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消えた囁きを追え~オーパーツとの旅~⑥

 アンタキアの旧資料館で出会ったカヤは、マクラウドの知人の研究者でもあり、《AD》首魁のデミルコルの父の弟子だった。カヤは、天城たちに、巨人に不可欠な〝赤い粒〟の存在を告げ、それは人類にとって最悪・最凶な無敵のウィルスだと恐れた。そこで天城は、この〝赤い粒〟を餌に、富樫が偽の取引を持ち掛けて《AD》壊滅を謀ったが、逆に〝赤い粒〟の培養方法を知られる結果となったと推測。〝赤い粒〟の培養完成の時間が迫る中、天城たちは、《AD》の本拠を目指して、最後の戦いに臨むのだった。

 第六章 終着と壮途

       1

 天城たち三人がアンタキヤを出発するに当たり、カヤは、(はなむけ)として様々な準備を整えてくれた。

 パスポートは、まだ《AD》の作った偽造品が使えそうだった。それでも、携帯電話や懐中電灯、双眼鏡などの必需品、食糧や現金などは、全て用意された。

《ノア》から奪った実験体を使った〝ナックラヴィー〟培養実験は、《AD》にとって、新たなスタートを飾る一大事である。

 その間、支配地域への全ての人の出入りは、今まで以上に厳格なはずだから、一計を案じる必要があった。

 そこで、天城たちは、カヤの考古学者仲間の伝手(つて)を頼って、《AD》支配地域に侵入する計画を立てた。今回は、《AD》の裏を掻くために、敢えて混乱する、東隣のイラン経由とした。

 イラン=トルコ国境は、かなり厳重に管理された国境らしい。話によれば、高さ三m超の長大なコンクリート壁と、その上には有刺鉄線(バーブド・ワイヤー)、壁の前後には深い(トレンチ)が、行く手を阻む。所々には監視塔が聳え、無人監視システムや赤外線カメラがそれらを補う。定期的な装甲車による巡回も行われているそうだ。これも、欧州圏であるトルコへの対移民(難民)対策の一環だという。

 とはいえ、五百㎞以上の両国国境の全てが、壁によって塞がれているわけではない。国境には山岳地帯が多く、険しい峠や丘の一部には、壁が設置されていない場所も、多々あるそうだ。実際に、壁の間隙を突いてトルコに入った難民の証言もあるという。

 つまり、国境壁の設置されていない山岳部を通れば、比較的スムーズに国境を侵犯できるようである。友人の考古学者仲間は、そのようなルートを何度も使ったことがあると、カヤは(うそぶ)く。カヤによれば、かつてマクラウドがヌーファン村のバハルの墓を暴いて帰還したコースも、同じらしかった。

 それが事実なら、天城ら三人は、国境警備兵に見咎(みとが)められずに、イラン領内からトルコの《AD》支配地域に、さほど苦もなく密行できそうだった。侵犯後は、夜陰に紛れてアララト山麓を南から回り込めば、《AD》の懐深くまで入り込める。北麓に比べて、より容易なコースになるだろう。

 実際の真夜中の国境突破には、イラン北西部の仏教遺跡・ヴァルジュヴィ発掘などにも関わった若いイラン人考古学者が、手引きをしてくれた。

 この辺りの国境線では、最も警備兵に目に付き難い地点だと告げ、その時に拳銃や銃弾、プラスチック爆弾などの爆薬、詳細な地図も手渡された。

「カヤのおっさんの頼みだからしてやったが、これ以上は、無理だ」

「ありがとう。本当に助かりました。あとは、徒歩で行きます」

 考古学者は、天城たちの無謀な策に呆れると同時に、感心して訊ねた。

「ここから先は、クルド武装組織の跋扈(ばっこ)する地域だぞ。分かっているんだろうな?」

「その武装組織に、ちょっとした用があるのよ」

「あんたらが何者かは、関知しない。……だが、チャンスがあったなら、ロバートの仇を討ってくれよ」

 三人は、考古学者と別れ、アララト山へと向かう山肌を歩き出した。周囲には、人工物も、人の気配もない。月明かりだけが頼りの行軍だった。

 歩き始めてしばらくすると、フォンが我慢できなくなったように訊ねてきた。

「ケイタ、今度は、どこから攻めるつもり? 次に捕まったら、確実に殺されるからね」

 天城は、既に、どのように行動するかを決めていた。前回と同じ(てつ)は踏めない緊張感の中で、力強く答える。

「目指すは、サイトAです」

 前回の侵入で、サイトBは、発掘現場や発掘品の倉庫、現場で働く人夫の宿舎などしか、見当たらなかった。つまり、実験体で培養を行う、厳重警備な研究施設は、別の場所にあると考えていい。

「それでも敢えて、サイトBから何十キロも離れた地点に、新たな研究施設を建設する無駄は、しないでしょう。少なくとも、サイトAに隣接するように造るはずです」

「〝赤い粒〟をすぐに取り出せなくちゃいけないしね」

 懐中電灯の光に注意しながら、詳細地図と比較すると、大体の地点が分かった。

 サイトAは、サイトBから丘陵を回り込んだ崖下の窪地にある。サイトAとサイトBの(およ)その距離は、一キロもない。

 かつてヌーファン村がその窪地の(へり)に存在し、例の雪崩の後は、廃村の憂き目に遭った。行き場のない墓だけが残され、あとは朽ちるに任せたといったところか。

「サイトAを目指すなら、この〝糸杉池(セルヴィ・グーレティ)〟が目印ね」

 フォンの指先は、荒涼とした大地の中に、小さいながらも存在感を放つ池を指していた。サイトAとは目と鼻の先の露岩体に、忽然(こつぜん)と姿を見せるほぼ円形の池だ。円周が二、三キロ程度の火口湖の名残だろうが、地図上では、最深部が〝五十一メートル〟とある。サイトAの洞窟を見付けた羊飼いも、この池を目指して放牧させていたという。

〝糸杉池〟の存在は、極めて意味深だ。単に、太古の昔に、この辺りが糸杉に覆われた森だっただけではないような気がする。〝ノアの方舟〟が糸杉で建造されていたとされる話と、因果関係があるかも知れない。

 カリネの体調は、小康状態に見えた。登山には問題がないほど安定していた。むしろ、力強ささえ感じられる。けれども、多くの時間を寡黙で過ごした。

 天城は初め、《AD》との決戦に向かう強行軍に、正直、カリネが耐えられるか、疑問だった。だが、カリネの意志は固く、フォンも同行に(がえ)んぜざるを得なかった。

「大丈夫。遣り遂げなきゃいけない目標があるんだから」

 もはや、カリネの行動を支えているものは、自らが直接関わった、事件解決への衝動だけなのかも知れない。

 月のみを供とした、糸杉池を目指しての行軍は、それでも、決して楽なものではなかった。うねりゆく大地の道なき道を、ひたすら無言で突き進むには、かなりの忍耐が必要だった。風の中に狼の遠吠えを聞き、時に、異形の岩塊に巨人の幻を見ながらの道中は、肉体的・精神的な消耗も、甚だしかった。

 やがて異世界の岩稜(がんりょう)地帯を抜けると、視界が突如、開けた。アララトの山襞(やまひだ)に抱かれた小さな谷と、ほぼ円形をした糸杉池が、天城たちの眼下に広がった。

 元ヌーファン村と思われる地点辺りから谷口の間道、更には糸杉池の周辺一帯に、大小様々な建物が連なっている。双眼鏡を覗くと、建物の間には、常に動く影があり、頻繁な人の出入りが確認された。

「ここが、サイトAだね。結構、動きがあるよ」

 サイトAの中でも、一際目立つ存在の建物が、糸杉池畔(ちはん)(そび)えていた。ガラスでできたと思しき、円筒形をした五階建てくらいのタワーで、月光に鈍く輝いている。

「きっと、あそこね。培養施設がある場所は」

 タワーは、まだ完成していないか、完成直後で、池畔には工事用パイロンや足場、資材や工事車輌が、残されていた。《ノア》からの実験体搬送が至急の案件だったと知られた。

 発掘現場は、谷間の一角にあった。赤い家畜の岩面陰刻(ペトログリフ)が発見された洞窟に接しており、大きな人工的な穴が垂直に掘られている。

 だが、サイトBと異なって、いくつもの重機のアームや発掘人夫の姿は、地上部分ではほぼ見当たらない。発掘の穴は、かなり深く掘り込まれてタワーと地下で直結していると、予想できた。発掘物を直接、タワーの地下部分に搬入しているのだろう。

