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(35)存在意義を確認する私

 ご両親を駅まで送っていった彼が帰ってくるまでの間、私は後片付けをしている。食器を全て下げてテーブルを拭き、洗い物を終えたところで、玄関の扉が開く音がした。

「ただいま」

 キッチンに入ってきた一義さんが、濡れた手をタオルで拭いている私を見て軽く眉を寄せる。

「雅美、休んでいてよかったんだぞ。疲れただろ?」

「いえ、そんな。緊張はしましたけど、疲れるほどのことでは」

 昼食を用意するのは大した手間ではなかったし、お二人がいらっしゃったのは三時間ほど。いつになく喋ったので喉がやたらと乾いたけれど、とても気さくな方たちだったので楽しい時間を過ごすことが出来た。

「本当に疲れてないんですよ」

 ほんのり笑顔を浮かべると、彼はシンクの前に立つ私のところへ大股でやってきて手首を掴み、そのままリビングへと向かった。

 無理やり歩かされる状態で、私は彼の後に続く。

「一義さん?どうしたんですか?」

 声をかけたら勢いよく手を引かれ、私はすぐそばにあったソファへと腰を下ろすことに。彼もすぐさま隣に座った。

「あの……」

 一義さんの突然の行動に、パチクリと瞬き。

「どうしたっていうんですか?」

 首を傾げれば、やや苛立った声が返ってくる。

「いいから、ここに座っていろ」

「でも、片付けがちょっと残っていますので」

 腰を浮かせると右隣に座る彼の左腕が肩に回され、簡単に座面へと引き戻されてしまった。

「それは後でいいだろ。さっきまで散々親父たちの相手をしていたんだから、今度は俺の相手をしろ」

 逞しい腕に引き寄せられ、ポスンと彼の胸に収まる。

「はい?今、何と?」

「俺の相手をしろって言ったんだよ。これからは、俺たちの時間だ」

 不機嫌さを隠さない声で告げた一義さんは、私の頭に頬を寄せてきた。片腕で私をしっかりと抱き込み、何度も頬ずりしてくる。

「ったく、あの二人は……。雅美は俺の恋人なのに、俺以上に話しやがって」

 ブツブツと呟くセリフに、私は『まさか』と心の中で呟く。

 

――え、ええと、ご両親に焼きもち、とか?


 パチパチと忙しなく瞬きをしていると、頭の上に大きなため息が降ってきた。

「本当は朝からずっと二人で過ごすはずだったのに、その予定を変更して雅美に会わせてやったのに。親父たち、調子に乗って、予定より一時間も長く居やがった」

 回されている腕に、いっそう力が籠る。しばらくギュウギュウと抱きしめていた彼は、ふいに力を緩めた。

「ああ、落ち着く。雅美、お前のそばは、やっぱり居心地がいいな」

 そう言って、いつもの穏やかな笑顔を浮かべてくる。

「お疲れさん。ウチの親、二人揃って大はしゃぎしていたから、相手するのは大変だっただろ?」

「いいえ、そんなことはなかったですよ。優しくて気さくなご両親ですね」

 労いの言葉を掛けてくれた彼に、私はゆるく微笑みを返す。

 本心から出た言葉だ。

 もっともっと気まずい思いをするかと覚悟をしていたのに、初対面の私にとても優しく穏やかに接してくださって。

 気の早いことに、私のことを既に一義さんの嫁として扱ってくださった。それがけっこう嬉しかったりする。

 阿川部長の奥様に仲良くしていただいた時ももちろん嬉しかったけれど、今日はその何倍も嬉しい。

 また会ってお話したいと思える、素敵なご両親だった。

「それより、私は何か失礼なことをしなかったでしょうか?」

 お二人の前では訊けなかったことを、一義さんに尋ねてみる。

 職場で出迎えるお客様への対応なら慣れているが、恋人の親ともなると勝手が違い過ぎる。ましてや、私はそう言った経験がこれまでに一度もないのだから。

 他人行儀になりすぎても失礼だろうし、かといって、あまりに馴れ馴れしい態度は印象が良くない。

 自分の中で確認しながらお二人と接していたので、不自然さがなかったかどうか気になることろだ。

 オズオズと彼の顔を見上げると、クスッと小さく笑われる。

「そんなことあるわけ無いだろ。雅美はどこに出しても恥ずかしくない女性なんだぞ。料理だって上手いし、お茶の淹れ方は抜群だしな。さりげない気遣いだって完璧だった。駅に向かう車の中で、『いい女性に出会えたな』って、さんざん二人から言われたよ」

 彼の言葉を聞いてホッと胸を撫で下ろす。

「良かった。一義さんのお役に立てたようで、安心しました」

 しかし、彼の顔は私の言葉で急に曇りだした。

「俺はな、役に立つから雅美と付き合っているんじゃない」


―――だったら、何の為に?私と一緒にいても、何の得があるの?


