3話
翌日葉花は、ベッドから起き上がろうとして、暴力的な空腹に襲われた。もう何日も食事を摂っていなかったような気分だ。
着替えようと、身体を起こすと、ふらりとめまいがした。
「ヨーカ、大丈夫か?」
問いかけにぎょっとし、昨日から四葉が家にいたことを思い出した。
「大丈夫。けど、ものすごくお腹が空いている」
「リムを私に渡した影響だな、まだ身体が慣れていないのだ。やはり、吸いすぎたな」
「そうかな?とりあえず何か食べよう」
葉花はそろそろとベッドから起き出し、手早く着替え、顔を洗うと、手近にあったバナナを一本食べる。身体にエネルギーが取り込まれるのがわかる。糖分が身体を巡っていくような気がした。一本ではおさまらず、もう一本に手を伸ばし、あっという間に平らげる。
「ふー、なんか、ものすごく美味しく感じる。とりあえずご飯を作るためのエネルギーは摂取した!」
「そうか……」
「四葉は食事しないの?」
「昨日のリムをもらう行為が、人間でいうところの食事だな」
「そっか。なんか味気ないね」
「別に食えない事はないがな。ケンタロウには時々、晩酌とやらにつき合わされた」
「お酒飲めるの?」
「ケンタロウが酒にリムを混ぜるのだ。そうすれば、私にも取り込める」
「へえ、そんな事も出来るんだ。今度やってみようかな」
葉花も酒は好きな方だ。仕事帰りには、よくビールを買って帰ってきて、一人でテレビを見ながら飲んでいる。それを同僚に言うと、憐みの目で見られるが、葉花はわりと一人酒が気に入っている。仕事の愚痴をえんえんと聞かされながら、高い居酒屋で飲むより、よっぽど気楽でおいしいと感じてしまうのだ。だが、昨日四葉と、おしゃべりしながら飲んだビールはなかなか悪くなかったなと、ふと思い出した。
フライパンで目玉焼きを作りながら、今晩が少し楽しみになった。
昨日の夜の内に炊飯器でタイマーセットしておいたお米が、ふっくらと炊き上がっている。
葉花は山もりにご飯をよそうと、目玉焼きと納豆、ソーセージをおかずに、ぺろりと平らげ、同じ量の米をおかわりまでした。
その日葉花はいつも通り出勤し、いつも通り仕事をこなした。毎日毎日変わらない日々。仕事内容でちょっとしたトラブルがあったり、ほんの少し楽しい事があったりするが、それは三日もすれば忘れてしまう些末な出来事だ。いつもと違う事と言えば、やたらお腹が空くことくらいだった。
四葉は葉花が出勤するのと同時に、例のリムルを探しに出て行った。
出勤する前は、リム持ちの人間を狙ってくるリムルとやらが、気になっていたが、仕事が始まると、忙しさにリムルの事はすっかり頭から抜け去った。
結局のその日は何事もなく仕事は終わり、葉花は一時間残業し、くたくたになった身体を引きずって、帰宅した。
「はあ、疲れたー!」
帰るなり、そう声を上げて、クーラーを強にする。窓をからりと開けて、部屋にこもった熱を逃がしてから窓を閉めようとして、まだ四葉が帰ってないなと外を見る。
「カーテンを閉めなきゃわかるよね」
葉花は窓をしめる。開けっ放しではクーラーの冷気が逃げてしまう。
窓を閉めたと同時に、四葉がガラスをすり抜けて部屋に入って来た。
「え?四葉、今窓すり抜けた!?」
「当たり前だろう。リムがない物はすり抜ける」
「ガラスにはリムがないのね」
「ああ、というか、ほどんどの物質にリムがない」
「え、じゃあ、なんで床からすり抜けないの?」
「抜けようとしてないからだ」
「うん?どういう事」
「ケンタロウに教えて貰ったのだが、この世界には重力というものがあるらしいな?だがリムルには重力がない。だから、空間のどの場所でも立っていられるし、どこにでも移動できる」
「そうなの!?じゃあ、一緒にベッドで寝てても、ベッドに身をゆだねてるわけじゃなくて、ベッドの上で静止しているっていう事?」