「問題は、どうやって中に入るか、ね。工事車輌を奪って、強行突破でもする、ケイタ?」

「工事車輌を奪う手もいいですが、見て下さい、アレを」

 双眼鏡を覗いた天城は、工事車輌の陰に、黒と紺の二台のベンツが停まっていると見出した。どこか間近で見た、シルエットとナンバーだ。

「……我々を乗せてエレバンに向かったベンツよね。ということは、グルグとモアイ野郎が、雁首(がんくび)を揃えているわけね」

「恐らく、連中だけじゃありませんよ。《AD》の一大イヴェントが開催されるんですから、首魁のデミルコルも、タワー内の施設に来臨しているはずです」

 天城は、この状況下での、最善の行動を考えた。

 まず、サイトAに隣接する洞窟と、その洞窟の懸崖(けんがい)に向かう。そこで、用意してくれた爆薬を用いて、軟弱地盤を爆破する。五年前にストロエフが起こした雪崩のように、爆薬で土砂崩れを引き起こすのだ。

 軟弱地盤のため、地層の具合や爆薬の量によっては、大規模な地滑りも発生可能だ。大量の土砂は、直下のサイトAをあっという間に呑み込んで、〝ナックラヴィー〟諸共に、地下に埋められる。上手くいけば、デミルコルやグルグなども生き埋めにできようか。

 もし、土砂崩れ作戦でデミルコルたちを討ち果たせなかった場合は、サイトAから逃走する際に利用する道端にも、爆薬を仕掛けておく。タイミングを見計らって爆発させれば、ベンツと共に、一巻の終わりだ。

 それでも、悪運強く逃れ出た場合は、天城自らの手で、銃撃に及べばいい。刺し違えてでも、サイトAからは逃さないつもりだった。

「それじゃあ、三手に別れましょう。私とカリネちゃんは、洞窟と崖に爆薬をセットしに行くわ」

「俺は、連中を討ち漏らした時に、銃撃できる体勢を採っておきます。二人共気を付けて」

「圭太サンも、どうかご無事で」

 カリネの瞳の蛍光色は、鳴りを潜めている。もう、発作の心配はしなくてよさそうだった。

 フォンとカリネは懸崖の左右の尾根を伝いながら、また、洞窟の内部などに、爆薬をセットしていく。安全な場所まで後退した上で、遠隔操作用の起爆装置で爆発を起こしてもらう。どうやら、洞窟周辺や懸崖自体には敵兵の姿は見当たらず、計画を進めるには問題なさそうだ。

 天城は、サイトAから麓の村へ延びる唯一の道脇へ貼り付く。それから土砂崩れの成否を確認して、行動に移る予定だった。

 もし、起爆装置で失敗したなら、手榴弾を直接、投げる方法もあった。実際に銃撃戦になれば、最も危険な立ち回りになるのだが。

 失敗や予期せぬ事態が起こった場合は、互いのスマホで作戦変更もしくは作戦中止の連絡を取り合う算段になった。そうならないことを、天城は、強く念じた。

「それでは、健闘を祈ります。アンタキヤで再会しましょう」

 三人は銃器を手に、爆薬を背に、別々の方向へと散った。

 天城は、二人の影が闇に消えると、ゆっくりとサイトAに下りていった。所々に泥濘(ぬかる)んだ窪みや下草の群生も散見される。

 だが、基本的には、カラカラと崩れ易い岩場だ。移動には慎重に慎重を重ねなければ、小石一つの落下が敵に発見される命取りとなりかねない。

 暗闇の中で周囲を警戒し、足許に異常なまでの注意を払い、天城は、どうにかサイトAに近い、平坦な場所まで降下できた。

 そこは、サイトAを間近に望む、ひっそりとした場所だった。ここには誰の気配もなく、打ち棄てられたような錯覚さえ感じた。

 月光に照らされて、ようやく窺えた雰囲気から、そこが旧ヌーファン村の墓地だと分かった。雪崩後に取り残されていた、引き取り手のない故人の墓ばかりで、富樫の妻バハルも、ここに眠っている。

 少し前、マクラウドは、ここに秘密裡に来て、片っ端から墓を暴いていった。その結果、ヌーファン村が〝巨人の郷〟で、埋葬者のほとんどが〝巨人の末裔〟だと証明した。

 天城は、急に心細くなると同時に、奇妙な敬意を抱き始めた。かつて地球上に跋扈(ばっこ)したと考えられる巨人の存在を、これほどまでに大きく感じた経験はなかった。

 一般的には神話・伝説の中でしか語られない巨人は、物理的に巨大な人間ではなく、偉大で強大な権力の象徴として、あるいは、マヌケな寓話の登場人物として生み出された。

 仮に、明白な物証が眼前に現れたとしても、オーパーツとして、胡散臭い偽物(ニセモノ)だと断じられてきた。

 しかし、天城は、富樫を巡る今回の事件で、巨人とは、神話・伝説・象徴・寓話に密かに溶け込んだ真実の姿だと確信した。

 巨人は、環境の変化で小型化を余儀なくされ、現生人類の中に紛れ込まざるを得なくなった。しかし、現在もしっかりと共生しながら、主にスポーツの各分野で凄まじい活躍を続けている。

 天城は、静謐(せいひつ)な墓間を進み、やがて、一つの墓碑に行き当たった。自然石に(のみ)穿(うが)たれた素朴な文字で〝バハル 愛しき人の死を(いた)んで 富樫三郎〟とあった。バハルの墓だ。

 墓碑の下には、〝1998~2021〟と、バハルの生存年も彫られ、その命が、僅か二十三年で閉ざされたと知った。となれば、富樫との愛の生活は、もっともっと短かく、尊いものだったろう。

 マクラウドによって暴かれたバハルの墓は、埋め戻されたとはいえ、どことなく雑に扱われていた。墓碑も歪み、埋土にも敬意と慎重さが欠けていた。

 マクラウドの罰当たりな行為に呆れつつも、天城は、ふと、《ノア》の共同墓地のタテフの墓に思いが至った。

 同じ死者にも拘わらず、偽善的・皮肉的にではあるが、タテフは〝功労者〟と(たた)えられた。死の瞬間からさほど時間も経っていなかったが、墓石であるハチュカルも細密に仕上げられていた。如何(いか)にも手が込んでいた記憶がある。

 殺害事件を目撃したために自らも殺されたバハル。その結果、愛する人と死別しなければならなかったバハルの心境や、如何(いか)ばかりだったろう。更に死後にも、冒涜(ぼうとく)な者による墓暴きにも遭い、再埋葬にも敬意が払われなかったとしたら、泉下でも報われはしない。

 だが、天城は、マクラウドの不敬を思う時、ストロエフの悪行にも思いを()せた。その上で、ストロエフのバハル殺害の動機が、本当に殺害現場を目撃されたからなのか、と疑義を挟んだ。

 ストロエフは、サイトA発見以前に〝巨人の遺物〟を認知していた節があった。既に巨人の生存についての理解も進んでいたはずだ。富樫の記事を知悉(ちしつ)していた点も、その裏付けと言えようか。

 その後、サイトAを発見したストロエフは、そこで再び〝巨人の遺物〟を目にして〝巨人の郷〟の存在を確信。発掘現場に隣接するヌーファン村の人たちが〝巨人の末裔〟だと信じた。

 やがてストロエフは、〝遺物〟ではなく〝末裔の生きた細胞〟を使った培養や遺伝子操作の実験を志すようになる。実験の先には、金儲けの文字が浮かんでいただろう。そのため、巨人の末裔の村人を襲い、胚細胞などを摘出して実験に供しようとした。

 ヒトの胚細胞とは、受精後九か月までを指す。つまり、ストロエフは、妊婦を探す必要性があった。当時、バハルは、時期的に、富樫の子を宿していた可能性が高い。

 胚細胞を求めて、ストロエフは、バハル殺害に及んだのかも知れない。その殺害現場をメスト・デミルコルに目撃され、メストをも殺害したのだろう。

 そこで、全てを隠蔽するため、それに、発掘現場の保存のために、ストロエフは、雪崩を引き起こした……。

 ここまで考えて、天城は、不吉な思いを封じ込んだ。恐らく、この考えは、的を射ているだろう。だが、人として考えてはいけない禁忌(きんき)に属するはずだ。しかしながら、その考えが正しいならば、富樫の常軌を逸した復讐への執念は、理解できる気もする。

 代わりに、天城の脳内に、別の奇妙な考えが浮かんできた。〝タテフも、墓を暴かれているのでは〟というものだ。ざわざわとした悪寒が首筋を()う。

 すぐに、富樫が死んだ場面が甦った。《AD》と偽の取引を提案してまで、富樫は《ノア》に向かった。だが、取引が嘘だったと露見し、グルグに〝裏切った〟と見做(みな)されて銃撃された。

