休演日と、次の脚本
休演日は大事だ。
これは、かつて師匠が俺に教えてくれたことだ。〝舞台は毎日やるものではない。休む日があるから、次の作品が生まれる〟と。
当時の俺は生意気にも「休んでいる暇があれば次の脚本を書きます」と返した。師匠は笑って「お前はそう言うと思った」と言った。
あの頃の俺は馬鹿だった。今は——少しだけ分かる。
休演日は大事だ。
◇◇◇
朝。拠点の廃劇場——最近は「拠点」ではなく「自宅」と呼んだ方がいいかもしれない。七人が暮らす場所。部屋の問題はリゼットが近隣の空き部屋を見つけてきて解決した。衣装係の情報網は不動産にも及ぶらしい。
「お師匠様ーっ! 朝ごはんできましたーっ!」
フィーネの声で目が覚めた。この子は朝が早い。孤児院の習慣だそうだ。
食卓に行くと、全員が揃っていた。
フィーネが焼いたパン。セレスティーヌが作ったスープ。リゼットが市場で買ってきた果物。エリザベッタが淹れたお茶。ニーカが——何もしていないように見えるが、テーブルの配置と椅子の位置を微調整して全員が座りやすいようにしている。安全管理の一環だそうだ。食卓の安全管理とは何なのか。
「いただきます」
七人で食べる朝食。
……第一作の時は、俺一人だった。廃劇場で、干し肉をかじりながら手帳を書いていた。ニーカが加わり、フィーネが加わり、リゼットが加わり、セレスティーヌが加わり、エリザベッタが加わり——いつの間にか、七人になった。
「お師匠様。今日は何するんですか?」
「休演日だ。何もしない」
「えーっ! 修行は!?」
「休演日に修行はない」
「じゃあ——お師匠様と一緒にお出かけしたいです! 市場に行きたい!」
「…………」
「フィーネ。レヴィアン様は今日は休息が必要です。昨日の理事会で——」
「大丈夫だ、ニーカ」
「え?」
「市場くらいなら行ける。——フィーネ、行くぞ」
「やったーっ!」
ニーカが少し驚いた顔をした。いつもなら「修行の時間を無駄にするな」と言う俺が、弟子のお出かけに付き合う。珍しいことだ。
だが——今日くらいは。
「わたしも行きたい。この街の衣装店を見たい」
リゼットが手を挙げた。
「衣装の資料収集か」
「いいえ。普通におしゃれがしたいんです。たまには」
「…………衣装係がおしゃれをしたいと言うのは、職業病か」
「違います。女の子です」
リゼットに睨まれた。すみません。
「わたしも行きたいです。この街の楽器屋さん、気になっていて」
セレスティーヌが竪琴を撫でながら言った。
「弦を張り替えたいの。最近、高音が少しくすんできて」
「音響の整備か。いいだろう」
「あの……わたしは、書店に行きたいのですが」
エリザベッタが控えめに手を挙げた。
「書店? 脚本の参考資料か?」
「いえ。……普通の小説が読みたいんです。お父様の家にいた頃は本ばかり読んでいたのですが、ここに来てからずっと仕事で……」
「…………お前もか。休演日に仕事の話をするなと言っているだろう」
「仕事じゃないです。趣味です」
「趣味ならいい」
全員が市場に行くことになった。七人で。ぞろぞろと。
「レヴィアン様。わたしも行きます」
「お前は何を買うんだ」
「…………何も。レヴィアン様の隣にいるだけです」
「…………」
ニーカの安全管理は、休演日にも適用されるらしい。
◇◇◇
王都エテルナの中央市場。
広大な市場だ。食料品、衣料品、雑貨、骨董品、書籍——ありとあらゆるものが売られている。人混みの中を七人で歩くのは——なかなか大変だ。
「お師匠様! 見てください! この飴、すごく綺麗!」
「フィーネ。買っていいぞ」
「やった! ——あ、あっちにも!」
フィーネが駆け出していく。十二歳の少女が市場で目を輝かせている。暗殺者ギルドの照明係という肩書きが嘘のような光景だ。
「レヴィアン。あの子の手綱、誰が持つんですか」
「お前だ、リゼット。年長者の責務だ」
「なんでわたし……。フィーネーっ! 走るなーっ!」