「そうだな」
「それ、疲れないの?」
「私からすれば、常に下に引っ張られているお前の方が疲れないのか気になる」
「それが普通だからね」
「そうか」
「ところで、リムルは見つかった?」
「いや。見つからなかった」
「そっか。とりあえずシャワー浴びて、ご飯が食べたい。リムはそれからでもいい?」
「ああ、私はいつでも構わない」
葉花は、カーテンを引いて、服を脱ぎ捨てた。下着姿になると、脱いだ服と、洗濯済みのTシャツと短パンをもって、バスルームに向かう。
「ヨーカは男か?」
「は?」
葉花はぽかんとした顔で振り向く。
「なんでそう思うの?」
「ケンタロウが言っていた。女は相手がリムルとはいえ、裸や下着姿を見られることを嫌がるから、気を付けろと。ヨーカは私の前でも堂々と服を脱ぐからな。男だろう」
葉花は激しく落ち込んだ。リムルにさえ恥じらいのない女、いや、女とすら思われていないと。
「四葉……。私、女だから。次、同じこと言ったらご飯抜きだからね」
葉花はずんずんとバスルームに向かい、八つ当たりで、バタンと大きな音を立てて扉を閉めた。四葉は、目を白黒させて、なぜか葉花を怒らせたようだと、部屋の中をぐるぐる歩き回った。
シャワーから上がった葉花は、大量のご飯とビールを平らげると、機嫌が直ってきた。美味しい物を食べると人間は気分が良くなるものだなと、単純な葉花は遠巻きに寝そべっている四葉を隣に呼び寄せた。
「四葉、こっちに来なよ」
昨日会ったときは、あんなに恐ろしいと思っていたこの豹が、たった一日で、ペットの犬のように感じられてしまう事に、人間の慣れとは怖いものだとしみじみ思った。
若干気まずそうに隣に寝そべる四葉を、酔った勢いで左腕でぐいと引き寄せると、昨日のように頭を膝にのせた。右手はビールが飲めるように、空けておく。
「四葉もご飯の時間だよ」
葉花はそう言って、左の手のひらに向かってリムを流すように、頭の中で想像する。ゆっくりとリムが流れていき、四葉が気持ち良さそうに目を細める。テレビを見ながら、リムを流していると、さっき葉花が怒らせたことを気にして、じっと黙っていた四葉がぽつりと声を出した。
「怒っていたのではないか」
「私は後に引きずらない女なのだよ」
「そうか」
意外とおしゃべりのこの豹は、居心地が悪かったろうと、葉花は少しだけ反省した。
「四葉は健太郎さんと喧嘩したことはあった?」
「喧嘩か、こちらの世界の喧嘩がどのくらいのものをいうのか分からぬが、さっきのヨーカのように、ケンタロウが怒ることはあったな。とくに最初の頃は多かったかもしれん。長く一緒にいるようになってからは、随分減ったがな。お互いに傷を負わせるほどの喧嘩はしたことは……、ああ、一度あるか」
「え!?そこまでの喧嘩をしたことがあるの?」
「一度だけある」
「原因は何だったの?」
「何年か前に、ものすごく力の強いリムルが現れたことがあった。そのリムルは、リムをほんの少しでも持っている人間を、かたっぱしから食っていった。それで、ケンタロウはそいつを捕まえるために、囮になると言い出しだ。私は駄目だと言ったのだが、ケンタロウは私が目を離した隙に、そのリムルを捕まえに出てしまったのだ。私がケンタロウを見つけた時には、奴は大けがをしていた。ケンタロウの仲間がなんとか守っていたから命までは奪われなかったが、私がつくのがもう少し遅かったら危なかった」
葉花はリムを持った人間をかたっぱしから食ったというリムルを想像して、ぞっとした。
「なんでケンタロウさんは、四葉を置いていったの?」
「私が、ケンタロウが囮になることに反対したからだろう」
「本当にそれだけ?いつも一緒にいたのに、それだけで置いていったの?」
「さてな、私はそうだと思っている」
「それで、大けがした健太郎さんと喧嘩したわけ?」
