波音テイクオフ
ゆる~く2作品目.百合です
澄音は波を待っている.
ウェットスーツに包まれた身体は,上下にゆらゆらと揺れていた.遠くのほうには同じく沖を見つめる人々の群れがいるが,澄音はそこへ入ることができない.
「うーん…おわっ」
十秒も待たずに澄音の身体はぐわんと上下した.
これから大きな波が来る.そう直感したとおり,彼女の両目は沖のほうで育ちはじめるうねりをとらえた.
大きなうねりが近づくにつれ,集団のうち数人が,次第にビーチのほうへと身体を向けていく.ゆっくりに見えたうねりは,気づけばそのうちの1人をスピーディに運んでいた.
澄音は波をつかんだその女性から目が離せなくなっていた.3月の海の寒さも忘れ,全感覚に分配されるはずのエネルギーは,すべて視覚に集中している.
それがなによりの,澄音が今ここにいる理由だった.
かっこいい.
トリックが,とか,真剣さが,とかもある.
でも一番はやはり,そのフォルムだ.
不安定な波の上の,ボードのさらに上に立つ.
サーフィン.
太平洋を見渡す地域に生まれ,澄音は早くも20年を数えている.
それでも,サーフィンに出会ったのは,ほんの1年前の出来事だった.
うねりは1度では終わらない.何度も連続して訪れる.
15分も漂いつづけ,波を待っていた甲斐がある.セットが来たのだ.
「あの波に乗ろう」と澄音は決めた.セットの最後と思われる,立派そうな波.
徐々に,徐々に,その山は大きくなっている.これを逃せば,また15分後…
澄音は器用に,両脚で水をかき混ぜ,ビーチのほうへ方向を変えた.胸をボードに接触させると,ひんやりとした温度感が伝わってくる.ゆっくりと,それでも着実に接近してくるうねり.澄音は深く息を吸い,両腕でパドリングを始めた.
横目で波の状態を見る.さっき女性が乗っていたほどの波ではない.
すぐに波のエネルギーがボードに伝わり,推進力となってグイっと前へ進んだ.
これは,いける.
もう波はつかんだ.あとは立つだけだ.
そんな澄音の気持ちを,いとも簡単に波は追い越していった.
澄音のサーフボードは流れに置いていかれ,波だけがビーチへと突進していった.
結果的に,澄音はちょっと前へ進んだだけ.波のパワーが弱かったのかな?
まぁいいや.ちょうどいい.
「寒いからこれで上がろう」と思っていたところだ.
ビーチへ近づけたのは,むしろ良かったことだと澄音は自分に言い聞かせた.
3月の太平洋は,砂浜に上がったところで寒いのには変わりない.澄音は水底に足をつき,アクエリアスとサンダルの置いた砂浜へ歩き出した.
髪の毛からぽたぽたと垂れていく水滴を眺めながら,澄音は女性のことをイメージしていた.じぶんもいつかはあぁなれる.あぁやって自分の身長よりも高い波をつかんで,スィーっと乗りこなせるようになる.それを想像するだけで,澄音の足取りは軽くなった.抱えるサーフボードの重みも気にならないほどに.
その様子を南美は見ていた.
はじめはスタイルのいい女性だと思っていたが,やがて大学の同級生であることに気づき,ランダムに海辺を散歩していた身体も,いつの間にか彼女のほうを向いていた.
「よっ」
「あっ」
「大日さん.できんの,サーフィン?」
澄音と会話をするのはこれが初めてであったが,南美には大した問題ではない.誰にでも適当に話しかけるという無限の入力を経て,今の南美ができている.
「う,うん…まぁ,ね」
それがウソであることを澄音は隠した.
そもそも澄音が波を待っていたスポットでは,波は育たない.波消しブロックがエネルギーの多くを吸い取っていくからだ.にもかかわらず,澄音がそこで波を待つのは,単純に,大きすぎる波が怖いからだ.
「へぇ.あ,アクエリアス…うまそう.ねぇ,なんか喉乾かない? 一緒にどっか飲み行こうよ」
南美は澄音と物理的な距離を縮めた.その身長差は想像以上に大きく,自分で話しかけたくせに,南美は一瞬だけたじろいだ.それでも澄音はまだ,サンダルも履いていない.
無限の入力があれば,当然,出力も無限のようにある.今回は「大学のサーファー同級生」という入力に対して,それがたまたま「飲みに行く」という出力になっただけ.このような出来事は少数派で,基本的に彼女の出会いは一期一会だったりする.
「ほら,そことか」
砂浜からすぐそこに見えているのは,最近できたらしいハワイアンなショップだ.南美は一人で,あるいは誰かと海に来ては,たいていそこでトロピカルなパインジュースを飲む.要は今回も,いつものルートに澄音を誘導しただけ.