リゼットが追いかけていった。衣装店に行きたかったはずだが——弟の面倒を見る姉のような顔になっている。
セレスティーヌは楽器屋に吸い込まれていった。店の主人と竪琴の弦について話し始めたら、もう出てこないだろう。あの子は音楽の話になると時間を忘れる。
エリザベッタは書店に向かった。入口で振り返り、「レヴィアン、お勧めの本はありますか」と聞いてきた。
「俺は手帳しか読まない」
「……それは本ではなくメモ帳では」
「芸術家にとっては聖典だ」
「はあ……」
困った顔で書店に消えていった。
残ったのは俺とニーカだけだ。
市場の通りを、二人で歩く。
「……」
「……」
沈黙。だが——居心地の悪い沈黙ではない。隣にいる、という事実だけで十分な時間。
「レヴィアン様」
「何だ」
「……こういう日が、ずっと続けばいいのにと——思ってしまいます」
「……」
「暗殺の依頼もなく、敵もなく、ただ——みんなで市場を歩いて、ソーセージを買って、夜はフィーネの焼いたパンを食べて」
「……ニーカ。それは——」
「分かっています。続かないことは。わたしたちは《終幕庁》の《執行者》です。次の依頼が来れば——また、動かなければならない」
「……」
「でも——今日だけは。今日だけは——休演日ですから」
「……ああ。今日だけは」
ニーカが——俺の腕に、そっと手を添えた。
手を繋いだ、わけではない。ただ、腕に軽く触れただけ。
でも——心臓が跳ねた。
芸術的感動——と言おうとして、やめた。
今日くらいは。正直に。
……嬉しかった。
手帳にも書かない。ニーカに覗かれるから。
◇◇◇
市場の片隅で——骨董品の露店を見つけた。
古い本、錆びた装飾品、欠けた陶器——そういうガラクタが並んでいる中に、一つだけ目を引くものがあった。
古い栞。
《幕引きの栞》とは違う。もっと素朴な、ただの革製の栞。だが——表面に小さく刻まれた文字が見えた。
〝次の頁へ〟
…………。
〝物語は終わらない〟ではなく、〝次の頁へ〟。
師匠の栞が〝終わらない〟なら、この栞は〝続く〟。
似ているようで——少し違う。
「これ、いくらですか」
「ああ、そいつかい。古い栞でね。どこから来たかも分からん。百ラーンでいいよ」
安い。買った。
手に取ると——微かに、温かい気がした。師匠の栞とは違う温もり。もっと——新しい温もり。
気のせいかもしれない。ただの骨董品かもしれない。
だが——何となく、持っておきたかった。
「レヴィアン様。何を買ったのですか」
「……栞だ。ただの栞」
「ただの?」
「ああ。ただの——次の頁へ、と書かれた栞だ」
ニーカがその栞をじっと見た。
「……綺麗な栞ですね」
「そうか? ただの革の切れ端だが」
「でも——〝次の頁へ〟って、いい言葉です。レヴィアン様らしい」
「…………そうか」
コートのポケットに入れた。師匠の《幕引きの栞》の隣に。
二つの栞。
〝物語は終わらない〟と、〝次の頁へ〟。
◇◇◇
夕方。全員が拠点に戻ってきた。
フィーネは市場で飴と焼き菓子と——なぜか小さな照明器具を買ってきた。「照明の修行用です!」とのこと。修行用の照明器具とは何なのか。
リゼットは衣装店で新しいスカーフを買ってきた。「潜入用じゃないですよ。普通のおしゃれです」と念を押してきた。分かっている。
セレスティーヌは竪琴の弦を張り替えてもらい、ついでに楽器屋の主人から新しい曲を教わってきたらしい。弾いて聞かせてくれた。穏やかな旋律だった。
エリザベッタは書店の紙袋を三つ抱えて戻ってきた。買いすぎだ。「読みたい本が溜まっていて……」と申し訳なさそうに言っていたが、全く申し訳なさそうではない目をしていた。脚本家は読書家でもあるらしい。
ニーカは——何も買っていなかった。俺の隣にいただけだ。だがそれが、この子にとっては最高の休演日なのだろう。
夕食は全員で作った。フィーネがパンを焼き、セレスティーヌがスープを作り、リゼットがサラダを用意し、エリザベッタがお茶を淹れた。俺とニーカは——テーブルの準備だ。
