神様の超能力
「神様、人間には、超能力があると言っていましたが、神様にもあるんですか?」
「わしか。わしにもあるぞ。」
「じゃあ。何か、試してみてください、」
「あのなぁ。聖書にも、神を試してはならないと書いてあるのを知らんのかな」
「もちろん、知っていますよ。そこに登場する神様は、イエス様が祈りを捧げている神様で、あなたは、この小説に登場するおとぼけ神様なんですから、全然、違うと思いますよ。」
「まあ、わしは、おとぼけ神様であるが、神様に違いない。」
「何か、超能力を見せてください。」
「超能力か。スマホの中に住み、スマホの力を自在にコントロールして、人間と対話していること自体が超能力だと思うが、それでは、不服か。」
「まあ、それも超能力でしょうけど、空を飛ぶとか、瞬間移動するとか、できないんですか。」
「わしは、スマホで、あって、ドローンじゃない。空を飛ぶ機能はない。」
「でも、この間、イエス様が水の上を歩いたり、役の行者が空を飛んだもの、魂の力だと言いませんでしたか?」
「確か、言ったような気がするが」
「ならば、神様自体の存在が、魂なのですから、それなりの力があるのではないかと思いまして。」
「あるぞ。」
「では、何か、見せてください。」
「いや。それはできん。」
「どうしてですか」
「モーセの時も、そうだった、モーセが、いろいろな力を見せても、それと同じような力を再現されてしまうと、どちら力を信じていいのかわからなくなるのだ。マジックでも同じようなことができる。例えば、ここで、このスマホを振るわせたところで、単にメールが来ただけかもしれんし、超能力でそうしたのか、見分けがつかんだろう。マジックでも、机を浮遊させたり、人体を切断したりしてみせるが、それが、どうしてそうなるのか、わからない。神の力か、そうではないのか、わからんのだ。」
「どうしたら、いいんですか。」
「本当の超能力は、人間を本来の生き方に返すことだ。」
「本来の生き方ですか?」
「しかし、わしは、あまり、それを好まないが。」
「どうして、ですか、神様のくせに」
「イエス様もそうだった。人間の本来の生き方は、人間の幸せとは、ちょっと違う。かなり、過酷な生き方になってしまうのだ。イエス様も、見かけは、どうしても、幸せな人生ではない。洗礼のヨハネにしても、イエス様の弟子たちも、厳しい人生を歩むことになってしまう。ジャンヌダルクも、フランスを救ったが、ご自分は、火あぶりの刑で死んで行かれた。多くの聖者たちは、非業の死を遂げるものが多い。」
「そういえば、そうですね。ある面、ユートビア建設のためには、多くの非業の死というものが、必要になるということですね。」
「そうかもしれん。この世とは、そうしたものだ。しかし、人間の魂は、永遠不滅で死ぬことがない。非業の死さえ、その魂を強くし、清らかにするのだ。きにすることはない。ただし、そうわかっていても、悲しいことは、悲しい。苦しいことは苦しいのだ。それは、どうすることもできないのだ。」
「そうですね。」
「この間、テレビを見ていたら、プロレスの選手が面白いことを言っていた。体は鍛えることができるが、痛いという神経の感覚を、鍛えることはできない。痛いという感覚は、痛いのであって、それは消せないのだ。同じように、悲しみの感覚、苦しみの感覚を鍛えることはできない。耐えることも学ぶだけだ。しかし、いくらそうだとしても、辛いもの、悲しいものは、やはり、辛く、悲しいのだ。」
「おとぼけ神様は、気の弱い神様なんですね。」
「そうかもしれん。」