「あ,でも…わたしお金持ってなくて…ごめん,長狭さん」
「いいよ全然.おごるからさ…そんなことよりも大日さん,覚えてくれてんだね」
「ん?」
「名前だよ,長狭南美.私の名前.さ,早くいくよ…って,手ぇ冷たっ!」
ボードを持っていないフリーなほうの澄音の手をつかみ,南美は言った.反対に澄音はその温度差に,妙な心地よさを覚えていた.初めて話す,初対面のような人の暖かな手でほっとしてしまうのは,どうも不思議なことだった.
ぎゅっと握り返すと,南美は振り返り,目を丸くした.見上げる視線の先には,笑えるほどに真剣な澄音のまなざしがある.拒みも追いもしないまま,声を出せない南美の前に,澄音は大きく1歩を踏み出した.
「長狭さんの手,めっちゃあったかい」
普通なら澄音はこんなことはしないだろう.ただ今は,水温15度の世界から脱出したばかりだ.サーフボードをポイっと捨てて,両手で同級生の手を握り締めるくらいには,澄音の身体は冷え切っていた.
「ありがと,わたしちょっと,シャワーだけ浴びてくるね…そのあとでよければ,その,飲み物…」
「お…おう! き,気を付けて行ってこいな」
南美の澄音への第一印象は,必要以上には人とつるまないような,1人でいることも多い女性だった.根暗でも人見知りでもなく,ただ最低限の人付き合いだけするような…言い方を選ばなければ「他人に興味のない人」.だからこそ,あの真剣なまなざしは,南美の感情を狂わせた.
南美は冷たい感覚だけが残る手を見つめ,ツーっと垂れていく水滴をぼーっと眺めている.
想定外の入力が,南美にエラーを生じさせたのだ.
シャワーを浴びてくると言ってはいたが,それがかなり距離のある場所であることに気づいた.普段の散歩から,南美はこの海辺のことを熟知している.魂が抜けたみたいに自分の手をぼーっと見ている間に,澄音は走って急いでくれていたのだろう.すでに澄音の姿は見えなくなっていた.
「サーフボードでか」
手を左右にピンと伸ばしたら,両手の距離はだいたい身長くらいになるといわれている.澄音の身長は160㎝前後だが,手を左右にピンと伸ばしても,サーフボードの端から端までは全く届かなかった.
「船じゃん」
澄音の姿が見えないことから,しばらく戻ってこないだろうと予想した.待つのがイやなわけではないが,どこかに座りたい.そして南美は,その船みたいなサーフボードを椅子ととらえることにした.
「座っていいのかな…いいよね」
濡れた面をズボンのゴム部分で挟んでいたタオルで拭き,腰を下ろした.
波はとても穏やかだ.波消しブロックがない場所ですら,今はほとんど動きがない.サーファーの数もさっきより少し減った気がする.
そこで南美は気づいた.
「サーフィンって,波がないとできなくね?」
すぐに背後から「ダメぇ~っ!」という大声が聞こえてきた.声質から澄音のものだと気づき,同時にそれが自分に向けられたものだと直感する.どんな感情がそうさせたのか,彼女はすっと起立した.
タッタッタッ…!
振り返ると間もなく,大きな歩幅で走ってくる澄音の姿が見えた.ラフなショートパンツからはすらっと両脚が伸び,肌寒い空気を一閃に駆け抜けるスピード感だ.1歩踏み出すごとに,ビーチの砂が大きく巻き上げられる.すぐそこにまで近づいてきても,澄音の疾走は止まらなかった.
「止まれないぃ~!」
止まれないのは地形の問題.ビーチが傾斜になっているからだ.
澄音は勢いそのままに南美へ突っ込み,2人もろともバランスを崩してビーチに倒れこんだ.その様子はまるで,サバンナで草食動物を狩るチーターのようで,すでに2人の身体は重なっている.ごろんごろんと転がった末,澄音は南美の上に覆いかぶさり,耳元で「はぁ,はぁ」と息をしていた.
「ちょ,ちょっと大日さん…ッ」
再び南美はエラーを吐き出した.身体を重ねる澄音の息づかいと,かすかに残る日焼け止めの匂いは,南美の思考をどうかさせてしまうのに十分だった.逃げることも,まして動くことすらできず,南美は彼女のアクションを待つほかなかった.
やがて澄音はすっと状態を起こし,両手を南美のしりに当てた.
「ひゃっ!」
「濡れてない? だいじょうぶ?」
「…えっ?」
南美は目を丸くした.馬乗りの状態で見つめてくる澄音の目は,やはり真剣なものだった.
その表情から,南美はようやく気付くのだ.澄音の言った「ダメ」の言葉は,なにもサーフボードの上に勝手に座っていた事実に向けられたものではなかった.サーフボードに座ることで,南美の服が濡れてしまうことを案じて発せられた,心配の気持ちにほかならなかったのだ.
これは勝てないな,と南美は思った.
「…砂だらけだよ」
不思議そうな表情を浮かべる澄音をよそに,南美はくすっと笑みをこぼした.
ジュースの前に,まずは新しい洋服を買いに行こう.