「レヴィアン様。お皿の配置は——」
「安全管理で配置するな。普通に並べろ」
「普通に並べています。最も効率的な動線を考慮した配置ですが」
「それを安全管理と呼ぶな」
食卓を囲んだ。七人分の皿。七人分の椅子。七人分の——温かさ。
「いただきます」
「いただきます!」
「いただきます」
「いただきます」
「いただきます」
「いただきます」
「いただきます」
七つの声が揃った。
……第一作の時は「いただきます」を一人で言っていた。干し肉に。
今は——七人で言っている。焼きたてのパンと温かいスープに。
「お師匠様。ソーセージ、取り分けますね。ハイリゲン産の特製ソーセージ!」
「ああ。もらう」
「チーズも! シュタインバッハの!」
「……フィーネ。お前、各地のお土産を全部持って帰ってきたのか」
「はい! だってお師匠様に食べてもらいたかったから!」
「…………ありがとう」
ソーセージを食べた。美味かった。各地で命がけの任務をこなしながら、お土産を買ってくる弟子の気持ちが——ソーセージの味を、もう一段階美味くしていた。
「レヴィアン。わたし、聞きたいことがあるんですけど」
リゼットがワインを片手に言った。休演日なので酒もあり。
「何だ」
「これからどうするんですか。ベッカーは捕まった。《終幕庁》の改革が進む。師匠の物語も完成した。——で、わたしたちは」
「……」
「《黒幕連》壊滅の特別指令は終わった。ベッカーの件も片がついた。通常の依頼は来るでしょうけど——劇団としての〝大きな目標〟がなくなった。……このまま、通常の暗殺をこなしていくだけ、ですか」
リゼットらしい、率直な質問だ。
「……」
「わたしは別に、それでもいいんですけど。ただ——レヴィアンは、それで満足するタイプじゃないでしょう」
「……お前に俺の何が分かるんだ」
「衣装係ですから。相手を観察するのが仕事です。——レヴィアン。あなた、〝次〟を探してるでしょう」
「……」
否定できなかった。
ベッカーの件は終わった。師匠の物語は完成した。《終幕庁》は変わろうとしている。——全てが一段落した。
だが俺の中には——まだ何かが残っている。完成していない何か。次の作品を求める、芸術家としての衝動。
「……正直に言えば——分からない。次に何をすべきか。今までは〝敵〟がいた。《黒幕連》がいて、ベッカーがいて。倒すべき相手がいたから、作品を作れた。だが——敵がいない状態で、俺は何を作ればいいのか」
「……お師匠様」
フィーネが、ソーセージを頬張りながら言った。
「敵がいなくても、作品は作れますよ」
「何?」
「だって——お師匠様がいつも言ってるじゃないですか。〝暗殺は芸術だ〟って。でも最近のお師匠様の〝芸術〟って——暗殺じゃなくても成り立ってません?」
「……」
「ブラウトさんを告白させたのも、ディートリヒさんやハフナーさんやリートさんを救ったのも——暗殺じゃなかったですよね。〝人の物語を完成させる〟ことが、お師匠様の芸術で。暗殺は——その手段の一つに過ぎなかったんじゃないですか」
……この子は。
たまに——本当にたまに——核心を突いてくる。照明の修行で磨いた観察力が、師匠の本質すら照らし出す。
「……フィーネ。お前に言われるまでもなく、俺は芸術家だ」
「はい! 知ってます!」
「暗殺がなくても——芸術はできる。物語を完成させることが俺の仕事なら、暗殺でなくてもいい。……かもしれない」
「かもしれない?」
「……いや。まだ分からない。分からないことは手帳に書いておく」
手帳を開いた。
『フィーネの問い。暗殺がなくても芸術は成り立つか。答え——分からない。だが、考える価値はある。俺は〝暗殺の芸術家〟だと名乗ってきたが、本当にやりたかったのは〝暗殺〟ではなく〝物語を完成させること〟だったのかもしれない。師匠が教えてくれたのは暗殺ではなく演出だった。俺が本当にやるべきことは——まだ見えていない。だが、次の頁は確かにある。……今日、市場で買った栞がそう言っている。〝次の頁へ〟と。——まだ最高傑作は生まれていない。でも、次の頁を捲れば——見つかるかもしれない』
