下 光の終焉
…
………………
夜の街を歩いていた。
ふと、人影が目に留まる。
向こうも、こちらを見る。
無視する。
でも、かまわず彼女は近づいてくる。
無視する。
彼女は、何かを言う。
何も反応できない。
彼女は話しかけ続ける。
けれど、どうしても何も反応することができない。
腹が立ってくる。
ナイフが、手の中にある。
これで、自らの首を掻っ切るか。
相手の生命活動を停止させるか。
後者しか、選択肢はない。
その人は、何も反応しない。気付いているのに。
その人の背にナイフを突き刺し、―突き刺そうとして、この人の髪を見た。
髪が長い。
それは、そう、加賀峰凛のように。
加賀峰凛。
―加賀峰凛?
その人の顔を見る。その顔は、確かに、目を閉じた加賀峰凛のものであった。
ナイフには、赤い液体がこびりついている。
突き刺したつもりはなかったのに。
加賀峰凛は、もう動かなかった。
ふと、なにかの感情が巻き起こっていた。
それは、
怒りか。
悲しみか。
憤りか。
悲哀か。
充足感か。
不足感か。
相克する螺旋状の二つの感情が、僕を支配する。
相克螺旋の果てに見えるものは、常に皆無。
その二つは、
僕にとって。
……
答えは出ない。
ただ、時だけが過ぎていく、闇の中で。
立ち尽くし、頬に何かが一筋、走ってゆくのを感じた。
………………
ふと、目が覚めた。時計を見る。七時半。せっかくの早起きだったのに、今日は土曜日という失態。でもまあ、風邪はすっかりよくなったようだ。
ち、と舌打ちをして携帯を手にする。時計表示を見る。七月二十一日、土曜日。
僕は体を起こす。一人下宿の大学生にとって、土日はすなわち睡眠の日だ。しかし僕は土日に限って早起き属性を持っているため、一般大学生の責務に従事することができない。すなわちは、退屈。
でも、退屈は嫌いじゃない。喧騒としたところに群れているよりもむしろこちらのほうが好きだ。
ばふっと布団に体当たりをかます。ああ、疲れてない。
退屈な僕の頭に、ふと、凪の言葉が浮かんだ。
『十三人目に、あなたを殺す』
「もう九人目だってのにな」
どうして、こう、僕は平然としていられるのだろう。
「もっと生に対して執着しなさい」
自分にそう言っては見るものの、誰も返事なんて返してくれない。僕は僕にさえ無関心なのだから。
「そうだ、本」
僕は大学から借りてきた、広辞苑並みに分厚い本を鞄から取り出した。羅貫中、三国志演義。図書室にぶらりと出かけたら国語の先生に一方的に押し付けられたこの本、暇つぶしになることには間違いあるまい。
僕は本をぺらりとめくった。
………………
ジョンレノンの、イマジンで目が覚めた。
目が覚めた?すなわち、僕は寝ていたのだ。僕の頭には件の本が載っている。
さて、なんで僕はイマジンを聞いた?イマジン。それは僕の携帯の着信音である。すなわち、誰かしらから電話が来て。
ああそうか、電話だ。僕は慌てて携帯を開き、電話に出る。フロム加賀峰凛。
「もしも」
「みーちゃん?私ー。風邪は大丈夫だよねー。あのさー、三時から、暇だよねー。じゃあ三時に迎えにいくから、用意しといてねー、じゃあバイ」
プツッ。
「……し」
電話はそこで切れた。くそ。もしもしも言えなかった。一方的に言うだけ言って切りやがった。さすがだ。
さて、情報を整理しよう。 風邪?治ったとも。三時から暇かだって?それは全力で肯定だ。しかし、迎えにいくだと?ここに?
どこに行く気だ?
ここで時計を見よう。二時十分。つまり一時間後には、僕はここにはいないわけだ。
準備、とか彼女は言っていた。何をしろと。
とにかく僕はパジャマを脱ぎ、服に着替えることにした。どこかに、出かけるつもりらしいからね。
僕が首をかしげながら着替えている間に、時というのは無常にも確実に過ぎ去っていき、時計は二時半を告げていた。
「ふぅ」
僕はさっきまで枕にしていた分厚い本を手に取った。十ページまでしか読んでいない。我ながら根性がない。
よし、と気合を入れなおし、三国志演義、十一ページを開いた。目の前にインクが一定の法則に沿ってちりばめられたものの羅列が広がる。
それは少なくとも、三十分くらいなら十分に時間をつぶしうるものであった。
僕が、劉備が徐州太守になったあたりまで読んだところで、パタパタという足音、そして、ガチャリ、と鍵のまわる音がした。
「ちゃおー、みーちゃんお待たせー。あれ、何読んでんのー?わあ、三国志ー?みーちゃんが三国志だー。わーい。諸葛亮ってかっこいいよねー」
臥龍はまだ出てきてない。
「そう?あの子が出てこないと話にならないよー。まーそんなのはいーや。早くいこー」
「どこに」
「デパートメントストアー」
さらりと。まぶしいばかりの笑顔で、彼女はそういった。
時計は、ちょうど三時を回ったところだった。
………………
彼女の話では、何か買いたいものがあるらしく、
「一人じゃ寂しいから、みーも一緒に来なさい」
との仰せ。