 そもそも、なぜ富樫は、共同墓地で撃たれたのだろうか? 燃え盛る《ノア》からの脱出は、わざわざ共同墓地を通る必要は、ない。むしろ、エレバンの町に向かう道とは、反対方向だ。

 富樫が共同墓地に向かった理由を考えて、天城は、歩む足を止めた。自分の恩人、富樫の思考に辿り着こうと、神経を研ぎ澄ませる。

 深閑とした〝巨人の〟墓地は、一層の不気味さに包まれ、天城の早まる鼓動をも木霊(こだま)させた。木霊に(いざな)われて、墓の陰から恐ろしい巨人がひょいと現れるのでは、と身を(ふる)えさせる。

 富樫は、どうしても、タテフの墓に行く必要があったのだ。

 カリネの抑制薬を取りに《ホテル・エレガンティア・マカオ》へと向かう途中で、富樫は、急遽、タクシーを治安警察局へと立ち寄らせた。銃撃事件などの捜査状況を探りたいから、という理由だった。

 結局、富樫が治安警察局へ行ったかどうかの確認は取れなかった。でも、天城は、富樫が治安警察局へは、行っていないのでは、と思い始めた。

 ウードゥルでのフォンの調べによれば、マカオで外国人が客死し、事件性がないと判断された場合、遺体は、衛生局傘下の(ヤヌアリオ)伯爵綜合医院に移されて、法医学外表検査が行われるという。外表検査は、通常、一、二時間ほどで終了し、大概の場合は、自然死・突然死として判定され、その後、検察に法医学的意見書が提出される。

 治安警察局から仁伯爵綜合医院までは、タクシーで五分ほど。富樫が天城と別れた時点では、タテフの遺体は、まだ仁伯爵総合医院にあったと思われる。富樫は、タテフの遺体と、是非共、面会したかった……。

 富樫はこの時、死んだマクラウドから、恐らく注射針付きの密閉容器に入った〝ナックラヴィー〟を持ち出していた。初めは、ブレイクアウトを阻止するために、自分が管理しようと思ったのだろう。

 しかし、マクラウドから〝ナックラヴィー〟についての詳細を聞かされていた富樫は、この致死的な微生物の活用を思い付いた。

 亡き妻バハルの復讐のためか、クルドの武装組織の狂った野望を絶つためか、〝ナックラヴィー〟を利用しようと決めた。

 けれども、マカオ国外に持ち出すには困難を伴う。越境の際に発見されれば、中国政府に没収・利用されかねない。

 そこで、富樫は一計を案じた。〝ナックラヴィー〟は、〝巨人の末裔〟の体内では、たとえ宿主が死んでも、十日間ほどは生き続けられる性質を利用した。

 富樫は、捜査の進捗状況を確認しに行くと告げて、天城を(たばか)った。治安警察局からそのまま移動して、仁伯爵綜合医院に向かった。医者に変装するか、買収するかした富樫は、綜合医院の遺体安置所まで密かに進んだ。

 あとは、安置室のタテフの遺体に、マクラウドから得た〝ナックラヴィー〟を(じか)に注入して、何気ない振りをして建物から出てきた。

 その後に天城と向かったホテルの部屋にも、安全に〝手ぶら〟で乗り込み、偽の取引を有利に進められた。

 遺体とはいえ、手続きが終わってのアルメニア移送、解剖後に墓地に葬られるまでの時間くらいは、〝ナックラヴィー〟は、タテフの遺体内で生き続ける。

 検疫などの作業も、アルメニア選手団長が済ませた後だったので、問題はなかった。あとは、《ノア》に赴いて墓を暴き、タテフの体内から〝ナックラヴィー〟を抜き取ればいい。実際には、注入から四日後だった。

 これが《AD》にも《ノア》にも触れさせずに、安全にマカオ国外に〝ナックラヴィー〟を搬送できる種明かしだ。

 だから、富樫は、〝ナックラヴィー〟をどこかに隠していたのではない。わざと安全な方法で運び、必然的に《ノア》の共同墓地でタテフの墓を暴き、抜き取ろうとした。

 だが、痛恨ながら、別行動していたグルグに、抜き取りの瞬間を目撃された。富樫に〝裏切られた〟と悟ったグルグから銃撃を加えられ、富樫は、そのまま志半ばで死んだ。つまり、それが、〝一つだけの心残り〟だ。

 ただ、グルグは、富樫の抜き取り作業を見て、実験体でも培養が可能だと、分かった。本当は、富樫が手にした密閉容器を奪いたかったが、天城に撃たれて断念せざるを得なくなった。《AD》の支配地域には、無尽蔵に〝ナックラヴィー〟が埋まっているため、さほど固執する必要もなかったのだ。

 その代わりに、モアイ男たちに、《ノア》に残る実験体を、(ほのお)に焼き尽くされる前に、至急、運ぶよう命じた……。

 これが、天城が想像した、富樫の残りの謎の答だった。

 天城は、富樫の手の込んだ遣り口に、執念を見た。恐らく、妻の復讐と《AD》の策略阻止、両方の思いがさせた執念だろう。

 更に、天城は、〝ナックラヴィー〟の神秘的な生命力に、改めて脅威を覚えた。この足許に、そんな危険な微生物が無数に潜んでいると思うだけで、恐怖を感じる。

 カヤの言うように、本当に、〝ナックラヴィー〟の弱点は、ないのだろうか?

 天城は、また一歩を踏み出した。だが、この一歩が、(はなは)だ貧弱な一歩だと気付いて、大いに憂いた。

       2

 天城は、〝ナックラヴィー〟の脅威に、最大限の恐怖を覚えたまま、ヌーファン墓地を離れた。

 それまで天城たちの行軍を見守っていた月影が、次第に雲居(くもい)に、隠れ始めた。これで、天城たちの姿をより見出されずに行動できる。天城は、それでも慎重に、待機すべき道端へと急いだ。

 マクラウドが〝赤い(フルメンティ・)(ルブルム)〟に名付けた〝ナックラヴィー〟という愛称を、マクラウド本人は、結構、気に入っていたようだ。

 不吉な赤い肌で、強烈な災厄を及ぼす怪物の特徴も、故郷のスコットランド伝承に典拠している点も、お気に入りの理由だろう。

 だが、一つだけ、天城には分からない部分があった。『バハル観察』の掉尾(ちょうび)を飾っていた文章だ。

「我ながら、〝ナックラヴィー〟とは、最適な名を付けたものだ。この研究所も、まさに、管理するには持って来いの場所と言える」

 特に、後半の〝管理するには持って来いの場所〟とは、どういう意味だろうか。

 ここで示された〝この研究所〟は、アンタキヤの旧《アンティオキア考古資料館》の地下研究室を指す。

 だが、〝ナックラヴィー〟の〝管理には持って来い〟の真意が読めない。あの研究室の設備体系から判断すると、致死性の微生物を扱うには、どちらかというと、物足らない。

 マクラウドは、別の件に言及したのか? それとも、天城が弱点の他にも、〝ナックラヴィー〟の本質を知らないだけなのか?

 無性に気になった天城は、胸ポケットのスマホに手を伸ばした。

 そこで、路傍の岩陰に身を潜め、画面の明かりに気を配りながら、改めて〝ナックラヴィー〟を検索した。

 現れた画面の説明では、〝スコッランド民話に登場する海の妖精の一種〟とあった。カヤの言の通り、ケンタウロスに似て、馬の体に人の上半身が付いているという。

 最大の特徴は、皮膚のない剥き出しの赤い生筋肉に、血管が脈を打っている点で、毒の息を撒き散らして、作物を枯らし、人間を(みなごろし)にする。

 更に詳細も示されており、赤い大きな一つ目、豚のような鼻、長く裂けた口、長い両手、ぐらぐらとした大きな頭を持つ、とある。これほど気色の悪い生物を作り上げたスコットランド人の想像力には、頭が下がる。

 そのサイトには、リアルな想像図も併載され、以上の全特徴を満遍(まんべん)なく網羅したカラー図には、天城でなくとも不快感を覚えよう。

 原典とされる『スコットランドの妖精譚と昔話』の記載もあったので、目を落とす。十九世紀の終わり頃に編纂された書物、とある。

 そこには、著者が取材をした老人の談話という形で、不思議で怖ろしい体験が載せられていた。要約すると以下のようになる。


 夜遅くに家路を急いでいた老人が湖の(ほとり)に差し掛かった時、背後から近付いて来る何かに気付いた。それは怪物ナックラヴィーで、老人は、悟られぬように歩みを速めた。

