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第一章 暑くて、熱い

 彼の前で揺れる足。

 力なく垂れた腕。

 開いた口、虚ろな目。

 生気のない彼女に触れると、彼女の体は、ふりこのように揺れた。




 夏である。

 二週間ほど前に梅雨があけると、途端に蝉の鳴く声が聞こえてくるようになった。日中、ひっきりなしに響くその鳴き声は、暑さをより一層増徴させているような気がしてならない。

 昼の十一時を過ぎた。まだまだ、気温は上がるだろう。

 そう思い、高橋空たかはしそらはテーブルの上に開いたまま、まだ一行も目を通していない数学の教科書を閉じる。そして、大声を上げた。

「だめだー。暑い。暑くて死ぬ。溶けそう」

 そう言って、持っていたシャーペンを机の上に乱暴に放り投げた。そのまま机に突っ伏す。額の汗が、流れた。

「暑い暑いって言うなやー。よけい暑くなるっちゅうねん」

 関西弁でそう空に話しかけたのは、最近血の繋がった兄弟であると分かった紫藤海しどうかいだ。海は空の机を挟んだ向かい側で、胡坐をかいて座っている。彼の前にも、教科書とノートが広げられていた。

 海の顔立ちは空と余り似ていない。下手をすると少女にしか見えない可愛らしい顔の空に比べ、海はどこからどうみても男だ。秀麗な顔立ちといってもいいが、顔立ちよりも、いたずらっ子のような雰囲気が際立っていた。似ているところといえば、髪と目の色が、茶色味がかっていることくらいだろうか。

「あー、こんな暑くっちゃ、勉強なんてはかどらへんわー」

 そう言いながら、二人の横で首振り運動を続けている扇風機を掴んだ。そのまま扇風機を抱き込んでしまう。首振り運動を阻止された扇風機は、抗議するかのように妙な音をたてた。

「あ、バカ。何やってんだよ。壊れるだろう」

 扇風機の抗議の声を聞きつけて顔をあげた空は、慌てて海の頭を叩いて扇風機から引き剥がした。そんな空を上目づかいで見上げて、海は唇を尖らせた。

 「だって、暑いねんもん」

 「悪かったな。クーラーなくて。おまえがバカなことするから、よけい暑くなっただろ」

「うっわ。人のせいにしたらあかんで空ー。って、そんなことより、暑い。あー無理。マジ無理。もうあかん」

 言いながら、海は畳の上に寝転んだ。空も机を避けて、同じように寝転ぶ。畳の上は少し冷たくて、気持ちがいい。

 空の家は商店街の真ん中辺りにある。高橋ブック店という名の本屋で、一階のほとんどが店舗になっている。裏庭に面した二階のこの部屋が、空の部屋としてあてがわれていた。窓から、蝉の声と、遠く商店街の喧騒が入ってくる。

 その他に入ってくるものといえば、たまに吹く熱気をおびた風だけだ。とてもその風で、涼をとることはできない。

「どうする? 図書館行く?」

 空は天井を見ながら、聞いてみた。図書館は静で、何より空調がきいていて勉強にはもってこいだ。だが、言った本人が乗り気ではないせいか、相手の反応もいまいちだった。

「でも、動くの暑いし」

「だよな」

 空は緩慢な動作で、身体の向きを変え、海を見た。

「なあ、あいつと最近連絡取った?」

 その言葉に、海が寝転んだまま、顔を空の方へ向けた。

「あいつって、光のことか?」

 空は無言で頷いた。光も海と同じで最近血の繋がった兄弟だと判明した人物だ。三人は同じ高校に通っている。

 海は腕を使って半身を起こした。

「連絡取ってへんっていうか。取られへん」

「やっぱり? ケータイにかけても留守電なんだよ。家にかけても家政婦さんに、出かけてますって言われるし」

 空は言いながら、海と同じように半身を起こす。空は、可愛らしく整った顔を思いっきりよく顰めた。

 そんな空に、海は苦笑いをして見せる。

「俺もだいたい同じや。あれは、確実に居留守やろ」

「でも、何でそんなことすんのか分かんねーんだよな。俺たちに会いたくないってことか?」

 空は言いながら、悲しくなってくる。


 高校に入学して、光や海と知り合ってから、色々とあった。互いが兄弟だということが分かった事も然り、それ以外にも。心に痛いことがたくさん。たくさんあった。でも、それを三人で乗り越えてきたのだ。少なくとも、空はそう思っている。