しかし、本当に欲しいものがあるのか疑わしくなるくらい、ショーケースがある度に立ち止まっては「わー」だとか「うにー」だとか言っている。金は掃いて捨てるほどあるくせに、なかなか無駄遣いはしないようだ。骨董品集めで、それは十分なのだろうから、僕は何も言わなかったけど。
とにかく、それはどこの人でもやってそうな、平凡な買い物であった。つまりは、デートとか言う代物なのかもしれない。まあ、相手が相手だし、それは自意識過剰というものだ。
とにかく、僕は久しぶりに、普通の人間らしいときを過ごせた。
そして、ふと、こういうのもいいかもな、と思った。
思ってしまった。
………………
僕は、とある店の外で凛を待っていた。
「みーちゃんは外にいないとダメー」
とのこと。
「うし、おーいおっちゃん!おかいけー」
そんな声が聞こえたので、もうそろそろ出てくるだろう。
なんとなく人ごみに視線を投げかけると。
ふと。
綺麗な顔が目に入った。
それはずっとこちらを凝視していたらしく、人ごみの中にいてもそこに百年前からいたかのような存在感をあらわにしている。
彼女は何をするでもなく、黙ってこちらへ歩いてきた。
「ひさしぶり。買い物?」
彼女―美渚凪は、僕に、凛とはまた違う笑顔で話しかけてきた。
「うん、まあそんなものか」
「そう」
彼女は興味なさそうにつぶやいた。
「順調か?」
僕はそうとだけ言ったけれど、彼女はしかと了承した。
「ええ。あなたに行くまで、あと二人かしらね」
一人増えた。
後、二人、か……。
「あのね。もうちょっと反応したらどうなのよ?つまらない」
「僕は自分にさえも無関心だからね」
「死のうが生きようが?」
「多分、ね。その時になってみないと分からないな。そのとき抱く感情が、後悔か、充足感か……若干知りたい気もするんだよ。自分が、この世のことを本当はどう思っていたのかを」
「自分で自分がわからないのね」
「それが僕のアイデンティティーさ」
「よくわからないわ」
「僕も」
「……ばかみたい」
凪はあきれたようにそう言った。
「……でもね、少なくとも、あの長い髪の子は悲しむでしょうよ。それでもあなたのことを好いていてくれているんだから」
「分かってるよ、それくらい。何度も本人から言われてるしね。」
そう、と凪は言った。
「あなたは、あの子のこと、好きじゃないの?」
凪はそう言う。
好きか、だって?
確かに凛は、僕に大きすぎるほどの愛を注ぐ。それは決して母性本能から来るものではないということも承知している。
それなのに。
「……別に。そう言うわけじゃ、ないよ」
なんで。
「じゃあなんで一緒にいるの?」
「……楽しいからね」
「あの子の隣にいることが、でしょう?」
そう、あくまで隣なのだ。
「そうかもね」
「……あなたは選ぶことが嫌いなようね」
「そうかもね」
「もう。よくそれで、あんな天然な女の子とやっていけるわね」
「凛はことが細かかろうが大きかろうがかまわず無視する人だからね」
「ミッチーの比喩表現は分かりにくいわ」
凪に言われるとは。
「そう?でもね、何よりも悪いのは無関心なのよ?」
それは聞いたことがある。愛情の対義語は、憎悪ではなく、無関心。古くから使い古された言葉だ。
「まあね」
「好意でも悪意でも、抱かないのかしら。もう少し彼女に思いやりを持ったらどう?」
「思いやり、とは」
「……もういいわ」
凪はあきれをさらに重ねた。
「とにかく、もう少し命を大切にしなさい」
「君がそれを言うか」
僕の命を奪う予定の殺人鬼が、それを言うのか。
「まあ、そうね」
彼女はあっさり引き下がった。
「確かに今のはばかげた話かもね。……じゃあ、そろそろお暇させてもらおうかな」
そう言って、凪は僕の肩越しに何かを見ていた。ふと後ろを見ると、凛がニコニコしながら立っていた。
「じゃあ、ね。もう一度言うけど、経済学のレポート提出は来週までだから、もう忘れちゃダメよ」
どうやら凪はなかなか人に気遣いのできる人らしかった。普通の友達同士としてなら申し分のないお人だろう。
変な誤解を招かぬように、あくまでクラスメイトであるように装う。僕もじゃあ、と言っておいた。
「ああ、凛、ゴメン、待たせて」
「いんや、待たせたのは私のほうだかんねー。さて、かがりんはおなかが空きました。どこかで一服入れましょーよ」
彼女は、明るくそう言った。凪のことなどどうでもいいらしい。
「了解、どこがいい」
彼女はすぐそばにあったファーストフード店を指差した。そうだ。凛はジャンクフード嗜好者だった。
僕らは連れ立って中に入り、バリューセットを二つ頼んだ。ハンバーガーにドリンク、ポテトつき。合計千五十円ナリ。
さすがファーストとは名ばかりではなく、感心するほどの速さでセットを持ってきた。(いや、それは意味が違う)凛がハンバーガーにむしゃぶりついているのを、檻の外から愛護動物を見ているような感覚で見つつ、ポテトを口に運ぶ。
「ねーみーちゃん」
「ん」
「今日はありがとねー」
「いや、目的の物は買えた?」
「うん、ばっちり。でさ、もしかして、今日、何の日か分からない?」
「七夕」