「喧嘩したのは、怪我がだいぶ良くなってからだが、原因はそれだ」
「二人とも馬鹿ね」
「馬鹿なのはケンタロウだ」
葉花はくすりと笑うと、ビールをごくごくと飲む。左手は四葉の毛並みを楽しむように、首筋をまさぐった。ふと気になった事を尋ねる。
「そのリムルはどうなったの?」
「討伐された」
「された?誰に?」
「そういうリムルを狩るのを仕事にしている連中がいるのだ。そいつらがやった」
「それはリム持ちの人間?」
「ああ、そうだ。それとその契約者のリムルだ」
「健太郎さんもその仕事をしていたの?」
「いや、正式にはその組織には所属していなかったが、付き合いはあった。ケンタロウは力が強いから、その組織から勧誘されていたが、やり方が気に食わないと言っていた」
「やり方?」
「その組織はヴァイラという。ヴァイラの目的はリムルの討伐だ。リムルを見つけたら、問答無用で消しにかかる。力の強いリムルが人間を食おうとすることが多いから、分からなくもないがな。だが、ケンタロウは、人間に害をなさないリムルもいると、そういう者まで見つけ次第消すのはおかしいと言って、組織には入らなかった」
「私はケンタロウさんの言っている事は正しい気がするけどな」
「だが、リムを覚醒させている人間の大半はそうは思わない。リムルは人間を食う危険な存在だと。私もそれは否定しない。ケンタロウもそれは分かっているから、場合によってはヴァイラに協力することもあった」
「健太郎さんみたいに、リムルを帰すことは、そのヴァイラの人達はしていないの?」
「リムルを向こうの世界に還すのは、とんでもなくリムを消費するんだ。ケンタロウは人間の中では飛びぬけてリムの量が多かった。だからできたのだろうな。ヴァイラに所属している人間で、リムルを帰す事が出来るほどのリム量を持っているのは、ほんの数人だろう。しかもリムルが人間を殺す気で向かってきたら、帰してやる余裕なんてない。消すので精一杯だ」
「そのリムルを消すって、つまり殺すってことだよね」
「まあそうだな」
「リムで出来ているリムルを殺すってどうやるの?」
「リムルにはリムが濃縮したような核がある。人間でいうところの心臓みたいなものだな。その核を壊す。リムで出来ている私はリムを壊せる」
「なるほどね……」
四葉は不意に身じろぎする。
「ヨーカ。結構リムを吸ったが大丈夫か?」
「うん?あ、そう?全然平気よ?まだ欲しいならあげれるけど」
「いや、このくらいにしておこう。明日に響くといけないからな」
「本当に四葉って、お母さんみたいよね」
「それは悪口なのか?」
「いや、誉め言葉かな?」
「そうか」
翌朝、葉花は再び猛烈な空腹に見舞われた。ベッドから半身を起し、しばらくぼうっと宙を見つめていると、すぐ横から声が掛かった。
「どうした?起きられないのか?」
たった二日で、すっかりこの家に慣れてしまった四葉は、昨日は酔っ払った葉花に、ベッドに引きずり込まれ抱き枕にされた。ベッドの上は、元々葉花がずっと昔から一緒に寝ている小型犬程の大きさの、熊のぬいぐるみと、葉花より大きい豹が寝そべるという、なんともいえない光景が広がっている。はたから見れば、二十五歳のいい大人のベッドに熊のぬいぐるみと、豹の抱き枕があるという痛い図だ。
だが葉花は、別に誰に見られると言う事もないので、全く気にせず、取り敢えず空腹を満たさねばと起き上がった。
今朝は炊きたての大盛りご飯に、レトルトカレーとフルーツヨーグルトという、体のラインを気にするOLが聞いたら、青くなりそうなメニューをぺろりと平らげ、食後にコーヒーとドーナツを食べた。
葉花が部屋を出ると、四葉も部屋からするりと出てきて、リムル探しに出ていった。そして、再び葉花が仕事を終え、コンビニで買い物をしてから、マンションに向かっていると、いつの間にやってきたのか、四葉がすぐ後ろをついて歩いていた。