 やがて、怪物は、老人の背後まで迫り、鷲掴みにせんと長い腕を伸ばしてきた。老人が滄浪(よろ)けて湖に飛沫(しぶき)を上げながら逃れると、ナックラヴィーは雷鳴のように(いなな)き、後退(あとずさ)りした。

 老人は、ここぞとばかりに全速力で走り出したが、怪物は背後から、地獄の釜のように()えながら追い(すが)ってきた。

 老人は後ろを振り返らずに、無我夢中で走り続けた。しかし、怪物がすぐ後方に迫っているにも拘らず、絶望が老人の前にも立ち塞がった。浅くて細かったが、一筋の小川が行く手を遮っていたのだ。

 少しでも速度を遅くすれば、今にも怪物の長い腕の一撃が、老人を襲うだろう。それでも老人は、生への執着を見せ、小川を対岸へと力の限り懸命にジャンプした。一か八かの大勝負だった。

 幸いにも、怪物の一撃が空を切り、老人の被っていた帽子だけが怪物の手に残った。まさに、間一髪だった。

 怪物は失望と憤怒(ふんど)の叫びを上げた。しかし、赤い一つ目をぎらつかせ、露出した生肉を(ふる)えさせたものの、それ以上は、老人を追おうとはしなかった。

 老人は、ナックラヴィーが淡水を嫌う存在だと思い出した。だが、その後、安心したのか、気を失って倒れたという。どうやら、流れる水を結界として越えられなかったのだろう、と後に老人は、述懐してくれた。


 天城は〝ナックラヴィー〟の弱点を見出したような気になった。体験談の中にも〝淡水を嫌う存在〟と書かれている。

 湖で滄浪けた老人に後退りしたのも、ナックラヴィーが水飛沫を浴びたからに他ならない。結界としての淡水を越えられないという点も、ナックラヴィーが海の妖精たる由縁(ゆえん)だ。

 振り返って、マクラウドが旧《アンティオキア考古資料館》の地下研究室が〝管理には持って来い〟だと言及した理由も、天城には分かった。

 旧《アンティオキア考古資料館》自体が中島に建っていて、つまり、淡水に囲まれている点が、〝ナックラヴィー〟の管理には適切だと、マクラウドは思った。つまり、致死性の微生物〝ナックラヴィー〟が淡水に弱いという指摘以外に、考えられなかった。

 反対に、解凍にナトリウム溶液を用いる点からは、〝ナックラヴィー〟の親海水性(海の妖精的である)とでもいうべき性質も、よく表していると思う。

 万が一、〝ナックラヴィー〟が研究室内に蔓延(まんえん)し、研究者が感染したとしよう。それでも、地下研究室内に真水を満たせば、〝ナックラヴィー〟は、研究者諸共に全滅して、ブレイクアウトだけは防げる。

 資料館には、環濠(かんごう)している水を導く設備もあるはずだ。だから、〝管理には持って来い〟というわけだ。

 地下研究室の天井を大蛇のように巡らされたダクトが、室内への給水用導管だった、と思い至った。マクラウドやメストの研究は、死と隣り合う、命を懸けた戦いだったのだ。

 その甲斐あってか、マクラウドは、〝ナックラヴィー〟の分子構造から、空気感染するタイプの微生物だと気付いた。その指摘は、師の微古生物学者であるメスト・デミルコルも同様だった、との想像は容易(たやす)い。

 そう考えれば、メストが〝赤い粒〟を発見した際に息子のファズルに対して、その特徴をも、指摘しただろう。〝赤い粒〟が致死性の微生物であり、空気感染するタイプだと。更には、弱点の予想や証拠、解凍に必要な知識も、告げた可能性は高い。

 以上の結果から、天城は《AD》が〝ナックラヴィー〟の嫌淡水性の弱点を、認知していると判断した。培養施設自体を、わざわざ糸杉池の畔に建てた理由も、そこにある。

 つまり、目の前に建つ培養施設(タワー)には、糸杉池の水を引き入れる設備が、旧《アンティオキア考古資料館》の天井のダクトと同じように、きちんと整えられているはずだ。

 逆に考えれば、注水装置は、糸杉池と確実にリンクしている。だから、その部分を破壊できれば、すぐに池水を引き込んで〝ナックラヴィー〟を全滅に至らしめられよう。

 一方で、フォンとカリネの爆破作業で土砂崩れを発生させた際は、単にタワーを埋め尽くすに留まる。

 その場合は、〝ナックラヴィー〟を全滅させられない。建物は埋まっても、数日以内に実験体を掘り起こせば、〝ナックラヴィー〟自体は、生き延びるからだ。

 確かに、替わりの実験体を調達するリスクは負う。しかし、コーティング技術を施せば、調達できるまで〝安眠〟させておける。

 だから、このまま爆破による土砂崩れを発生させても、こちらの望むような結果には、ならない。むしろ、《AD》が別の場所に実験施設を秘密裡に移し建てて、二度と世間の目に触れない所で、過激な実験を完成させるだろう。チャンスは、今しかない。

 焦った天城は、急いでスマホでフォンに連絡を入れた。

 しかし、何度、しつこく架けても、一向に繋がる気配はなかった。それは、カリネにも同じだった。圏外ではないはずだから、妨害電波でも出ているのだろうか?

 天城は、更に焦った。これでは、単独行動に頼らざるを得ない。手持ちの武器は拳銃と銃弾、それと、背負うバッグの中にあるプラスチック爆弾や手榴弾だけである。特に、プラスチック爆弾を注水装置にセットして爆破できれば、充分な破壊力を生むはずだ。

〝ナックラヴィー〟の弱点には、確信がある。しかし、計画を急遽、変更してまで、単独行動のリスクを冒せる自信がなかった。

 作戦の成功は、二人との連携が必要不可欠である。タイミングがずれれば、軟弱地盤への影響から、取り返しの付かない結果も、考えねばならない。

 だが、躊躇(ためら)いに懸ける時間は、ほとんどないと思われる。コーティングの強制解凍に要する時間は、三日程度。まさに、タイム・リミットが刻一刻と迫っていた。

 それに、マクラウドと同じように、培養に成功した〝ナックラヴィー〟を密閉容器に入れられてしまえば、いくら地下の研究室を水で満たしても、詮がない……。

 天城は、決断した。自らが糸杉池にダイヴし、プラスチック爆弾をセットし、爆発させよう、と。

 そこで、天城は方向転換をして、今が真夏でよかったと思いながら、糸杉池に真っ直ぐ向かった。真冬なら、分厚い氷の下への潜水は、カリネでさえ極めて困難だ。

 池の彼岸は、皓々としたライトの下、ぴりぴりとした(うごめ)きを見せる。一方で、此岸(しがん)は、(みぎわ)に寄せる微かな(さざなみ)に、より静寂を感じた。

 天城が意を決して、バッグの中からプラスチック爆弾を取り出した時だった。背後で気配が上がり、背筋が凍り付いた。

 しかし、振り返った天城の視界には、思い詰めたような表情のカリネがいた。敵ではない姿に安堵したが、別の嫌な予感に苛まれた。

「カリネ、どうしたんだい? フォンは?」

 計画の進行に、只ならぬ問題が発生したと、天城は肝を潰した。敵に動きを察知されたのであれば、行動にも制約が生まれる。

「……フォンさんが、途中で撃たれたの。そのまま、右の崖下に落ちちゃって……」

 カリネの言葉に、天城は顫え、フォンの身を案じた。だが、銃撃と落下では、死を免れ得ないかも知れない。

 敵情は不明だが、崖下からフォン(遺体の可能性もある)が見付かるのに、さほど時間は掛からないだろう。

「私は、見付からないように、左の崖を一生懸命に下りてきたの」

 最悪の事態は回避できたものの、フォンの離脱は、作戦遂行上も、仲間の損失という意味でも、大きい。

 無謀な計画だったとは、承知している。だが、他の選択肢がなかっただけに、後悔してもし切れない。天城は、唇を噛み締め、熱く湧き上がる思いを押さえ込むしかなかった。

「残念ながら、現状では、フォンの生死は、確認してやれない。……でも、計画は、進めなければならないよ」

 天城の無慈悲な言葉に、カリネも深刻な頷きを見せた。

「……そうよね。フォンさんも、それを望んでいるわ、きっと」

 天城は、心の鬱憤(うっぷん)をぶつけるように、〝ナックラヴィー〟の新情報を、カリネに伝えた。

 淡水が弱点と思われる点、全滅させられる方法は、糸杉池と繋がる注水設備の爆破しかない点、これから潜水しようとしていた点などを、()(つま)んで告げた。

「〝ナックラヴィー〟って、水が弱点なの? ……巨人って、入浴しなかったのかな?」

「巨人が風呂に入るかどうかは、分からないよ。でも、巨人の体内では体組織に守られて、生存には問題ないはずさ」

 カリネは、爆破作業がフォンの仇討(あだう)ちに最も相応(ふさわ)しいとばかりに、新しい展開に応じて、目を輝かせた。

「私が、爆弾のセットをしてくるよ。時間もないんでしょ?」

 カリネの潜水能力は、天城の数倍を優に超える。肺活量や筋肉量から考えても、打って付けの存在だ。ここは、アルメニア代表選手たるカリネに頼る方策がベストだ。容易に、池中のセンサーも掻い潜ってくれるだろう。