「当に過ぎたよ。あう、ホントに分からないんだー」
凛は面白そうに笑う。そんなこと言われても、何も思いつかない。
「うに、じゃあ思い出させてあげよー」
そう言って、凛は綺麗に包装された箱を突き出してきた。
「どうしろと」
「みーちゃんおたんじょーびおめでとー!ハッピバースデイトゥーユー!!」
「僕の誕生日は二十一日だよ」
「七月二十一日土曜日でございマース」
あれ、そうだったんだ。自分でさえ忘れていた。
「とにかく、これ受け取りなさい」
「ありがと」
僕は袋を開けた。スペードのキーホルダーだ。
「ひょっとして、さっき買ってたやつか?」
「あったりー。ほらほら、私のハートとペアなんだよ」
そう言って嬉しそうな凛の手には、ハートのキーホルダーが握られていた。
「ありがと」
僕は繰り返した。
「いーのいーの」
そう言い、ハンバーガーを三口で食べる凛であった。
「みーちゃん食べ終わったね?よしゃ、じゃあお会計してきまーす」
「待った、自分のは自分で払う」
「だーめ、今日はみーちゃんのバースデイだもん」
そう言って凛は僕の制止した。そういわれると僕はどうしようもなく、おとなしく外へ出ることにした。程なくして凛も出てくる。
「ほじゃ、今日のイベントは大成功ってことで。もう帰ろーか」
時計を見ると、すでに六時半という。
……………………
「帰りは歩こうよ」
とのことで、僕らは河川敷を歩いていた。夕陽はとうに沈み、空は蒼から赤、紫を経て、そして黒へとなっていった。
うにー、暗いよーと言いつつ凛は手を絡ませてきた。拒否するのもナンセンスな話なので好きにさせてやることにしよう。
「あのさあ、現在って何だと思う?」
唐突に凛はそういった。
「曖昧だね。でも、刹那刹那のことを指し示す単語ではないと思うよ」
「私もそう思う。例えばさ、今、私とみーちゃんはここを歩いている、これ現在。でもさ、気がついたらここにいたわけじゃなくて、みーたんと約束して、デパート行って、買い物して、ハンバーガー食べてっていう歴史があるから、今というものがあるんだよね」
「それは未来についても言えそうだね」
「そーだね。未来がなければ、現在なんて概念は芽生えないからね。そもそも人類進化の原点は、時間意識の発現にあると思うよ。例えば、ここに一人の原人がいたと仮定するよ。その子は全く蓄えのない「現在」の自分に気付いて、このままでは餓死してしまう「未来」を思い、一人では成功しなかった「過去」の狩を思い出して、仲間と一緒に狩に行く。こうして社会が出来上がっていって、その過程で欲望が生まれて、進化街道まっしぐら、と。」
「まあ、そういうことだね。もしかしたらさ、現在ってのは自分の意思が介入しうる唯一無二の現実のことを言うんじゃないかな」
「といいますと?」
「だからさ、過去には自分の意識なんて介入の仕様がないじゃん?未来なんて言語道断、だから、過去を踏まえつつ、未来に向けて何らかのアクションを起こしうる、合流地点ともいうべき場。それが、現在なのかもね」
「うん。そうだね、『合流地点』かあ。新しいね」
「新しいだけだけどね」
あはは、と楽しそうに笑う凛。
と。
視界に、何かが入った。
何か。姿はまだ捉えられないけど、それが何なのかは感覚で分かった。
暗くなりかけてきている道の傍ら、転がっているモノ。
それが、無機質名アスファルトの地面にたたずんでいた。
「凛」
「うに」
僕は指をゆっくりと持ち上げた。
「あれ、見えるか」
凛がそちらを向き、そして楽しげな表情が一変する。凍りついた。
「……見える」
「行くか」
「しかないね」
僕らは自然、早足となる。
日はすでに没し、街灯が頼りない明かりを漏らすのみである。そこにたどり着くのに、そう時間はかからなかった。
「うわ……」
凛が柄に合わず驚愕……いや、そんな言葉では言い表せない、言うなれば決して起こらないと信じていた悪夢が現実になった、そんな感じだ。
「ひどいね」
僕は割合、ショックは小さいほうだった。もっとも、凛もそれほどのショックを受けているわけではないと思う。凛の精神構造は、かなりに強い。
ただ、この現場の悲惨な光景に圧倒されているだけのように思える。辟易、その表現が、一番正しいのかもしれない。
その死体の顔は、けれど安らかで、やっぱり苦しまなかったんだろうなあ、と思う。
すでに生命活動を停止したそれ。肉片という言葉が頭をよぎった。その表現が適当だろう。生命活動を停止した時点で、それは物体であるという事実のみしか残ることのない。
しみじみと、人間とは、所詮有機物の塊でしかないということを感ぜさせる瞬間であった。
「うにー、さて、何を呼ぼうか。警察かね?」
「だろうね、救急車なんて呼んでも意味なんて微塵にも劣るね」
「よっさー」
そう言って、凛は携帯を取り出した。
「あれー、日本の警察って117だっけー?」
時間を聞いてどうする。
「110だよ」
ういっす、と言って携帯を耳元に運ぶ。
僕は改めて現場を見直して、ふと、頭に変な思いがよぎった。
凪。お前はこんなことをしていたのか?
