【#39】“一人でできたもん!”から変ずる、彼女と俺の朝練記録②:檻の中で寝て過ごした最悪にロングな一昼夜分の「朝飯前(おあずけ)」がねこそぎぶち破られる時
スマホと彼女の脳との間に設けられた、小部屋という、レベッカに悟らせるつもりはない、俺だけの心。
その隅の隅のあたりで関心とともに、俺は、ありもしない舌を、こっそりと巻いた。
レベッカの変身魔法に噛ませていた、「『あなまほ』回避2051」がキープしたままでいた、魔法が働かないようにするための不自然できつい拘束を、完成を間近にした彼女のコントロールに譲るつもりで、もう一段階だけ緩めてやる。
そして――――。
「できた⋯⋯!」
ヒトの姿でいる時よりも、しわがれてガラガラになった狼ボイスによる“レベッカからの小さな歓声”が上がったのは、それから間もなくのことだった。
本当に半時間も掛けず、自分一人の力で、ヒトとしての姿から仔狼への変身をやり遂げたベッカちゃんと来たら、はた目にもわかるくらい誇らしげな空気を体中に漲らせていた。
森のいちばん底に敷き詰められている朽葉色の地表の上で、おすわりの姿勢で左の爪先だけを得意そうに掲げてみせた彼女は、俺の介入で、リニア姉さまに負わされた怪我の痛みを抑制されているのもあるのだろう。
ここへ届くまでに針葉樹特有の尖った葉の層に遮られて相当分が減衰したせいで、まるで月明かりと変わらないくらいまで目減りした穏やかな朝の光を、銀灰色の毛皮でじんわりと跳ね返しながら、塞がってすらいない前足や脇腹の傷口のことなど彼女は気にも留めていないように、俺には思えた。
この子が血の匂いに気づけないのも含めて、俺が与えてる不自然に違いないけどよ。早く人間の身体に戻ってもらわないと、これはこれで俺のほうが参っちゃう気がする。
先生に手当てされていた間の痛すぎたモロモロを思い出して、血の気の引くような感覚含みのまま、俺はベッカちゃんに語りかけようとした。
「一人でできたのは間違いないけどさ、まだ片手落ちだからね? 朝飯までは、ヒトに戻る練習もしないとだよ。リンゴの入ったガレット・デ・ロワ、一切れ分だけ、大きいのを半纏のポッケに持たせてもらってるんだ! ベッカちゃんがもっかい変身できたら半分こしようぜ?」、って。
実際のところは、俺がスマホに張らせていたはずの無音の小部屋を予告抜きで通過していった、たった一つの発砲に台無しにされてしまった瞬間だったけれど。
狼としての聴覚には抜群に効きすぎる、乾いたその狙撃音は、彼女を恐慌に叩き落とすには十分だったんだろう。
ほんのわずかだけ後手に回ってしまった俺の制止なんて置き去りにして、間近で落雷を聞かされた仔犬の如く、彼女は練習室の外に向けて一目散に駆け出していた。
ベッカちゃん!?
森の中に残されていた夜の帳に身を隠そうと、どんどん遠くなっていく彼女の背中を、ほとんど反射的に追いかける。《蛍火》の速度リミッタを躊躇うことなく切り捨てた俺の架空の脳裏に、基板温度150°C到達を告げる、もう一つの「ぱん♪」が鳴り響いた。
そう認識しても、全速力で翔ぶことをとりやめる選択肢など、世界のどこにも最早存在しなくなってしまっている。
下手に引き離されたら最後、リンクが維持できなくなった次の瞬間、狼の姿でいるこの状況では、俺も彼女も行動不能に陥るのが目に見えていた。
彼女に一気に逆流するであろう、痛みの酷さだけが、先生と約束した遠くではない範囲からの逸脱を即決した俺の心を更に駆り立てる。
とにかく。止めなきゃ。彼女の足を。どうにか。森の奥深く。だめだ。知恵さん家。踏み入る前に。そっちは。電池。逆方向。ああ、くそ――!