 先日。三人の本当の両親の墓参りに行った時。光は自分の内にある思いを空たちにぶつけた。あの時、空は光に近づけたと思った。ずっと、壁を作っていた光に近づけたと。だが、そう思ったのは間違いだったのだろうか。


「確かめよう」

 不意に、海の言葉が耳に入って、空はいつの間にか俯けていた顔を上げた。自分の思考に没頭してしまっていたようだ。

「こうなったら、直接会いに行こうや。電話やなくて」

 そう言うが早いが、海は立ち上がる。

「えっ、でも。動くの暑いって言ったくせに」

「動かんでも暑いやん。ここで、手付かずの宿題を前に暑い暑いって言うてても仕方ないし。それやったら実のあることをせな」

 言いながら、海は教科書を鞄にしまうと、さっさと部屋を出て行こうとする。

 空は慌てて立ち上がり、足の親指をつかって扇風機の切ボタンを押すと、テーブルに置いた教科書などはそのままに、海を追って部屋を出た。




 外はこれでもかというほど日が照りつけ、アスファルトの熱を上げていた。遠く道の先を見れば、空気がゆらゆらと揺れているように見える。陽炎だ。

 商店街を抜けて五分ほど歩いた所にある駅についた。空は、駅構内で携帯電話を耳にあて通話をしている海の横に立って、電話が終わるのを待っていた。

「やっぱり、家にはおらんって。今日は病院に行っとるらしい」

 海が通話を終えた折りたたみ式の携帯電話を折り、持っていた鞄にしまう。それを目で追ってから、空は口を開いた。

「病院、行ってみる? 家に押しかけても会ってくれるか分かんねーし」

 その言葉に、海は同意を示した。

 