何をしているんだ。もっと他にもやることあるだろうに。
首筋には一筋の赤い線。これが致命傷だろうが、血はあまり出ていなかった。
鋭い刃で切られた瓜は、その鋭さゆえに、切られた直後に切り口を合わせると元に戻ってしまうと言う。そこまででもないけれど、まあそれに近いものだと思う。
彼女の綺麗な笑顔と、この惨たる有様は、けれどかけ離れていると言うわけではなかった。
これで、十一目か。
あと、一人。
人間は、死ぬる時節に死ぬがよく候。
僕は死ぬときに、何の未練も、何の文句も言わずに消えてしまうのだろう。
自らの死を、第三者の死としか受け取れない、欠陥人間である僕にとって。
死後とこの世界の違いを見出すことは難しいことであるから。
ただ、僕が死んだら、凛はどうするのだろうか。
ふと、そんな疑問が頭をよぎった。
「すぐ来るってよー」
凛は少しこわばったものの明るい声でそう言った。
「そうか」
僕はそう言うのみだった。
………………
僕らは、事情聴取を少し受けてから、現場を警官方に任せ、そこを後にした。
「いやあ、あそこまで安らか死に顔な死体は初めて見たよー」
「そう何度もお目にかかりたくはないものだよね」
「まーねー。でもまあ、たぶん……というかほぼ間違いなく、あれは件の殺人犯と同じ人だよね」
凛は硬く笑う。
「まあ、まずそうだろうね」
「……この分じゃあ、まだ増えるだろうね……」
凛はぼそりとつぶやいた。
「みーちゃんがやられないといいんだけど」
「大丈夫さ」
ごめん。嘘です。
「そう?」
凛は心配そうに僕の顔を覗き込む。少しだけ、ほんの少し、心にちくりときた。
「じゃー私はこの辺でさよならなんだよ」
「そうか、じゃあ」
「ばははーい」
そう言って凛は無邪気に手を振る。
無防備な笑顔。
明け透けな笑顔。
僕は目をそらし、早急に家へと向かった。
………………
「ふう」
僕は書き終えた経済学のレポートを見直し―本当にあったのだ。というか、忘れていた。同じ学校でもないのに、偶然だといいんだけど―鞄にしまった。
「……お腹空いたな」
僕は冷蔵庫へ歩み寄るが、小腹にちょうどよいものは何も入っていなかった。
「買いに行きますか」
今日はまだ夜の散歩をしていない。あの日以来、僕は夜の散歩を嗜好するようになった。散歩がてら、コンビニへ。合理的。まだ十一人目だし。
僕は財布を手にし、玄関を出た。
生ぬるい風邪に気持ち悪さを感じつつ、すぐそばのコンビニエンス・ストアに向かう。
暗い道を歩くと、否応無くあの日の夜を思い出す。今から思えば、あの時の僕はどうかしていたのかもしれない。
と。
「あれ」
後方に何かを感じた。
さっと振り向き、影が電柱の陰に入った。
凪ではなさそうだ。彼女はあんなに露骨ではない。独学のプロフェッショナル・キラー。それが彼女のアイデンティティーなのだから(意味不明だ)。だとしたら、誰か。
まあいい。とられるものなんて命しかないわけだし、その命も凪に奪われる予定なのだ。
コンビニに入り、適当なお菓子と菓子パンを購入。そして雑誌コーナーへと歩いてゆく。適当な漫画雑誌を手に取りページを開く。目を一瞬漫画に落とし―
そして、外を見る。
「ッ……。」
黒いコートを身にまとい―それはいつも通りか―いつもはつけてないはずの、つばの広い帽子をかぶり、髪の長い少女がそこに立っていた。
加賀峰凛。
僕は雑誌を棚に戻し、外へと出た。うわ、暑い。クーラーと熱帯夜の温度差攻撃なんて卑怯極まりないぞ。
僕が歩き出し、少ししてから凛らしい人も僕を追う。
僕は、無視することにした。
やがてアパートへとたどり着き、僕はドアを閉めた。台所のほうへ行き、ドアと同じ方角にある窓を開け、外を見た。
髪の長い少女が、ここが見えそうな位置に立っていた。足元に水筒を持参するあたり、結構大物なのかもしれなかった。
「ふう」
僕は窓を閉めた。
彼女の精神構造は単純なのだ。
彼女にしてみれば、たぶん、僕が殺人鬼に狙われるかもしれない、と思ったのだろう。彼女は僕が夜の散歩を嗜好しているのを知っている。それを阻止するため、見張りに来たと。
あのな。
「……寝よう」
僕はコンビニで購入したものを食べることも忘れ、布団へもぐりこんだ。
………………
「……ふう」
私はそんなため息をついた。
暗い街を、頼りない電灯が明るくしている。正直怖い。暗闇でないだけまだ救いかもしれないけど。
……のどが渇いた。足元に持参した水筒を口元に運ぶ。口内に麦茶が流れ込む。うん、やっぱり麦茶だね。
用済みの水筒を足元に置き、みーちゃんの部屋の監視を続けた。勘の鋭いみーちゃんのことだ、もう私が見張ってることなんて気付いているかもしれない。でも、私はこうせずにはいられない。
こんなことしても、何も意味ないことは分かっている。みーちゃんが、自分の存在をそう思い込んでいるように。
「でもね、みーちゃん」
意味の無い存在なんて、存在しないんだよ。みーちゃんは自分の存在を無価値、無意味だと思っているけど、そうじゃないんだよ。
私は、みーちゃんがいてくれるだけで嬉しいから。
みーちゃんが私に何も抱いていなくたって、構わないから。
だから、死のうなんて思っちゃダメ。
そのためにわざわざ外で散歩するなんて、止めてよ。
殺人鬼。
私はあなたのことを知らないし、あなたは私のことを知らないだろうけど、一つだけお願い。
もしあなたがみーちゃんを殺そうとしているのなら、止めてください。
もしどうしても殺したいなら、私を殺してください。
彼がいてくれるだけで、存在し続けるだけでも私は嬉しい。
彼の死は、私の世界の一つの崩壊と同義なのだから。
世界の崩壊は、すなわち精神崩壊なのだから。
お願いだから。
………………
私はナイフを引き抜いた。
それは「うう」と言った数瞬の後動かなくなった。
開いているまぶたを閉じる。
少しだけ、苦しませてしまったかもしれない。
とにかく、これで一二人目。
「ああ」
十三人目。
ミッチーの我関せずオーラ満載の顔を思い出した。
正直、どうなんだろう。
あの人は。
自分が殺されることをどう思っているのだろうか。
凛、と彼は呼んでいた。
凛が、彼の死でどれだけ傷つくか、彼はわかっていない。
でも、そんなのは、たぶん関係ない。殺すときは殺す、苦しませないように。それが私流。
私は乱れた服のすそを直し、月明かりに照らされ、そこを後にした。
私は、いつまで暴走を続けるのだろうか。
もしかしたら、私は求めているのかもしれない。
誰に?