そんな俺を嘲笑うように破裂音が再びとどろく。ほとんど同時に、ベッカちゃんが、「ぎゃン――――ッ」耳をぎゅっと押さつけたくなるほどの「きゃん、Can't、きゃいん、いたい、スヴァルくん、たすけぁあうchかえる――――!!」撃たれたわけでもないのに、けたたましい悲鳴を上げて、俺の目前で崩れ落ちた。理由なんてものは探るまでもなかった。
基板温度摂氏二百超過予測警告。人工魔法多重起動抑制(破壊防止措置強制適用)。――停止対象:《ドヴォルザーク》。
レベッカひとりに向けて、五割を大きく超えて俺が割り当てていたリソース。
そいつを維持することそのものをEAPから直接拒否られた俺にできたのは、長筒のバレルで藪を薙ぎ払って姿をみせた、俺にとって三度目の邂逅相手に違いないその男に向かって、落ち葉を巻き上げてのたうち回る彼女が、ただの野良犬の仔でないこと、そう装うために、最速で再起動を認めさせた《人工音声》と《蛍火》でせめてもの怪異を見せつける一連の試みと、それから、そんな俺の悪あがきが、あっさりと徒労に終わった事実を嫌というくらい味わわされたこと。
たったのその二つ、だけだった。
俺の意図より優先度の高い、“スマホを焼き切らせないための機能制限”の一環として、モノクロ表示が精々なカメラ映像の中、どす黒くとしか認識できない血染めの毛皮を晒したまま泣き叫んでいる彼女が、悠々と落ち葉を踏み散らした男の両手に捕らえられる。
触れたら火傷間違いなしの外装温度を纏ったまま、二人の周りを飛び交う俺のことなんて、ほとんど無視するかのように踵を返されてしまう。
男の意向を全くと言っていいくらい読めないまま、熱源としてのスマホを武器として用いることに、とうとう踏み切れなかった俺が、レベッカのため、《ドヴォルザーク》を再び稼働できたのは、彼女の声が可哀想を通り越して、完全に嗄れ果ててしまってから一時間以上も過ぎ去ったあとの出来事だった。
翻って現状。右目分しか許されていない自由と狼の嗅覚のせいで、むせ返るどころか酔ってしまいそうに充ちる鉄錆の匂いの中、俺は何度目になるかも分からない状況確認を繰り返していた。
間違いない。バッテリーが枯渇してから、おそらく七、八時間程度。⋯⋯もちろん正確とはほど遠い、日時計頼りな時間感覚で、だけど。
五歳の子供が耐え忍ぶには、十二分に長すぎる苦痛の末、とにかく動かないでいることだけが一番まし。
心の中から届く散発的で、状況打破の役にはちっとも立ちやしない慰め以外には何一つ貰えないまま、檻の中に捨て置かれた数時間の間に、骨の髄どころか芯まで、そう割り切るしかなかったレベッカが、億劫そうに浅くて、すっかり酸っぱい味だけになって久しい喘ぎ呼吸のペースを不意に乱した。
窓の向こうから差し込んでくる、間もなくの夜明けに、朝が来たらベッカはひとにもどれる。いたくなくなる。
最後の希望めいた彼女のそんな期待を、耐え難い痛みとおなじように、否応なく、一方的に汲み取らされてしまう。
⋯⋯⋯⋯。
庭の芝に長く伸びた影の上にしゃがみ込んで、スマホの明かりの中、カントリー・ロードをくちずさんでいた女の子が、戻ってきたあの晩の男に、ヒトとしての身を晒して、本当に無事でいられるだろうか。
最悪の懸念を伝えまいと、黙りこくる俺を胸の裡に抱え込んだまま、纏うものすらない身一つで朝を待つほかない、ポーリャがぼんやりと見上げた、二原色に淀む視界が、
