第四話 最強の弟子 前編
けたたましいスマートフォンのアラームに起こされ……ることなく、カーテンの隙間から漏れる温かな日差しの下で彼女、伊吹冬華は気持ちよさそうに眠っていた。少し緩んだ口元があどけなく緩み、そこに見せる幼さがどうにも彼女を高校生に見せない。
鳴り続けるアラームに眉をひそめると、その瞼を重たそうに開ける。そうして、体を捻り、枕元に置かれたスマートフォンに手を伸ばそうとしたところで、それは彼女に襲い掛かる。
「はうあっ!」
脹脛、太腿に走ったその痛みに、彼女はベッドの上で悶絶する。先ほどまで微睡にあった意識は一気に覚醒し、その痛みに戸惑うように瞳を丸くする。
「え、え? なんですか、敵襲ですか?」
首を左右に振り、部屋を見回すも痛みの原因は外部にはなく、彼女が何かを見つけるということはない。
不思議そうに首を傾げながらベッドから立ち上がろうとする。そうしてカーペットに足を付け立ち上がろうと力を込めたところで、再びその激痛が彼女を襲った。
「はうあっ!」
そうして力が入らない足に、彼女の上体は倒れ込むようにカーペットに墜落する。
「もふっ」
もこもことしたカーペットの材質に助けられた彼女は自身を襲う痛みの原因に思い至る。
「まさか筋肉痛ですよ、これは!」
アラームの音が鳴り響く部屋の中、彼女は一人、カーペットを這いずるのだった。
今日も今日とて遅めの登校をしようとした矢先にそれは現れた。階段を下り、エントランスへ向かおうと思えば向かいの階段にそれがいたのだ。
「……何をしている」
「し、師匠~」
唖然とする直樹の正面、階段にへばり付く様に一段一段を慎重に下る冬華の姿があったのだ。
「なるほど。新しい筋トレか。斬新だな」
「え、これ鍛えられるんですか⁉」
「そんな訳ないだろう……」
一瞬表情を明るくさせた冬華とそれを呆れた様子で眺める直樹。今日はもう時間通りの登校を諦めているのか、焦る様子もなくしっかり制服に着替えてたので、直樹も落ち着いて彼女に対応することができたのだ。
「それで、何がどうなってそんな愉快なことをしているんだ」
「実はなんと私、今何を隠そう筋肉痛なのです!」
「だろうな」
いかにも大層な理由の様に述べる冬華の言葉を受け流し、直樹はため息をついた。
「日頃運動してこなかった奴があんな無茶な運動すれば当然だろう」
「ですよねぇ。でも、筋肉痛がこんな生活に支障をきたすものだとは思ってもみませんでした」
「普通の人間はそれ程無理な運動をしないからな」
そう言うと、直樹は手元のスマートフォンで時間を確認する。そろそろ出ようかと玄関に目を向けると、冬華は泣きそうな声で彼を呼び止める。
「待ってください、師匠! 助けてくださいよぉ!」
そんな風に情けない声を上げる冬華に直樹は再び視線を戻す。もはやそこから動こうと言う意志は彼女にはないようで階段に座り込み、ずり落ちないように手すりに掴まっていた。
「自業自得だろう」
「そんなぁ!」
筋肉痛がよほどこたえたのだろうか、彼女からはいつもの快活さが感じられず、悲壮感が漂っていた。それ程、思う様に体が動かせないというのは辛いことなのだろう。
「もしかして、私はこれからずっと動けないんですか?」
「……は?」
「私の騎士への道はここで閉ざされちゃったんですか?」
昨日の精神力はどこへやら、体が弱っている時は思考も悪い方へ向かうようで、彼女はらしくない後ろ向きな思考に陥っていた。
「そんな訳ないだろう……」
そんな彼女の涙目に直樹は呆れたように嘆息を漏らす。
「その痛みはお前の体が努力に報いようとしている証拠だ。昨日走った分だけ確実に体力は付いている」
「師匠……」
その言葉に彼女の弱気な思考は霧散したように掻き消される。そうして新たに上書きされるのはいつもの前向きな彼女の笑顔であった。
「そうですよね! 私、強くなれますよね!」
「それはこれからのお前次第だろう」
「ですよねー」
「だから、今日は部屋で寝ておけ。担任には俺が連絡しておく」
「えっ、でも……」
「良いから休め。師匠命令だ」
その言葉に冬華の思考は停止する。世界が止まったかのような静寂は彼女の頭が他のことを認識できない程に彼の言葉で満たされているからだろう。頭の中で彼のセリフがリフレインする。次第に意識する場所は収束していき、気付けば彼女の頭の中には『師匠命令』の文字だけが埋まっていたのだった。
「師匠命令ですかっ!」
そうして居ても立っても居られない冬華はその勢いのまま立ち上がる。しかし、立つことがままならなかったが故にここまで這ってきた彼女が、階段の上で立ち上がればどうなるか。
「ひぎぃ!」
その痛みに強張る体。力も入らず、緩やかに倒れる先が床ではなく階段側であったことだけが救いだろう。
「はうあ!」
再び階段に張り付いた彼女を横目に直樹は歩き出した。
「ここまで降りてこれたんだ。戻るくらいできるだろう?」
「ま、待ってください、師匠! 本当に、本当に師匠でいいんですよね!」
少し赤くなった額を擦りながらも、その顔に浮かぶのは満面の笑みだ。その大きな瞳はこの先の希望に煌めきだし、直樹はあまりにも嬉しそうな彼女に思わず笑みを浮かべる。
「私、どんくさいし、空気読めないし、体力だってありませんけど……」
玄関の扉に手をかけようとする直樹に、階段の手すりから身を乗り出して冬華が語りかける。
「それでも、一番弟子にしてくれるんですか!」
ここに来て『一番』弟子というあたりに直樹は彼女らしい天然さを見出し、笑う。そして、彼女の、一番弟子である彼女の不安を取り去る様に直樹は宣言する。
「ああ、してやる。お前を……」
彼は彼自身に宣言する。
「学園最強の弟子として」
その覚悟に、その熱意に、その羨望に応えてみせると宣言する。
「立派な騎士にしてやる」
「師匠ぉ!」
今にも抱擁を交わすかという空気の中、彼は無情にも玄関を開けさっさと出て行ってしまった。バタン、と扉の閉まる音だけが寮の共有スペースに響く。
「……あれっ?」
その光景に冬華は首を傾げる。師弟関係となったにも関わらずあまりにもドライではないかと。
「ししょー。ししょー」
呼びかけてみるも再び寮の玄関が開くことはなく、確かに直樹が登校してしまったことを彼女は理解した。
「もしかしなくても、本当に放置ですね、これは」
彼は言った。ここまで降りれたのだから自力で戻れるだろう、と。
「確かにここまでは何とか這ってこれましたけど……」
振り返り自室までの道程を確認する。それは特筆することがないほどに普遍的な会談と廊下であったのだが、彼女にはこれまで歩んできたどの道よりも過酷に思えた。
「でも、立派な騎士になるならこれくらい……」
これから彼女が進むことになる騎士への道。その厳しさを考えれば、今彼女の目の前にある帰路なんてものは取るに足らないと言い聞かせる。
「伊吹冬華、行きます!」
これが彼女の第一歩。学園最強の弟子として踏み出す、騎士への道の一歩なのだ。
「あっ!」
思うように上がらない右足が段差に躓き彼女はバランスを崩す。
「はうあっ!」
こうして彼女は第一歩を無事、踏み外したのだった。