 愛情があるから、と言うのは分かっているけれど。恋愛における付き合いに慣れていない私は、つい損得思考が働いてしまった。

 その思いが顔に出てしまったのだろう。一義さんの顔がますます曇ってゆく。

「……雅美」

 いつもより少しだけ低い声音で名前を呼ばれたかと思うと、右腕も回されて強い力で抱きしめられた。

「きゃっ」

 驚いてその腕の中から反射的に逃げ出そうとすれば、更に強い力で抱きしめられる。

「か、一義さん、どうしたんですか?」

 腕を突っ張って距離を取ろうと試みるも、それは敢え無く失敗に終わった。なので大人しく力を抜いて彼を見つめれば、真っ直ぐな視線が向けられる。

「俺が雅美と付き合いたいと思ったのは、俺の傍にいて欲しい、そして俺がお前の傍にいたいと思ったからだ。雅美のことを役に立つ人間だから、自分にとって便利そうだなどと、そんな馬鹿げた理由なんか微塵もない!」

 怒りを滲ませて言い切った一義さんの額が、スイッと私の肩に擦り寄る。それはまるで私に縋っているようにも見えた。

「頼むから、もう二度とそんな悲しいことを考えないでくれ」

「ご、ごめんなさい。今まで家族以外で私の傍にいてくれた人って、みんな私のことを便利な何でも屋みたいに思う人たちばかりだったから、つい……」

 そこそこ成績が良かった学生時代は、テストの前にだけ親しくなる人が多かった。

『勉強を教えてほしい』

『ノートを貸してくれ』

 普段はろくに会話を交わしたことのない男子までもが、私にそう言ってきたものだった。

 社会人になってからは、よほど差し迫った事情がない限り、頼まれた用件をすべて引き受けてきた。

 それが職場では当たり前のようになり、残業を頼まれることが年々増えていった。

 そのことを話せば、一義さんは苦笑する。

「その人たちは、雅美のことを、単なる便利屋扱いしている訳じゃないと思うぞ。雅美は面倒見がいいから、つい頼ってしまうんだろ。頼りにならない人間を当てにするほど、バカなことはないからな。まぁ、頼られてばっかりの雅美は大変だったろうが、これからは俺のことを頼ればいい」

 優しい表情で告げてくる彼に、私はそっと首を横に振った。

「そんな、悪いですよ」

「何が悪いんだ?」

 怪訝な顔をする一義さんに、

「こんな厄介な私と付き合ってくれているだけでも申し訳ないのに、これ以上頼ってしまったら……」

 と言えば、回されていた手でポンと背中を叩かれる。そして苦笑しながら、彼が私の額にコツンと自分の額を押し当ててきた。

「雅美は、まだ自分のことを卑下する癖が抜けないんだな。長いことそうやって生きてきたんだから仕方ないとは分かるが、もう少し、自分のことを認めてやれって」

 すぐ目の前に彼の顔があることがものすごく恥ずかしくて、むずがる子供のように身じろぎを繰り返す。しかし、私が動くほどに腕の拘束が強まってしまった。

 仕方ないので目を閉じてやり過ごそうとすれば、鼻の頭にチュッとキスをされてしまった。

「あ、あ、あの、わ、私は、自分がどれほどの人間か、きちんと見極めていますよ?」

 再び腕を突っ張ってみるが、やはり、またしても彼と距離を取ることは叶わず。ただ腕が疲れるだけに終わってしまった。

 クタリと広い胸に凭れかかると、「それでいい」と言わんばかりに、また背中を軽く叩かれる。

「いや、雅美はぜんぜん分かってない。それに、俺の愛情も、まだ分かってない」

「は?いえ、それもきちんと分かって」

 いるつもりなのだが、営業部の課長として多くの人と関わってきた彼には、私の心の奥で燻っているモノが分かっているようだ。 

「……だって、一義さんのように素敵な男性に言い寄られる理由が、やっぱり分からなくて」

 黙っていることが気まずくなってボソボソとそう呟けば、盛大なため息が聞こえてきた。

 かと思ったら、横抱きにされた状態で視線が一気に高くなる。

「な、な、なに!?」

「俺の愛情をいまだに信じない雅美に、今から目一杯、愛を埋め込んでやるよ」

 見上げた先の彼がニヤリと笑った。

「は?え?」

「何度も何度も、それこそお前が気を失うまで抱いて、雅美が心の底から俺の愛情を信じられるようにしてやる」

 ちょっぴり意地悪く口角を上げた一義さんからは、やたらと艶っぽい雰囲気が漂ってくる。

「ちょっと、何を考えているんですか!」

「何って、雅美のことに決まっているだろ」

 そう言って、彼は大股で歩き出す。

 背の高い彼に抱き上げられれば、それだけ私は床から離れた位置に。その高さが怖くてギュッと一義さんの首に抱きつけば、「可愛いな」と囁いた彼にキスされる。

 今のは別に甘えた仕草などではない。

 恐怖からくるとっさの行動に過ぎない。

 なのに彼は蕩けるような笑みを浮かべて、私へとキスを続ける。

 その合間にも一義さんは真っ直ぐ寝室に向かい、薄く開いていた扉を足で開けた。

 大きなベッドに背中からゆっくり下ろされ、身を起こす隙も無く彼に圧し掛かられる。

「一義さん!?」

 私の上でマウントポジションを取り、おまけにこちらの両手首を片手でまとめて頭上のシーツに縫い付けている彼の名前をひっくり返った声で呼んだ。

 それに答えることは無く、一義さんは私に深く口付けてくる。

 カーテンが引かれたままの薄暗い寝室に、クチュリという湿った音が響いた。


 しばらく彼の舌に翻弄されて、思考がわずかに霞み始める。ここでようやく唇が解放された。

「は、あ……」

 浅く息を吐けば、左右の瞼にキスを落とされる。

「お前以外はいらない。雅美さえ俺の傍にいてくれれば、他には何もいらないんだ」

 ユルユルと瞼を持ち上げると、真っ直ぐに私の瞳を見つめる一義さんと目が合った。

「雅美を愛してる。お前が自分のことを信じられなくても、俺の愛情だけは二度と疑うな、頼むから……」 

 切ない声で告げられ、私は目を閉じたまま何度も何度も頷きを返したのだった。


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