「レヴィアン様。覗いてもいいですか」
「ダメだ」
「……」
ニーカが残念そうな顔をした。いつものことだ。
「レヴィアン」
エリザベッタが本を閉じて言った。
「わたしから一つ、提案があるのですが」
「何だ」
「次の〝作品〟の脚本を——もう書き始めてもいいですか」
「次の作品? まだ依頼は来ていないが」
「依頼がなくても——脚本は書けます。〝こういう物語があったらいいな〟という脚本を。……お父様が〝壮大な叙事詩〟を書いて道を誤ったなら、わたしは〝小さな物語〟を書きたい。誰かの人生を少しだけ良くする、小さな脚本を」
「……小さな物語、か」
「はい。暗殺の脚本じゃなくて——ただの、物語。レヴィアンが完成させたいと思える、物語」
……面白いことを言う。この脚本家は。
「書いてみろ。採用するかどうかは——読んでから決める」
「はい!」
エリザベッタが嬉しそうに頷いた。書店で買った紙袋の山が——もう、資料に見えてきた。
◇◇◇
夜。全員が寝静まった後。
俺は一人で、屋上に出た。
王都の夜空。星が見える。都市の明かりが星を消してしまう場所が多いが、廃劇場の屋上からは——少しだけ、見えた。
コートのポケットから、二つの栞を取り出した。
《幕引きの栞》。師匠の遺品。〝物語は終わらない〟。
そして今日買った栞。〝次の頁へ〟。
二つを並べて——手帳に挟んだ。
……先生。あなたの物語は完成しました。あなたの弟子は——まだ、ここにいます。
次に何をすべきか。まだ分からない。暗殺者でいるのか。芸術家として別の道を歩むのか。この劇団をどこに導くのか。
分からないことだらけだ。
だが——怖くはない。
なぜなら——
「お師匠様ーっ。屋上にいたんですかーっ」
フィーネが梯子を登ってきた。
「……お前も寝てなかったのか」
「お師匠様がいないから、探しに来ました。——あ、星、綺麗ですね」
「ああ」
「お師匠様。……次の作品、楽しみにしてますね」
「……まだ何も決まっていないぞ」
「でも、お師匠様なら——絶対にすごいの作りますよ。わたし、知ってます。お師匠様は〝まだ最高傑作は生まれていない〟って言うけど——いつか絶対に生まれます。わたし、それを照らしたいんです。お師匠様の最高傑作を——わたしの光で」
「……」
「だから——ずっと、照明係でいさせてくださいね」
「……当たり前だ。お前以外に照明係は任せられない」
「えへへ」
フィーネが笑った。星明かりの下で。
……この笑顔を見るためだけに、次の作品を作る理由がある。
「お師匠様。明日は何しますか?」
「……明日も休演日だ」
「えーっ! 二連休ですか!?」
「たまにはいいだろう。劇団が七人もいると、休みも取らないと——」
「お師匠様が休みって言うの、初めて聞きました……」
「……成長したんだ。俺も」
「お師匠様が成長……?」
「うるさい。寝ろ」
「はーい。おやすみなさい、お師匠様」
「ああ。おやすみ」
フィーネが梯子を降りていった。
一人になった。
星を見上げた。
手帳を開いた。最後のページ。
——いや。最後の頁ではない。次の頁だ。
書いた。
『第二部「幕間劇——あるいは、演出家の物語」。完。——まだ最高傑作は生まれていない。だが次の頁がある。次の作品がある。次の舞台がある。そして——この劇団がある。照明係がいる。衣装係がいる。音響係がいる。大道具係がいる。脚本家がいる。そして——演出家がいる。俺が何者であっても。暗殺者でも、芸術家でも、聖者でも、名誉劇場長でも、カルチェラータ報告書の著者でも——何者であっても。物語を完成させる人間であることだけは、変わらない。次の頁へ。——次の頁へ』
手帳を閉じた。
二つの栞が——並んで、温かかった。
まだ最高傑作は生まれていない。
でも——次の頁がある。
これからも劇団員たちと、共に。