何を?
でも、例えそうなったとしても、それはそれでいいのかもしれない。
何が?
何で?
答えなんて後付なものははいらない。
その時、事実として受け入れればいいのだ。
…ふと、そんなことを思ってしまった。
「……情けない」
感傷なんて、久しく忘れていたと言うのに。
朝が来る。
………………
僕は十時に覚醒した。
だるい体を起こして、台所へ向かう。窓から外をうかがうが、さすがにそこに凛の姿は無かった。
と、お腹がご飯を食べるのだ、とうるさく告げた。ぐぐう、と。
「ああ、しまった」
昨日何のためにコンビニへ行ったのだろうか。せっかく買ってきたものを、食べるのを忘れて寝てしまった。
まあいい。予定としてはすでにそこに無いもの、つまりは得だ。
僕は少し得した気分になりつつ、菓子パンの袋を開けた。
それはあっという間に腹の中へ消え、お菓子も瞬殺。
さて。暇だ。
三国志に手を出そうと思ったが、ふと気になることがあったので本屋へ行くことにした。
………………
「あ……」
僕は思わずそんな間抜けな声を出してしまった。
今、僕は本屋の雑誌コーナーにいる。情報雑誌を手に、そこに佇んでいるというわけだ。
さて、僕の間抜けな声の要因となったのは、次のゴシック体の羅列である。
『連続殺人事件、十二人に』
もう十二人か。十三引く十二は、一。
次は僕。
まだ二日はあるかな、と思っていたのに。
リミットは切れた。
時は満ちた。
…なのに、何も感じなかった。
ただ、事実として受け入れただけ。
受け入れた?
受け入れたのか?
僕の心からは何も帰ってこなかった。やはりこいつは僕にさえ無関心なのだ。
『もう少し、自分のことを大切にしたらどう?』
そんな凪の言葉が古来する。
「ふう」
全く、なんていう、戯言だ。
僕は雑誌を購入することにし、早々とそこを後にした。
どこに行こうかなんて考えてもいなかったけれど。
でも、僕の足はどうやら凛の家へ行きたがっているようだ。
大人しく従ってやろう。
たまには、最期にはこんなのもいいかもしれないから―
………………
チャイムを押したけれど、返事は無かった。
「二時まで寝ているなんて、あいつらしくないな……」
そんなことをぼやきつつ、凛からもらった鍵でオートロックを解除する。
エレベーターを経由して凛の部屋まで行き着き、チャイムを押したけれど、やはりうんとも言わなかった。
僕は首をかしげながら鍵を突っ込む。かちり、と小気味いい音が響き、ドアは開錠した。
「おじゃま……」
と、言わないんだった。凛いわく、お邪魔じゃないからそんなこと言わないの、らしい。あいつは日本人の謙譲の風習を何だと思っているのだろうか。
廊下を通り、僕は凛の寝室兼私室に入る。
と、スー、スー。そんな規則正しい吐息、すなわち寝息が鼓膜を震わせた。
僕が五人は横になれそうなベッドを見ると、真ん中あたりにちょっとした小山ができていて、頭だけがひょこっとでていた。
「……。」
なるべく音を立てないようにして凛のほうへ向かう。
安らかな寝顔。こんなに寝相がよいとは思ってもいなかった。起きるときにはベッドから落ちてさらに反転している族の一員だと思っていたのに、五分前に布団に入ったばかりのような、そんな寝相。
むにー、とほっぺたを伸ばしてみたい衝動に駆られたが、僕の理性は何とかそれをこらえた。
仕方ないので普通に起こしてやることにした。
ぺち、ぺちとほっぺたをたたく。『普通』という判断基準は人それぞれだ。
「りんー、起きろー。暇だー」
「うに」
反応あり。
「僕だー、りーん。おーい……」
「うにー。……あれ、みーちゃん?なんでここに?と言うかここ私ん家?のようだね。あれ?ホワイアーユーヒア?なんだよ」
なんかよく分からない。
「お前らしくもない、寝坊だよ」
「へ?今何時?」
「二時」
「あうー寝過ごしたー。しかたない、昨日は遅かったもんで」
そうだったね。何時くらいまであそこにいたの?なんて露骨なことは聞かない。こいつはこいつなりにがんばっていたのだ。
「そうか」
そうだけ言った。
「あれ、ていうかなんでみーちゃん?」
「暇だったから」
適当にそんなありきたりな言い訳を口にする。
「ホントに!?わはお、すごいや!みーちゃんが特に何の理由もなしにここ来たー!
