に私を甘やかすような、そんな単純な愛情を向けてくれていたわけではなかった。
私の足りない部分を含めて愛してくれて、さらに、その足りない部分を補うための道も示してくれる。
こんなにも深くて大きな愛情を与えられ、思わず涙が込み上げてしまった。
「雅美?」
声もなく涙を流す私に驚いて、一義さんが慌てて抱きしめてきた。
「どうした!?俺の言葉が、なにか気に障ったのか!?だが、俺は雅美のためを思って!このまま仕事を続けるのであれば、俺が全力で守ってやる。いや、もちろん、辞めたければ無理には……」
彼の言葉を遮るように、私は首を横に振る。
「ち、違うんです。嬉しくて、泣いているだけ、なんです」
――彼に愛されて、私、すごく幸せだ。
一義さんに縋りついて、ポロポロと涙を流した。