 カリネは、プラスチック爆弾入りのバッグをひょいと背負い、いそいそと汀に立った。本領発揮を期して、いきいきとした雰囲気さえ窺える。

「じゃあ、行ってくるね。教えられた通りに仕掛け終わったら、すぐ戻って来るから」

「これ以上の犠牲者はたくさんだ。カリネは、無事に帰って来いよ」

 天城の思い掛けない懇願に、カリネも、驚いたように頷いた。

 そのまま、くるっと背を向けて、池面へ入ったカリネは、俊敏だった。まるで、水を得た魚のように、重いバッグを物ともせずに、水面(みなも)を静かに泳いで行く。岸からの距離をぐんぐんと広げ、やがて池の中央辺りで、水間に消えた。

 カリネが潜ると、再び、静寂が訪れた。池畔から上空を見上げると、静寂に耐えられずに、星が落ちてきそうだった。

 カリネの泳力なら、セットにやや手間取るにしても、五分と掛かるまい。天城なら、そんなに息が()たなかった。

 カリネが戻ってきたら、二人で麓への道端へと移動する。それから、道端に残りの爆薬を仕掛けてから、頃合いを見計らって、遠隔装置で池の爆薬のほうを爆発させる。

 かなりの量のプラスチック爆弾なので、注水装置だけでなく、タワーの地盤にも少なからぬ影響が出るだろう。仮に地盤が爆発に耐えられても、タワー内は混乱を来し、デミルコル一行が脱出を敢行するはずだ。

 あとは、車列のタイミングを見定めて、もう一つの爆発を起こすだけだ。そこで、爆破された車へ襲撃を加えれば、デミルコルたちを一掃できようか。成功の(あかつき)には、フォン(の遺体)を回収して、引き上げればよい。

 ところが、画餅(がべい)の如き作戦は、瞬く間に水泡に帰した。

 (いたずら)な夢想に浸っていた天城は、再び背後の物音に、打ち破られた。今度こそ、心胆を寒からしめる情況に陥ったと、目の前が(くら)くなる。

「よお、サムライボーイ。お前とは、いつも妙な所で会うな」

 まだ包帯の権化(ごんげ)のようなモアイ男が、部下の兵士二人を従えて、佇立(ちょりつ)していた。どちらの兵士も、短機関銃を天城に向けている。

 天城は、ゆっくりと両手を頭の後ろで組み、抵抗を試みなかった。モアイ男がカリネの存在や行動を把握していないと信じて、そら(とぼ)ける他ない。

「あとの女どもは、どこにいる?」

「今回は、俺一人だ。こんな危険な場所には、来たくない、とさ。薄情なものだぜ」

 天城の適当な嘘には関心を持たずに、モアイ男は続けた。

「しかし、よくこんな所にまで、来やがったな」

「一大セレモニーが開かれる、と聞いたものでね」

 鼻で(わら)ったモアイ男は、(あご)(しゃく)って、部下に天城の武装解除を命じた。〝一大セレモニー〟と聞いても、驚く気配はなかった。

 どうせ、この場では、銃殺されないと、天城は、高を(くく)っていた。必ず、デミルコルやグルグの面前に引き出されるはずだ。少なくとも天城が抵抗しない限り、モアイ男に即、銃殺の権限はない、とも。

「俺を、どうする気だ?」

 答は明白だったが、天城は、身包(みぐる)みを剥がされながら質問した。池面に浮上したカリネが、天城に起こった緊急事態に対して、意を汲んでくれるよう、少々、大きい声で。

「決まってるだろう。グルグさんの許へ連れて行くのさ。お前の言うように、もうすぐ、セレモニーが始まるからな」

 モアイ男は、顎鬚(あごひげ)を震わせて、天城の無残な行く末を喜んでいるように見えた。

 天城は、カリネに全てを託さざるを得なくなった状況を、非常に憂いた。だが、同時に、大いに期待してもいた。

 天城は、糸杉池畔から、兵士の男たちに両腕をがっちりと抑え付けられて連行された。モアイ男は、〝指名手配犯〟の捕縛に気をよくしてか、道すがら下手な口笛を吹いて気分も上々だった。

 連行の途中で、何人ものフル武装の兵士と行き交った。天城の(およ)その目算では、タワー周辺だけでも、敵兵力は三十から五十。サイトA全体には、もっと多くの兵士が蝟集(いしゅう)しているはずだ。〝土砂崩れ作戦〟が潰えた今、これだけ大人数の兵力を相手に、真面(まとも)に交戦する勇気はない。

 フォンは、背後の懸崖を巡回していた兵士に撃たれたのだろう。逆に、カリネの無事が奇跡なのかも知れない。

 予想通り、天城は、そのまま培養施設のタワーまで引き具された。

 タワーは、青芝を貼った敷地に、巍然(ぎぜん)として聳えていた。特殊な青いガラスで覆われた五階建てほどの筒型の建築物で、今や、サイトAを象徴する近代的な建物だった。

 哨兵(しょうへい)の間を通って一階のエントランスに入ると、直径五十メートルほどの円形の広い空間が待ち構えていた。意外にも、五階部分までが吹き抜けの伽藍堂(がらんどう)だ。

 殺風景なエントランスの(むこ)正面(じょうめん)には、エレベーターの扉があった。エレベーターは、吹き抜けの最上部まで貫いている。恐らく、屋上にヘリポートでも備えられているのだろう。デミルコルの来臨がヘリコプターでなら、注水装置爆破では逃走される恐れもある。

 一階の各所にも兵が配置されて、厳重な警備が()かれていると分かる。エレベーターの扉前や吹き抜けの縁をぐるっと巡る階段にも、歩哨の姿が窺える。

 モアイ男は、厳重な警備に満足しつつ、天城を従えてエレベーターに進んだ。タワーのメインは地下にあり、実験施設も地下深くに隠されている。

 先ほどのモアイ男の口からは、まだ解凍作業は終わっていないと思われた。カヤによれば、強制解凍にも三日ほど掛かる。そろそろのタイミングなのは、間違いないのだが。

「ここが、お前にとっての地獄の入口だ。入れ」

 天城が押し込められて扉が閉まると、(はこ)が降下した。本当に、地獄へ落ちていくような、最悪の心地だった。

 エレベーターは滑らかに加速し、思う間もなく、すぐ静かに停止した。感覚からして、地下八階から十階では、と感じた。糸杉池の底が、地図に五十一メートルと示されていた。だから、この階のレヴェルとの高低差からいって、池水を引き入れるには、充分だった。

 扉の前には、再び無機質な通路が延びていた。青白い間接照明が不気味に続く。天井には、黒鋼(くろがね)大蛇(ダクト)こそ這わせていなかった。だが、空調用の換気口は一定間隔で開けられており、緊急時の給水にも役立つと思われた。

 モアイ男に導かれるままに、暗い通路を()いていく。すると、やがて、歩哨に守られた広めの部屋に通された。

 暗めの部屋は長方形で、先に行くほど階段状に低くなっていた。小規模な映画館の観覧席のようで、正面で行われるショウを多くの者が見学できるように、椅子が連なっていた。

 映画館のスクリーンの位置には、透明なガラスで仕切られた部屋が(しつら)えられている。居並ぶ機器類から、そこが実験室の一つだと分かった。

 暗い室内に比して、ガラスの向こうの実験室は明るく照らされていた。手術台のようないくつかの丸いベッドの上には、既に白いシーツに包まれた実験体と思しき人影もあった。《ノア》で見掛けた実験体の子供たちを髣髴(ほうふつ)とさせるシルエットだ。

