8、いつかはきっと……
「先生。帰る前に、あの木を見に行こう。よっちゃんのお友達だよ」
「良子の友達?」
深谷野さんは深く頷き、「そう。友達」と言った。口元は笑っていたが、目は真面目そのものだった。
先に歩き出した深谷野さんを追って、広い庭に出た。木は何本もあったが、良子が好きだという木は、周りのものより一際背が高かった。
深谷野さんはその木に触れながら、
「よっちゃん、大事な話はこの木にしてたんだって。だから、この木は何でも知ってる。よっちゃんの喜びも哀しみも。きっと先生のこともよく知ってるよ」
良子の大事な友達。オレはその木にそっと触れながら、
「初めまして。俊也です」
きっと良子はオレのことを名前の方で話していただろうと思って、そう名乗った。もちろん木は何も言わない。でも、触れているだけで胸の奥の方が温かくなる感じがした。深谷野さんはオレを横目で見ると、
「先生も、この木に何か感じたんだね。私もそうだよ。今じゃ私もこの木と友達みたいな気分なんだ」
ふっと息を吐くと、
「前に、母さんが調子悪くておじいちゃんたちに助けてもらってるって言ったよね。母さん、心の病気なんだ。で、会社を突然辞めちゃってさ。どうしていいのかパニックになったよ。それで、ここに来ることになったんだけどさ。こっちに来る前、彼氏がいたんだ。でも、その人は私を大事に思ってくれてる感じじゃなかった。関係を続けられるとは思えなかったから、別れてきたんだけどさ。やっぱり一度も連絡来ないよ。もし私のこと好きなら、くれるよね? いくら別れたとしても。そうじゃないかな? 私が変?」
オレは、ただ首を振った。
「友達だった人たちも、何回かはくれたけど、それもすぐに終わった。そんなもんなのかって、ちょっと……」
その後の言葉は口にしなかった。
いつもオレに対して平気で上から物を言ってくる元気な深谷野さんが、実はこんなに傷ついていたのだと初めて知った。
「ずっとここにいたい。あそこには帰りたくない」
掛ける言葉がみつからない。
彼女はその木に抱きつくと、小さな声で泣き始めた。
嶋田家の人たちに深々と頭を下げ、
「今日は、ありがとうございました」
挨拶して玄関を出た。
「先生。門の所まで一緒に行くよ」
「ああ」
二人並んで歩を進めた。深谷野さんは、俯いたままオレの腕を引いた。彼女の方に向くと、「ありがとう」と言われて戸惑った。
「ずっと、誰にも言えなくて。母さんが心の病気で働けなくなってここに来た、とか。彼氏がどんな人だった、とか。言えなくて。今日聞いてもらえて、ちょっと救われた」
「そうか」
「また連絡するね」
ちょうど門の前まで来た。彼女はオレに手を振ると、「じゃあね」と言って背中を向けた。オレも自分の行くべき方向に歩き出した。
家に帰ると母は、「おかえり。楽しかった?」と訊いてきた。返事に困って黙っていると、
「俊也。お隣の優子ちゃんからお願いされたんだけどさ。健ちゃんの勉強みてほしいんだって」
健ちゃんは優子ちゃんの子供で、この四月から確か小学六年生になったはずだ。中学受験を考えているのだろうか。
「やってくれるよね。安くしてあげなさいよ」
断れないような押しの強い口調で言った。
「まだ、やるなんて言ってないだろ」
一応抵抗してみるが、母は笑い出し、
「俊也が断るわけないって、お母ちゃんはわかってるもん」
「だから……」
「やってあげて? 優子ちゃん、頑張ってるんだから。健ちゃんが望む学校に行けるようにサポートしたいって。あんた、先生やってたんだから、うってつけじゃない?」
「少し考えさせてくれ」
即答は避けてみたものの、何だか引き受けてしまいそうな気がしている。深谷野さんにメッセージを送るとすぐに返事が来て、
『やっぱり、俊也の趣味は教師?』
『趣味なわけじゃない』
そう返事をしたが、当たらずとも遠からず、という感じだ。嫌いなら何年も教職に就いていなかっただろう。
『いいじゃん。教師が趣味ですって言っとけば。その内やりたいこともみつかるし、いつかは俊也もサクラサクよ』
『咲くかな』
『私もサクラサク予定。頑張る。そうだ。俊也。ありがとう。俊也と出会えて、私もよかったと思ってるよ』
それで終わった。深谷野さんからのメッセージで、心が決まった。オレは母のところへ駆けていくと、「健ちゃんの家庭教師、やる」と、大きな声で宣言して母を驚かせた。
いつかはオレの人生もサクラサク。そう信じて、前を向いて歩いていこうと強く思っていた。
(完)