この瞬間が天然記念物!ビデオビデオ。撮影開始なんだよ」
凛はこの三十秒でテンションを一気に最大×三分の二にまでもっていきやがった。これ以上のテンションを、こいつは十二時間以上も維持し続けるのだ。こいつのタフネスは、僕も学ぶ点があるかもしれない。
「はいこれ、おみや」
そういって、僕は凛に雑誌を渡す。凛は興味深げに雑誌を引っつかんだ。
「……ついに、十二人目か」
そんなことを凛は言った。
「やっぱり、スタイルに変更はないね。頚動脈切断によるショック死。ただ少し、苦しんだ後がうかがえるね」
そこまでは気がつかなかった。死体の顔写真は―こんな写真を出していいのだろうか、と疑問に思ったほどのアップ写真―、確かに若干歪んでいたようだ。
「でも、まぶたは閉じられてるね。少し、犯人に心の乱れがうかがえるかな」
凛はいつから心理学者になったのだ。それに、凪が心を乱す理由なんて思い当たらない。
「でも、やっぱターゲットは変わらず青年かー。みーちゃん、頼むから死んでくれるなー」
頑張ってみるけど。
「よし、……おはよー!さわやかな朝だね!」
そういって、彼女はがばと起きた。黒いコート、昨日と同じ。寝るときくらい脱げって言っているのに、こいつはこれだけには聞く耳を持たない。
「寝癖治して、顔を洗おう」
「もー、やあだよ。めんどい」
まあ、言うだけ言っただけだ。やるなんて天地がひっくり返っても思わない。
そして、これからは特筆すべきことなど何もない、ただの雑談に時を費やした。
すぐ先に、そんなことが控えているなんて気にもせず。
ただ、すこし、まあ、うん。
もう少しだけ、こういう時間があっても、よかったかもしれない。
もう少しだけ、こうして凛と話していたいのかもしれない。
けれど、そんなのは所詮戯言。
そんなものはやがて零と一に還元される、無駄なこと。
失うようなものは、作らなければいい。
互いに傷ついてまで続けるような関係は、断ち切ってしまえばいい。
形あるものにはやがて終わりが来る。
精神はやがて無に帰する。
簡単に、精神なんてものは崩壊する。
それは、必ずしも死だけによるものではない。
だから、僕は感情を捨て、彼女は自分のうちに占める感情の割合をより大きくした。
やがてなくなるものを捨てるか、わかっていてなお使い続けるか。
そこが、彼女と僕の、決定的な違いだった。
結局彼女は針の上の安定を手にし、僕に訪れたのはただの戯言。
無関心は、加賀峰凛の愛を受け自我の崩壊を促した。
壊すか、壊れるか。
結局僕は何も決断せぬまま、誰かに決められた崩壊の道を手に取った。
愛されなかったというのは、生きなかったのと同義である。そんなニーチェの言葉があるが、愛さなかったことは、果たしてどうなのだろうか。
そういう意味では、多分、僕は生きていたのだろう。
ただ、愛さなかっただけで。
加賀峰凛。そのあけすけな笑顔は、僕を所詮行くことのできない光の夢を見せる。
手を伸ばせばそれだけ遠くなり、手を伸ばさなければそれだけ近くなる蜃気楼のようなそれは、違いを見せつけながら僕を圧迫し続ける。
感情を捨てた僕は、ひとつ余計なものまで捨ててしまった。
それは、自我。
自らを客観的に見つめ、社会集団の一員としてみなすこと。
それが多分、僕に圧倒的に足りない。
だから僕はこうも無関心で。凛はああもあけすけでいるから。
けれど、それがうらやましかった。
そんなことは、断じて、ない。
ただ、僕は知りたいだけなのかもしれない。
自分にすら無関心であった自分の死に際して、何を抱くかというのを。
凛を、自らの肉体を失うことで、僕が凛にどんな思いを抱いていたのかということを。
もし僕が、僕でも凛でも凪でもない、ただの傍観者であったら、僕をこう評すだろう。
『死に際して自らを知ろうとする欠陥人間』と。
けれど、僕が今抱いているものは何なのだろうか。
死にたいわけじゃない。
生きたいわけでもないけれど。
どちらでもいいし、どちらでも大して変わらない。
生きるきっかけがあれば生きるし、死ぬきっかけがあれば死ぬだけだ。
ただ何かが来るのを待ってから、そこへふらふらと歩み寄っていくだけだ。
拠所を捜し求める、夢遊病者のように。
何もしない。ただ自分に降りかかろうとすることのみを受け入れる。
自分の存在の醜さを見せ付けられてしまった、あの日。
抗いはしない。
そんな行為、当にやめた。
それさえもめんどくさい。
無関心ゆえの無感動。ただ死ぬきっかけがなかったから、自殺するなんてめんどくさいし、かっこ悪い気がしたから死ななかっただけの話。
死に直面し、自らを知ろうとする欠陥人間。
要は、抜け殻なんだ。
なんだ、そんなの欠陥どころじゃない。
……失格だ。
そう、人間失格。
僕はそれを深層心理の中で理解していたから、今こうしているのだろうか?