マンションに帰り、葉花はちらっと四葉を見て、部屋で服を脱ぐのをためらい、着替えを持ってバスルームに行こうとすると、四葉に言われてしまった。
「別に、お前の家なのだから、生活習慣を変える必要はない。ケンタロウが言う事が全て当てはまるとはいえないと言う事が分かったからな。ここで脱げば良いだろう?」
葉花はじとっと四葉を見たが、これからひと月、狭いバスルームでちまちま服を脱ぐのも嫌だと思い、四葉の言うとおり、部屋の中で盛大に服を脱ぐと、バスルームへ軽い足取りで向った。
大量の夕飯の後、葉花は左に四葉をはべらせて、ビールを飲んでいた。
「少しリムが流れる量が多くなったな」
「やっぱりそう思う?」
「ああ、リムの使い方に慣れてきたのだろうな」
「ふうん。じゃあさ、あれ出来るかな?」
「あれとはなんだ?」
「ほら、健太郎さんがやっていたって言ってたよね。晩酌用にお酒にリムを混ぜてたって」
「やってみるか?」
「やってみる。お酒は何がいい?いつもビールばっかり飲んでるけど、他にもあるんだよ?日本酒にワイン、ウィスキー、炭酸水もあるから、ハイボールも作れるよ?」
「酒の味など分からん。何でもいい」
「つまらないねえ。ケンタロウさんは、何にリムを混ぜていたの?」
「自分が飲んでいるのと同じものだな」
「それはなんのお酒だった?ていうか、飲んだら酔っ払っう?」
「酒を飲むと、少し、身体が変な浮遊感を感じるようになるな」
「酔っ払ってんじゃない。取り敢えず度数が弱いビールでいいか」
「シュワシュワしていないのがいいな」
「なんだ、意外とうるさいね」
「シュワシュワしているのは、体内に入れるとなんだか、変な感じがするのだ」
「じゃあ、日本酒でいい?」
「それでいい」
葉花は皿に日本酒を軽く注いで持ってくると、四葉の前の床に置く。
「それで、どうすればいいの?」
「酒に触れて、リムを身体の外に出すようにするだけだ。そうケンタロウは言っていた」
「分かった。やってみる」
四葉は指先を酒につけると、四葉にリムを渡す様に、リムを移動するイメージを頭の中でする。
リムが左手の指先に集まっていく感覚はあるのだが、指先から外に出て行かない。
しばらくやってみたが、指先から身体の外に出て行かなかった。
「だめだ、指先にリムが集まる感じはあるんだけど、そこから外に出て行かないや」
「まあ、そうだろうな」
「どうして?」
「そう簡単に出来るものではないのだ。むしろできなくて安心した。リムが身体から出なければ、リムルに気づかれて襲われる心配もないからな」
「でも、四葉には流せるよね?なんでお酒はだめなの?」
「私はお前の血を貰って契約したからだ。私の中にお前の一部がある。だから、リムは安定して流れる。もし、酒にどうしても流したかったら、血を一滴落としてみろ。そうしたら、リムが流れるぞ」
葉花は試しに、指に針を指して、酒に血を一滴落としてから、さっきと同じようにリムを流してみる。量はかなり少ないが、酒にリムが流れていった。
「本当だ!できた!」
「訓練すると、血を使わなくても、リムを身体の外に出して、操作するように出来るようになる。ケンタロウも、ヴィラの連中もそうやってリムを使ってリムルを帰したり、消したりする」
「……なるほどね。訓練ってどのくらい?」
「ケンタロウはまともに出来るようになるまで、一年くらいかかったな」
「そんなに!?」
「個人差はあるだろうが、そうそう簡単ではないようだ。お前はやる必要はないだろう。ひと月で私もいなくなる。そうすれば、契約が切れれば、リムは徐々に減って、元にもどるだろう」
「……そう」
葉花、ほんの少し、胸かちくりとしたような気がしたが、気のせいだと思う事にして、四葉に酒を勧め、自分もビールを飲みながら、左手を四葉の首に回してリムを流した。