 天城は、強い焦りと憂いを、心に(たぎ)らせた。それでも、まだ、爆発は起こらない。

 階段を最前列まで進んだモアイ男が到着を告げる。すると、仕切りガラスの前の特等席に座していたスーツ姿の人影が、すっと席を立った。

「これは、これは、サムライボーイ君。ご気分は如何かね?」

 ファズル・デミルコルは、以前にも増して、気分が高揚していた。これから目の当たりにする一大イヴェントに、明らかに興奮している。横に()すグルグも同様だった。

「君も、運がいい。これから、ショウに参加できるのだからね」

 天城は、〝参加〟という言葉に警戒感を強めた。〝ナックラヴィー〟の解凍と実験体での培養とは、無縁の言葉に思えたからだ。

「俺に何をする気だ?」

「君も承知の〝赤い粒〟のコーティング解凍作業が、先ほど完了した。これが、今し方、手許に届けられた、生の〝赤い粒〟第一号だ」

 デミルコルは、手にしたジュラルミン・ケースを掲げ、更に不快な笑みを重ねた。グルグにジュラルミン・ケースを渡し、中身を取り出すように命ずる。

 グルグによって、サイド・テーブル上でケースが開けられた。中には、黒く仕切られた注射針付きの密閉容器が窺えた。解凍が終わった〝試供品〟といったところか。

「実は、私は、〝赤い粒〟の効力について、(いささ)か、疑念を抱いている。父が指摘してくれた性質や脅威が、どれほどのものか。もちろん、父の研究については信じているが、やはり、この目で確かめたくてね」

 デミルコルは、グルグが恭しく差し出した注射針付き密閉容器を受け取った。ダイヤモンドの輝きを愛でるように見詰めてから、モアイ男に頷く。

 モアイ男は二人の兵士を促し、デミルコルの面前へと天城を引っ立てた。天城への誅罰(ちゅうばつ)を、直接、デミルコル自らの手で下そうという魂胆だ。

 天城は、全身で抵抗を試みた。だが、もう、時は遅かった。〝ナックラヴィー〟を体内に注入されれば、ネズミやサルと同じように、すぐに苦しみ始める。サルよりも長く、せいぜい、一週間は地獄の辛苦(しんく)を受けて、生きるかも知れないが。

「止めろ、バカ! 何するんだ」

 天城の全身は、完全にロックされていた。全く身動きができない中で、絶望と共に、デミルコルが近付いてくる。手にした注射針が、(あや)しく光る。

 デミルコルが大きな口を開けて迫る巨人に見えた。その大きな口で、一息に頭から喰い千切られて、咀嚼(そしゃく)される。まさに、悪夢だ。

 絶体絶命だった。いくら(ののし)ろうが、グルグの嗤笑(ししょう)が止まらない。このような最悪の形で人生を閉じるとは、思っても見なかった。

 この期に及んでも、カリネが仕掛けたはずのプラスチック爆弾は、まだ爆発しない。爆発の一瞬の隙を突いて生ずる緩みに懸けるしかないのに……。カリネは、爆弾設置に失敗したのだろうか?

「今度こそ、さらばだな、サムライボーイ君。〝赤い粒〟に速攻で喰い殺されれば、さほど苦しまないだろうよ」

 神に祈っても、爆発は起きない。針先が天城の首元へ延びてくる。天城は、全身を嫌な汗で覆われ、死の儀式を受け入れる以外の選択肢がないと悟った。

 すぐに首に痛みが上がった。ちくっというより、ぐさっと感じた。

 それから、体内に異物が注がれていく感覚を得た。注がれる(そば)から、熱く(うず)き始める。

 もう終わった、と諦めた。

 天城は、もう、本当にどうでも良くなった。〝赤い粒〟を注入されて、やがて、体を喰い尽くされよう。生きている時間は、そう長くはない。やがて激しい苦しみが襲ってきて、全身を(ただ)れさせながら、(もだ)え死ぬのだ。

「実験室に入れておけ。経過観察を忘れるな」

 全身の力が入らなかった。モアイ男と兵士二人に連れられて、仕切りの扉を潜った。自分の哀しい運命を呪えども、体を動かす機転を忘れた。「もう、どうせ、死ぬんだ」と。

 引き摺られるように実験室に入り、空いている丸いベッドの一つに、強引に寝かされようとした。

 その時、遠くから震動が上がった。ようやく爆発が起こったのだ。瞬間的にカリネの顔が浮かんだ。その後から、フォンや富樫の顔も、脳裏に浮かび上がった。

 間もなく死する身だ。でも、このまま最期まで何もできずに終えてはいけない、と富樫に叱責(しっせき)された気になった。多くの死した仲間や犠牲者たちに、申し訳ない気持ちが、遅ればせながら、沸々(ふつふつ)と湧き上がった。

 天城は、今までの投げ遣りな気持ちが、爆発の発生で消し飛んだ。体に最期の変調が訪れる前に、気持ちを切り替えた。こうなったら、デミルコルも、グルグも、モアイ男も、皆、諸共に地獄へ()としてやろう、と改めた。

 震動によって生じた隙に、天城は、最期の花道を飾るべく俊敏に動いた。

 油断していた二人の兵士の腕を一瞬で振り(ほど)くと、両(ひじ)を顔面に叩き込んだ。(ひる)む二人の鳩尾(みぞおち)に、立て続けに一発ずつ、パンチを喰らわせる。

 次に、右の兵士の肩口から短機関銃を奪うと、正面のモアイ男に対してすかさず銃撃を加える。モアイ男は、()()って、無様に床に(たお)れた。

 兵士二人にも銃弾をお見舞いしたところで、ガラスの仕切り板が閉まり、実験室が密閉された。ガラスの向こう側でデミルコルが不安気にこちらを睨んでいる。短機関銃をガラスに撃ち込むが、全く歯が立たない。

 だが、デミルコルを睨み返した次の瞬間、天井に異変が起こり、誘爆が発生した。手術用の照明器具が砕け落ち、耳を(つんざ)いた。天井が波を打って歪み、激しい火柱が降り注いだ。

 天城は、急ぎベッドを引っ繰り返して(たて)とし、次の衝撃に備えた。

 次の衝撃は、より激しいものだった。激しい爆風がベッドごと全身を襲い、仕切りガラスを粉々にうち砕いた。

 座席側も、あちこちで火柱を受けて混乱を(きた)していた。黒煙の逆巻く中、立ち上がった天城は、周囲を見渡した。

 デミルコルの姿はもうその場にはなく、恐らく、自ら爆風の楯となったグルグだけが、倒れていた。ガラスの破片を正面から受けて、前面を血塗れにしていた。だが、天城の姿を見掛けると、死んだ巨人か、幽霊のようにゆらゆらと立ち上がった。

「地獄で、会おうぜ」

 天城は、肩の短機関銃を腰だめにして、引鉄(ひきがね)を勢いよく絞った。

 グルグは、躍るようにして、後ろ向きに引っ繰り返った。

「もっと……早く、お前を……殺しておけば……」

 それが、グルグの最期の言葉だった。だが、聞き終わる前に、新たな轟音が、グルグの言葉を掻き消した。

 頭上からの爆発炎上に加えて、予定通り、大量の池水が研究施設を順次満たしてきた。

 デミルコルの話では、実験体での本格培養は、まだ始まっていなかった。この爆発と注水で、実験体に対する〝ナックラヴィー〟の注入が、阻止されたといっていい。

 これで、潔くあの世へ行ける。天城は、渦巻く怒濤の水に飲み込まれながら、その場に力なく倒れ込んだ。

 富樫やフォンに()びを入れながら、意識が朦朧(もうろう)としていく。水が天城の体を持ち上げた辺りで、意識がなくなっていった。このまま〝ナックラヴィー〟に苦しまずに、溺死するのも悪くないと、最期に感じつつ……。

       3

 天城は、胸苦しくなって目覚めた。頭がくらくらして、黒い闇に覆われていた。自分がどこにいるのか、なぜここにいるのかが、しばらくは分からなかった。

 首にきりっとした痛みがあった。そこで、自分の体内に〝ナックラヴィー〟を注入されたと思い出した。

 全身がずぶ濡れだった。もう、三途(さんず)の川を渡ったのだろうか?