失格者は生きないほうがいい。
生きるだけで迷惑だから。
結局は、やはり戯言なのだ。
「さて、暇はつぶれたし帰るよ」
僕は凛にそう言った。
「そう?じゃあ気をつけてねー」
案外あっさりと彼女は引いた。
僕は部屋を出るとき、凛に向かっていった。
「そうだ、凛はいい子だよね」
「見た目からして百パーセント、善人でしょー」
彼女はそう嘯く。
「いい子は、夜に出歩いちゃだめだよ」
「あう」
硬直する凛。
「どーうしたの?急に……さあ?」
明らかに動揺が見える凛。
「いや、別に。なんでもないんだけどね」
「変なみー」
明らかに安堵がうかがえる凛。
「とにかく、今日も来るの?」
「あうう、なんのことさあ」
なんか可哀想になってきた。
「ごめん、ほんとになんでもない、戯言」
「うー」
じゃあ、と僕は凛に別れを告げた。凛は答えないかな、と思っていたら
「じゃねーっ」
と打って変わって元気になった。山の天気もここまで露骨には変わるまい。
僕は凛の部屋を出る。
「……さて」
でも、ここにきたことだって、全くの無駄じゃなかったようだ。
ひとつ、大事なことを思い出せたから。
とにかく、僕は凛のマンションを後にした。
………………
外はすでに暗くなっていた。
僕は窓から外の様子をうかがう。
「……やっぱりいるか」
電柱の影、加賀峰凛はそこにいた。
仕方ない。やっぱり凛は純粋だけどいい子ではないようだ。
僕は首を振って、外へ出た。
影がさっと動く。僕は無視し、できるだけ悠々と下へ降りる。
「ふう」
生暖かい風が皮膚にまとわりつく。日本の夏特有の高温多湿な夏は、夜にもその爪あとを残していく。
その最要因たるアスファルトを足蹴にしつつ、僕は何も考えずに歩き出した。
………………
今日はずいぶん歩く。
私はみーちゃんの背中を追いかけながらふと思った。
そう、今日のみーちゃんはなんかおかしかった。
まるでこれから死地へ赴く入隊したての兵隊のような、そんな挙動不審。
昨日が特別なのか、今日が特別なのか。いや、そんなことはどうでもいい。
私が恐れていることは、彼が殺されてしまうこと。
考えるだけで、気が狂いそうになる。
ただ、彼の存在だけをよりどころにしていた私にとって。
彼の死は、私の精神死ともつながるのかもしれない。
私がそこにいたところでどうなる、なんて考えてもいなかった。
…………………
ずいぶん歩いた気がして、ふと意識を招来すると、僕は土手に立っている自分を発見し
た。
「疲れた」
言いつつ、ちらと後ろを伺う。凛らしき人影が目に入る。
僕は、不意に走り出した。
なぜこうするのか、自分でもわからない。理性では到底感知し得ない要因。
後ろから足音がしたが、やがてそれは遠いものとなった。
僕は走るのをやめ、後ろを伺った。そこに凛はいない。
「ああ、そうか」
僕は一人、つぶやいた。
走り出した理由。それは、凛だけは巻き込んではいけないという深層心理。
そして、ここは。
「……。」
あの橋だった。
僕は橋の下へと歩みを進めた。
生い茂った草を踏みつつ、光とはまったく無縁、橋の下へとやってきた。
………………
「なんで、ここにいるの?」
しばらくして、後ろから声が聞こえた。続いて、カラン、と。
僕は答えなかった。
「あなたも困ったものね。そんなに殺してほしいの?」
僕は口を開いた。
「さあ、わからないよ。気がついたら、ここにいた、それだけだ。死にたい、なんて思ったことないわけじゃないけど、そう多くはない」
「生きたいとは?」
僕は首を振った。
「死ぬのも億劫だし、自殺なんてかっこ悪いしね」
だから、今僕は最高にかっこ悪いのさ、と自虐気味に言った。
「女の子は、悲しむでしょうに」
ああ。
「確かに、そうかもしれない。悲しんでくれるかもね。でもまあ、うん。ただなんとなく。いや、ただ、自分が死ぬときにどんな気持ちを抱くのか、それは楽しみかもね」
「可哀想だわ」
「そうかい」
「あなたなんてどうでもいいの、欠陥人間さん。でもね、女の子はどうなるの?彼女にとって、あなたは唯一の拠所、それなのに」
「知っているような口を」
「知ってるわ」
つけてたもの、しばらく。そう彼女は言った。
「そうかい」
「あら、ミッチーに限った話じゃないのよ?今まで私が殺した人たちはみんなつけていたわ。殺さなかった人たちも、だけどね。私は、我慢できないのね。何も目的がなくただ生きてる。死にたくないから、零か一の二択だから、とりあえず一、生を選ぶって言ういい加減な人がね。まっとうに生きたくても、生きられない人もいるのに」
彼女はそう言うと少し哀しそうな目で僕を見た。
「私は、その中の一人なの。生きたくても、まっとうに生きられないって、言うね。話したっけ?私の家は、それなりの名家だったの。お金もあったし、父も母も優しかったし。それなのに。こんなありさま……」
少し以外だった。
暗い過去。
触ってはいけない傷。
そんなものが凪にあっただなんて。
何かを求めて。
乗り越えようとして。
彼女は今、ここにいる。
乗り越えるのがいやだからここにいる、弱いもの。
「……それは僕だ」
凪に聞こえないようにつぶやいた。
「さて、お話はおしまい。そろそろ、約束を果たそうかしらね」
そういって、気がついたら凪はナイフを持っていた。
凪は、悪戯っぽく微笑んだ。もし場面が違ったなら、五人中四人は心を射抜かれそうな笑みだった。ちなみに、その一人は僕である。
「最後に一言。あなたにとって、あの女の子―凛さんは何だったのかしら?」
「ハッ……」
僕にとって、凛とは、だと―?
畜生。
なぜ、それを今まで一度も考えようとしなかった―?
凛にとっての僕は。
僕にとって、加賀峰凛とは。
何なんだ?