――――不意に翳った。
え。
思索を深めようとする間すらなく、窓の向こうから、|音付きでない唐突さとともに《ぬうっと》現れたのは、森屋邸でレベッカがさかんに構おうとしていた、アジトって名前の、仔狼と肩を並べられるくらい大柄な、あの黒猫だった。
ほんの数秒前までは細く尖っていた瞳孔。そいつをまじまじと丸くして、着地地点からこちらに一歩ずつ近づいてきた、宮代ゆきの飼い猫は、俺たちの目の前で、リズミカルに刻まれていた静かすぎる歩みを止めた。
疼痛だけで出来ている、全くってくらいに力の入らない前足へ、遠慮ゼロな鼻先を寄せられる。ふんふん。嗅ぎ回られているこそばゆさが乾いた血で引き攣る毛皮の上っ面に走って、レベッカが不安そうに、尾の先を丸め込む感触。
「おかしなこともあるものよね」
ごてん。猫らしく床の上で鯵の開きみたいになった黒猫の口から、猫らしからぬ台詞。心の中で思わず絶句。
「こと魔法に関しては、自分だって相当なバイリンガルのくせに、棚の上に登ろうだなんて、狼ってよりかは猫かネズミのパッションだしさ。このミフネさんに負けないくらい、イッパイアッテナなのにイッパイイッパイなアンタたちのこと、助けたげるけど、別に構わないわよね?」
――笙真。猫攫いボコしのついでに例の孫弟子、めっけたわよ。消毒薬ひとつでお茶濁すってレベルのズタボロ具合じゃないから、アキくんのバイト先に急患の連絡いれときな。
通話口に向かって、一方的な口調を叩きつけながら、今の今まで黒猫のアジトだったはずの佐野ミフネが、黒尽くしの出で立ちから完全に浮いてしまっている色褪せ気味な朱色オレンジ――色合いじゃなくて、匂いからして多分――であろう、レベッカが森で置き去りにしてしまっていたガレット・デ・ロワ入りの半纏でもって、檻の中で腹ばいになっていた俺たちの首から下の胴体と、電池が切れた艶消し銀のスマートフォンを覆い隠した。
えも言われぬような浮遊感を伴って、抱え上げられた錯覚含みで世界が暗転――「――しないから、おおげさ! 安堵するのはいいけど、あんたも『明かし』でしょ? オーバーに気絶してないで、ちゃんと見て憶えときなさいよ? じゃないと、『もやし二号』って呼んじゃうんだから」
ミフネの耳に押し当てられてるアンテナらしい出っ張りつきの、やたらに平成ライクな納戸鼠色の携帯電話。先生のものだと思しき、
ちょっ――もやし呼びはとっくに返上したつもりだったんだけど! ゆきがそっち向かったから身バレに気をつけて――⋯⋯
割れまくりで不穏すぎるボヤき声が漏れ聞こえた。
本当に怒涛なのは、そこからだった。ベッカちゃんをパニックに突き落としたのと同じ銃声と、そいつを何倍にも反転させて劈いた最大音量の「バァン!」が、掛け値なしの“一倍ちょうど”に戻ったヒトとしてのレベッカと俺が持ち合っている、鼓膜を容赦なく打ち震わせてきた。
素肌に一枚だけ羽織らされた綿入りの身頃を、ブルネットの長い癖っ毛を巻き込みながら、俺は、慌てて掻き合わせる。
チクリとするような真新しい痛みを、目を白黒させっぱなしなレベッカの心と一緒くたに、唾ごと飲み込んだ。
もてあそぶようなミフネの指の動きに合わせてか、彼女の持ち物の中では唯一黒くない電話機のアンテナに吊るさっていた、大ぶりで真っ黒な丸い毛むくじゃらチャームが、いよいよ差し込んできた白日に逆らいながら、ゆらゆら。揺れ動いた。