 あれからどれくらい経ったのか、定かではなかった。だが、まだ全身に激しい痛みがなかったので、さほど時間が経過していないのでは、と感じた。

 残念ながら、溺死し損ねたようだ。これから、死の一週間が始まると思うと、頭がどうにかなりそうだった。

 ぼやける視覚を鼓舞して、辺りを見回す。しばらくしてから、頭上がぼーっと弱く光っていると分かった。極度に暗かったが、ドーム状の天井だけが、青白く光っている。

 ふらつく倦怠感(けんたいかん)を押さえ込んで、どうにか起き上がる。鍾乳石から(したた)るように、天井から(しずく)がぽたぽたと落ちてくる。浜辺に打ち寄せる波のように、足許の水がきらきらと揺れていた。

 タワーの地下階のどこかに、波濤(はとう)によって一気に打ち寄せられたのだろう。天井まで五メートル近くある、倉庫のようなかなり広い場所だった。

 空間の奥には、工事用の車輛やフォークリフトなどが一所(ひとところ)に押し流されて、引っ繰り返っている。中央付近に浮いている漂着物は、兵士の溺死体だ。天井の照明は、水圧で全壊しており、緊急用の淡いランプが(とも)っているだけ。

 車輛の横転や照明の全壊は、水流の凄さを物語っていた。一旦は、津波の如くこの倉庫を奔流が激しく満たした。その上で、部屋の中を悉く(もてあそ)び、嘲笑(あざわら)うかのようにすぐに引いていった。

 この破壊力から判断して、培養実験の装置も破壊し尽くされたと、天城は確信を持った。残念だが、運び込まれた実験体の子供たちは、死に絶えたと思わざるを得ない。

 また、淡水の恩恵で、解凍したばかりの(なま)の〝ナックラヴィー〟も、全滅したと考えていい。つまり、《AD》の目論見は、水泡に帰したと判断していいだろう。

 天城は、確かに短機関銃で、グルグとモアイ男を纏めて(ほふ)った。だが、デミルコルは、グルグの献身で死を免れていた。天城と同様に、奔流に身を揉まれて、地下施設のどこかでまだ生き延びている可能性もある。形勢が逆転したというよりは、収拾が付かなくなったように感じられた。手にしていた短機関銃も、今は、手許にはない。

 まだ足元がふらついていた。〝ナックラヴィー〟の影響かは、分からなかった。それでも、死の病がはっきりと発症する前に、デミルコルを見付け出して、(とど)めを刺さねばならない。富樫も、それを望んでいるはずだ。

 ふと、左手の人差し指と中指の爪の間に付着していた血糊に目が行った。血糊は僅かだが、まだそこにくっきりと残っていた。

 だが、天城は、左手の親指や薬指の爪に浮き出ているあり得ないものに目が行き、我が目を疑った。

 爪の内部である〝爪床(そうしょう)〟と呼ばれる部分が、赤く()け上がっていた。天城の左手の親指と薬指、右手の人差し指、中指、薬指に、まるで手の込んだネイルアートを施したように、綺麗な模様を呈して。

 ――綺麗な蜂巣状の模様。

 それは、〝赤い粒〟の宿主たる〝巨人〟の証で、〝巨人の末裔〟のバハルの遺体にも、明確に残されていた。

 もし、〝赤い粒〟が体内に侵入したなら、〝非巨人〟の場合、体の様々な場所に、ランダムに歯型状の痕跡が痣のように残され、死に至る。

 一方で、〝巨人〟であれば、色々な部位に綺麗な蜂巣状の模様が現出し、死に至りはしない。人によって現出する部位も異なるのだろう。

 天城は、混乱を通り越して、発狂しそうになった。爪に現出した綺麗な蜂巣状の模様、それは、天城が巨人の末裔である証左だった。これこそが、巨人の呪いなのか……。

「俺が巨人の末裔だと?」

 確かに、環境の変化で巨人が矮小(わいしょう)化し、現生人類と外見的には同化した。隣人が巨人の末裔だとしても、決して分からない。まして、本人が巨人の末裔だとしても……。

 天城は、自分が巨人のDNAを受け継ぐ人間である衝撃を受け入れ難かった。両親にも祖父母にも、巨人の要素も痕跡も現れてはいなかった。スポーツ万能でもなかったし、むしろ文系の家系だった。

 しかし、天城が巨人の末裔ならば、〝ナックラヴィー〟の宿主として、共存できる事実を意味する。つまり、〝ナックラヴィー〟を注入されようと、決して死にはしない。

 逆に、これからどのように、〝巨人〟と向き合うかという問題が提起された。しかし、現状においても死に至らない生の喜びのほうを、大いに噛み締めようと思った。

 その時、天城は、弱い歩調で水面を乱す気配を、背後に感じた。

「天城君、どうやらまた、お前たちがやらかしてくれたようだな」

 ドーム天井に響く声に振り返ると、濡れそぼったファズル・デミルコルが体を傾けて立ち竦んでいた。血走った目、乱れた髪には、今や、《AD》の領袖の威厳も、自信も、消え失せている。ただ、全てを奪った憎き相手を前に、復讐の(ほのお)をメラメラと燃え立たせているだけだ。

「罰が当たったのかも知れないな。……もう、元には戻れないぜ」

 天城は、自分に対する思いも込めて、はっきりと告げた。

「こんな商売をしているんだ。このような罰は甘んじて受けよう。だがな、ここで終わるわけには、断固いかない」

 デミルコルは、(はら)の中の毒を吐き捨てるように言い放った。

「クルド人国家建設の大望のためか?」

「そうさ。何が悪い? 平和ボケの日本人のお前に、我々の思いが、分かるはずもない」

「クルド人が政治的に迫害を受けている事実は、知っているさ。クルドの人たちが困苦を抱えて生きているとも。だから、別に、国家建設の悲願を非難するつもりはない。問題は、その方法だ。こんな方法で勝ち取った国家で、お前は、いいのか?」

 天城の言葉に、デミルコルは、憤怒の形相を露わにした。かつての紳士然とした態度は、微塵(みじん)もない。

「父は、クルドの出自というだけで、(いわ)れなき差別を受けた。もちろん、私もだ。それもこれも、クルドが国家を持たぬ(しいた)げられた民族の故だ。民族の誇りは、曲げられぬ。どのような方法を採っても、クルド人国家建設は、成し遂げられねばならない。あの弱腰のPKKに頼っていた時点で、国家建設など、永遠に不可能だったのさ……」

 天城は、この時点で、デミルコルが丸腰だと気付いた。奔流に武器を奪われたのだろう。激しい弁舌は、部下をも失った無力を補うものだった。

 これで、立場としては同等だった。ただし、〝ナックラヴィー〟の影響がどのように出るのかが、ポイントだ。

 デミルコルは、どうやら天城の変調を確信したらしかった。こうして互いに丸腰で対峙していても、天城が攻撃してこないからだろうか。次第に怒りの表情を収めて、本来的なサディスティックな笑みを見せ始める。

「……それよりも、どうだ? 〝赤い粒〟を体に注入された気分は? 間もなく、地獄の苦痛が襲ってくるぞ」

 デミルコルは今まで、〝ナックラヴィー〟の培養に失敗してきた。だから、宿主の証拠である〝蜂巣状の模様〟については、知るはずもない。これ見よがしに両手の爪の証を見せ付けたところで、真意を伝えられまい。

「これからの将来が、不安だよ。どうやって新しい自分と向き合うか、自信がないぜ」

 デミルコルは、天城の言をはったりだと解釈したのか、いよいよ嗜虐(しぎゃく)的な表情を深めた。

「お前の言う〝将来〟は、せいぜい数分だ。残りの人生を、どう過ごす気だ?」

「本当に数分しか残されていないなら、それを有効に使うとしよう」

 天城は、デミルコルに対して、ファイティング・ポーズを示し、臨戦体勢を採った。

 まだ、天城の体が動けるうちは、デミルコルは、本格的に攻撃を仕掛けてはこない、と天城は踏んだ。天城の発症まで数分と見て、のらりくらりと攻撃を(かわ)す行動に出るはずだ。

 それで、天城が戦いの最中で発症して異常を(きた)した後に、じんわりと(なぶ)るように仕留めに掛かる。それが、この男の卑怯(ひきょう)な遣り口だ。

 デミルコルは、天城の動きに恐れをなした態で、滑稽(こっけい)に肩を竦めた。時間稼ぎの意図が明らかだった。自ら攻撃をする気配もない。

 天城は、ちらっと周囲を見渡し、現状打破の方法を探った。

 倉庫中央辺りに横たわる兵士の死体には、まだ肩に短機関銃が掛かっている模様だ。どうにか、死体に辿り着きたいところだが、距離がかなりある。ましてや、競走になると、背にするデミルコルのほうが近い分、勝敗は微妙となる。

 その他の方法を目で探っていると、デミルコルの背後の扉の一つに、動く白い影を見付けた。《AD》の残存兵力だとすると、極めて厄介な状況に陥る。いくら、新たな生命に目覚めたとしても、銃殺されてしまえば、元も子もない。

 だが、影は白衣姿に見え、物騒な気配は窺えなかった。デミルコルを援護すべく、すぐに攻撃を仕掛けてもこない。

 生き残った兵士ではなく研究者の一人だろうか。逃亡中に、戦闘場面に遭遇しただけの、運の悪い人間に見えなくもない。こちらに危害を加えないのであれば、捨て置いても問題あるまい。