幼馴染。いや。
「あら、考えたことなかったんだ?ふふ、残念。もっと、早く気づいてたらよかったのにね」
その声は、風に消えた。
ふっと。僕はよけた。
「なんでよけるの?あなたは死にたいんじゃなくて?」
友達。違う。
「あら、もしかして死に直面して、やっと生きたいって思った?」
親友。ふざけるな。
「もう少し、早く気づけるとよかったわね。でも、まあ遅いね」
彼女。―彼女?いや、違うだろう。
凪が疾走する。風よりも早いんじゃないかと思う速さに、僕は対抗する術を持たない。
気がつくと、僕は凪に組み伏せられていた。
ナイフが、高々と掲げられる。
「じゃあ、ね」
加賀峰凛。
いつも隣にいて。
いつも隣にいてくれた。
いつも隣にいて、無邪気で、嫉妬するくらい無防備な笑顔を咲かせていた。
それは心を、
蝕み。
壊して。
―和ませて。
生きる意味。存在の証明。
……そうだ。
「ああ、そうか」
「みーちゃん!!」
刹那。
甲高い声が、静寂の空間を切り裂いた。
ふと、そちらに目をやる。
髪の長い少女。
小柄で、子供みたいな十九歳。
加賀峰―凛。
「……なんで」
僕の唯一の願いさえも、神は聞き入れてくれなかったのだろうか。
しかし、当の凛は、こちらを見ていた。暗いのに、よく僕の顔が見えることだ。いや、彼女の目には、僕しか目に入っていない。
凪なんて、網膜に映ってすらいないだろう。
「ああ、よかった……」
そんなことを言った。
暗い中。
暗いところが苦手だと言っていた彼女。
心因的な恐怖は、時に自らを崩壊させるほどにも強力であるらしい。
こんな暗いところに。
すくむ足に鞭打って。
高鳴る心臓を押さえつけて。
ただ、僕のためだけに。
と。
僕の上の少女は、さっと凛のほうを向いた。
高々と掲げられていたナイフが、凛のほうへと向いた。
そう、彼女は―凪は、殺人鬼だったのだ。
「……やめ…」
乾いた唇。下はもつれ、うまく言葉を紡がない。
畜生、こんな時に。
凪が、殺人鬼が、ナイフを構え、何も知らずに安堵している凛へ突進する―
「止めろ!!」
凛の首筋の寸前、凪の腕がぴたりと止まった。凛は何が起こっているのかよくわからないような目で、ぼうっと僕のほうを見ている。自分があと少しで殺されるなんて、考えてもいないだろう。
「そいつのことが、好きなんだ」
僕は知らず、そんな言葉を言っていた。
これが答えだ。
僕にとっての凛。
凛にとっての僕。
それは、
幼馴染じゃない。
友達じゃない。
親友でもない。
恋人でもない。
ただ、
かけがえの、ない存在なのだから。
「……だから、殺すな」
殺す、という言葉に反応して、凛がようやく事態を察知したようだ。うにっ!と悲鳴を上げるが、そこから動こうとはしなかった。
と、凪の肩がふるふると震え始めた。
怒っている?―いや、違う。
「ふふ……あはははははは!!」
笑っていた。さもおかしそうに、体をくねらせ……はしなかった。
「はは……あー、面白い。殺そうと思ったけど、止めた。白けた。とんだ茶番ね。全く。でもまあ、あなたみたいな人からそんな言葉が聞けただけでも十分ね」
そんなことを言うと、今度は彼女は凛のほうへ向き直った。
「ごめんね、彼氏さんに。でも、いい物を見させてもらったわ。いいことも教わったしね。
……凛さん、だっけ」
いい人ね。うらやましい。
そんなことを凪は言う。ナイフを鞘に収めると、どこに行くでもなく歩き出した。
「……ああ、みーちゃん」
硬直していた凛の意識が戻ってきた。
ぱたぱたとこちらへ近寄ってくる。
僕はいまだ地面に伏したままだったので、腕を支えに起き上がる。
「みーちゃん、ほら、手」
凛は、手を差し伸べてきた。
小さな手。
細い、華奢な手。
僕は、無言でその手をとった。
よいしょ、と立つ。
「さて、と」
「帰ろうか」
そうだね、と僕は言った。
それ以上、言葉は何も要らない。
どちらからともなく、二人は手を絡ませていた。
………………
カラン、カラン、カラン、と。
下駄の音は、いつまでも夜の街に響いていた。
■ ■
僕は街にいた。
待たされるのには慣れている僕には、一時間くらいの遅刻は無に等しい。
あれから、どのくらい経ったろうか。少なくとも、一週間は経った。
……この街を賑やかしていた連続通り魔は、十二という数から先へ行くことはなかった。嘘のように、ぱったりと姿を消してしまったのだ。
でも、それのほうがいいのかもしれない。
何かを求めていた彼女。
それを見つけられたのなら。
ふと遠くへ目をやると、白いワンピースを着た加賀峰凛が目に入った。今日は珍しく、黒いコートは着ていなかった。
僕の姿を見つけると、うれしそうに手をふる。
僕もとりあえず手をふり返す。
けど、その心には虚無しかなかったわけではない。きちんと、不安だとか、焦燥だとか、そして希望だとかも収まっていた。
でもまあ、今日は最後者のしめる割合が多いかもしれない。
第二回加賀峰凛アンド僕の買い物フェスタ。
僕はそちらのほうへ歩んでいく。
ふと、横を見る。
そして人ごみの中に、僕はきれいな顔をした和風の少女を見出した。
偶然、運命、奇跡。そんなのを信仰する僕ではないけれど、とりあえず今回は信じてやってもいい気分になった。
彼女は、もう一人ではないようだ。柔和な顔立ちをした少年と一緒にいた。
これも何かの縁だ。僕は目礼をし、彼女はにこりと笑う。
そして、僕は視線を戻す。
手をふり続ける、加賀峰凛へと。
太陽は燦燦と輝いて。
風はそよそよ吹いていて。
気候は温暖、天気は晴天。
僕と凛は、どこぞへ向かって歩き出した。
その手を、固く、結んだままで。