 海が抜かりなく電話にでた家政婦に病院の場所を聞いていたおかげで、さして迷うことなく、病院に着いた。

 病院の入り口が見えるところで、立ち止まって、二人は顔を見合わせる。

 お互い汗だくだ。

 空は、襟元を掴んで前後に動かし服の中に風をおくってみる。しかし、たいして涼しくはならなかった。

「さて、どうする?」

「とりあえず、中入ろうや。暑うて死にそうや」

 海が病院の入り口を指差すので、空は何も言わず頷いた。

 ここまで来たは良いが、この後どうするかを考えていなかった。

 光がどこの課を受診しているのか分からない。しらみつぶしに捜すことも考えたが、行き違いになる可能性も高い。

 入り口を見張るのが一番いい方法かもしれないが、いかんせん暑い。とにかく、暑い。日射病にでもなりそうだ。

 自動ドアの向こうには涼しい空間が待っている。そう思うと、自然と足の運びも速まる。

「あ、光」

 海が突如立ち止まって声を上げた。驚いて、空も立ち止まる。海はまっすぐ先を指差した。

 海が指し示す方を目で追うと、空たちが捜そうとしていた人物、春名光はるなこうがいた。

 光は、眼鏡の奥の瞳を見開いた。確実に目が合った。

 だが、光は踵を返すと、足を引きずるようにしながら、病院内へ入って行くのだ。

 その、どこか慌てたような素振りに、空と海は顔を見合わせる。お互いの顔に、不満の色を見て取った二人は、歪んだ笑みを浮かべた。

「今、明らかに俺たちを避けたよな。あいつ」

「ああ、同感や。空、追うで」

 海の声を合図に、二人は暑さも忘れて走り出した。自動ドアが開くのももどかしく、空たちは病院内に入る。院内を見回して、廊下の角を曲がる光の背を見つけた。

 二人は再び走り出す。

 廊下の角を曲がった光が、トイレに入ろうとした時、空が光の肩を掴んだ。

 その瞬間、震えが手に伝わった。きっと、急に肩を掴まれ驚いたのだ。だが、そんなことは構わない。空は肩を掴んだまま、光をトイレへ押し込んだ。

 幸いとでもいうべきか、トイレには誰もいなかった。個室のドアも全て開いている。

「痛いな、離せよ」

 光は、荒々しい口調でそう言って、肩を掴んでいた空の手を払った。

 空は払われた手をさすりながら、光を睨みつける。

 一週間ぶりに見る光の顔は、一週間前と変わらない。王子様然とした秀麗な顔立ち。その表情は、いつものポーカーフェイスだった。

「何でこんなところにいるんだ。おまえら」

 光が吐き捨てるようにそう言った。視線は、トイレの床に向いている。

 空はそんな光の様子を、目を細めて見ながら、口を開く。

「いちゃ悪いのかよ。ここは病院だぜ?」

 わざと語尾を上げて言ってやる。

「そうや、それとも、ここに俺らが来たらまずいことでもあるんか? 光」

 海が追従するようにそう言うが、光は答えなかった。相変わらず、空たちと目を合わせようとしない。

「何で逃げたんだよ」

 ずばりと聞いてやると、光がちらりとこちらに目を向けた。

「別に、逃げてないよ」

 光の突き放すような言葉に、空は切れた。

「てっめー、嘘ついてんじゃねぇよ。明らか、俺らの顔見て逃げたじゃねーかよ」

 空は、光のシャツの胸倉を掴んで激しく揺さぶる。

 海はそんな空を慌てて後から羽交い絞めにして、光から引き剥がした。

「どうどう、空。ちょっと落ち着こうや」

「どうどうっておまえ。俺は馬じゃねぇ」

 切れた勢いのまま、空は海に怒鳴った。

「……かしかったんだよ」

 光の声が聞こえた気がして、空と海は顔を光に向けた。

「今何て?」

 二人の声が重なった。

「だから」

 光は言いよどむ。

「だから?」

 また、二人の声が重なった。

「だから、恥ずかしかったんだよ」

 半ば怒鳴るようにそう言った光の顔が、目に見えるほど赤くなった。光は慌てた様に、二人から顔を背ける。

 そんな光に、空と海はしばらく呆然と見入った。

 どれ位時間がたっただろう。海が羽交い絞めにしていた空を離しながら口を開く。

「えっと、何が恥ずかしいねん」

「そんな、恥ずかしがることなんてないだろ」

 何かあったっけと、空は記憶を辿るが何も思いつかない。光の恥ずかしいことって何だろう。

「あ、もしかしておまえ、俺と空のどっちかに惚れたんか」

 大声を上げた海の言葉で、空は力が抜けた。きっとそれはありえない。そう思ったら、案の定、光が否定した。

「何で、そんな発想になるんだ」

 ようやく常に近い顔色にもどった光は、観念したように口を開いた。

「泣いただろ。この間」

 言いながら、また顔を背ける。うっすらと背けた頬がまた赤くなっている。

「大泣きしたから、おまえらに合わせる顔がなかったんだよ」

 言われてやっと理解できた。先日、墓参りに行った時のことを言っているのか。空はそう思って、海の顔を見た。海も空の顔を見る。

 そして、二人して噴出した。

「あははは。バッカじゃねーの」

「おま、何それ。俺おまえが照れるとこ初めて見たわ。めっさおもろいやん」

 海は笑いを堪えながら、そう言ったあと、また笑い出す。大声で笑いながら、手まで叩いている。

「何だよ。笑いすぎだよ。おまえら」

 怒鳴る気力もないのか、光は疲れたようにそうもらす。空と海は、光が本気で怒り出す前に、笑いをひっこめるよう、努力しなければならなかった。

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