 ところが、白い影は、天城の左右への動きと連動するかのように、じりじりと静かに近付いてきた。

 天城は、その影が、白衣を着たカリネだと、分かった。恐らく、タワーの大混乱に乗じて、捕まった天城の救出に現れたのだ。白衣は、警備を摺り抜けるために、どこかで調達したと推察できる。それなら、武器も調達、もしくは鹵獲(ろかく)できた可能性は高い。

 天城は、カリネの姿を見て、無事を安堵した。爆弾を爆破させた上に、天城の救出にも(あずか)るとは、頼もしい限りだ。どこか、一回りも二回りも、貫録が付いたように感じた。事件の解決という目的の達成が迫り、自信に(みなぎ)っているのだろう。

 天城は陽動の意味で、何度か、わざと弱々しい拳をデミルコルに(ふる)ってみせた。デミルコルは、天城の次第に弱まりつつある攻撃を見て、一層、ニヤニヤと笑みを絶やさない。

 天城の陽動もあって、カリネは、水面を滑るように一気に動いた。それで、戸惑い驚くデミルコルの前に立てた。

「貴様、どこから忍び寄ったのだ?」

「お願いだから、もう、私の邪魔はしないで」

 デミルコルが眉を歪めて、何かを口にしようとした。だが、それより速く、カリネの体が動き、デミルコルの側頭部を目掛けて、ハイキックを放った。風が真空を斬るように、鋭く裂けた感じがした。

 潜在的な運動神経の良さと、遺伝子操作の結果が凝集(ぎょうしゅう)したような、鮮やかな一撃だった。以前、《グリーンウッド・ホテル》で青シャツ男に放った蹴りとは、比べ物にならない強烈な威力があった。

 デミルコルは、そのまま吹き飛ばされて水面を飛び、そのまま動かなくなった。首があらぬ方向に向いて、即死していた。《AD》の領袖の呆気ない最期だった。

 雫の水面を叩く音だけが、心地よく天城の耳に届いた。全てに片が付いたと、全身が弛緩している。

 暴走した領袖が死んだとあっては、《AD》の立て直しも、難しかろう。これ幸い、とばかりに、トルコ軍によって、この地域をクルド人の手から奪還する動きも、あるかも知れない。

 (ねぎら)いの意味を込めて、天城は、カリネの背後から近付こうとした。

 だが、カリネは、落着した安堵の溜息を漏らすでもなかった。また、蹴殺(けころ)したデミルコルの(むくろ)をじっと見詰めるでもなく、その場から全く動こうとはしなかった。

「カリネ……。どうしたんだ?」

 天城は、カリネの異変に気付き、ゆっくりと声を掛けた。どうも、何かがおかしかった。また、発作が起こったのかと焦った。

 カリネは、天城の声にも反応せずに、息を乱して肩で呼吸を繰り返した。人を殺した罪悪感に苛まれているわけでも、なさそうだ。

「カリネ、体調でも悪いのかい?」

 天城が恐る恐る、再び声を掛け、肩に手を置こうとした。

「圭太サン、これで、全部が終わったなんて、思わないでね」

 返事の声は強かったが、普段のカリネと大差なく、発作のようには感じられなかった。だが、ゆっくりと振り返ったカリネは、まるで別人だった。

 全身から激しいオーラを放ち、顔は、夜叉(やしゃ)(めん)のように見えた。瞳は蛍光色の黄色に輝き、目が釣り上がっている。

 天城は、反射的に思わず後退(あとずさ)った。カリネの身に何があったのか?

「どうしたんだ、カリネ? いったい、何があった?」

「もう、うんざりだわ。管理される人生なんて、真っ平ご免よ」

 カリネは、高速で天城に接近し、重い拳を繰り出してきた。初めの二発目までは辛うじて避けられた。しかし、三発目の一撃が右腕を直撃した。

 骨が折れたかと思うほどの衝撃だった。腕が(きし)み、悲鳴を上げた。痛みと(しび)れが、指先から骨髄にまで達した。天城は、死を垣間見た。

 カリネは、指の関節をポキポキと鳴らして、次の一撃に備えた。

「《ノア》の共同墓地で、富樫さんとグルグの会話を聞いたわ。富樫さんがタテフの遺体に注入していた〝赤い粒〟を抜き取った時に、グルグに撃たれた、って」

 天城の想像は、残念ながら的中していた。

 富樫が、タテフの遺体を利用して〝ナックラヴィー〟を無事に手に入れようと謀った。だが、別働のグルグに、タテフから〝ナックラヴィー〟を抜き取るところを目撃されて、撃たれた。

 グルグには、実験体であれば〝赤い粒〟の体内培養が可能だと、見破られた。その結果、《AD》の方針が変わって、カリネは〝用済み〟になった。

 その時の二人の話を、カリネは耳にした。実験体として生きてきた自分ですら、〝用済み〟の宣告を受け、衝撃を隠せなかった。その結果、カリネは何を感じ、どう行動したのか……?

 カリネは、常に管理されて生きていく人生に嫌気が差した。《ノア》のために実験体となり、苦しく生かされてきた。盟友のタテフは、そのために死んだし、死んだ後にも利用された。今度は、培養体として求められたが、結局、用済みとなった。

 自分は何のために生きているのか、生かされているのか? これでは、実験用のマウスと何ら変わらない。もっと、自身の考えで生き、明確な目的を持って人生を送りたい。

「君には、まだ、これから素晴らしい人生が待ってるはずだ」

「そうかも知れない。でも、これは、私が唯一無二の存在になる最大のチャンスだと感じたわ。今までの人生と決別するためにもね。アンナさんも、〝自分を信じて生きて〟って遺言してたでしょ?」

 カリネは、〝ナックラヴィー〟が新しい自分を拓く鍵になると信じた。そこで、死んだ富樫の体に(すが)った際に、密かに密閉容器を掠め取った。

 その後のカヤの研究室で、巨人の体内では培養が可能だと知った。カリネは、《ノア》での〝CRISPR/Cas9〟の応用実験の結果、自分が巨人の生体に極めて近い存在だ、と確信していた。そのため、自らの体内に〝ナックラヴィー〟を注入しようと決意した。自らの新しい人生のために。

 その直後、カリネは、素早く注入を実行したのだろう。恐らく、富樫たちがファイルを見たり、議論を白熱させたりした一瞬の隙を突いて。

 カヤの研究所での激しい発作は、〝ナックラヴィー〟が体内で順応するために起こした一時的な拒絶反応だったのかも知れない。

「どうして俺を襲う? 俺が憎いのか?」

 カリネは、肩を(そび)やかして天城を睨み据えた。

「本当なら、こんなマネなんか、したくなかったわ。でも、圭太サン、あなたは〝巨人の末裔〟だったんでしょ? 注射されても、まだ、何ともないし、〝これからの将来〟が楽しみなのよね?」

 カリネは、先ほどの天城とデミルコルの遣り取りを聞いていた。天城は、〝ナックラヴィー〟を注入されて一定時間が経っても、痛みの一つも出ていない。更に〝これからの将来〟という天城の台詞からも、天城が〝巨人の末裔〟だ、と判断した。

「それは、俺自身も驚いている。だが、俺を襲う理由には、なってないぜ」

「甘いわね、圭太サン。そうなると、私と圭太サンには、決定的な違いがあるのよ」

 天城は、強靭性や瞬発力が思い浮かんだ。だが、カリネによれば、そうではなかった。

「私は、言わば〝造られた巨人〟。でも、圭太サンは、〝生き永らえた巨人〟よ。圭太サンに比べて、私のほうが、遥かに存在価値が低くなるの。そんなの、許せる?」

 言い終わらぬうちに、カリネは、一撃必殺の回し蹴りを放ってきた。だが、威嚇のつもりだったのか、天城の頭上を掠りもせずに、空を切った。

 カリネは、自身の体内で〝ナックラヴィー〟の培養を行い、誰かと売買するつもりなのかも知れない。テロリストか、どこかの国家かは不明だが。

 そのためにも、自分よりも存在価値の高い人間がいては、〝ライバル〟として都合が悪くなるわけか。確かに、〝生のナックラヴィー〟が存在する場所は、天城とカリネの体内だけだ。

「君が何を画策しているかは、知らない。でも、これは、〝ナックラヴィー〟を葬り去るチャンスなんだ。なのに、君は、それに逆行する愚を犯すのか?」

 カリネは、呆れ顔で肩を大袈裟に竦めた。

「今度は、私が悪いって、言いたいのね? そうやって、自分に都合の悪い出来事が起こるたびに、相手をやっつけようって考えは、よくないわ」

 天城は、カリネの思考に違和感を覚えた。本心かどうか、見極め難かった。

「そもそも、富樫さんが勧めなければ、私もタテフも、《ノア》に近付かなくて済んだのに。私たちが〝悪者〟に仕立てられたんだから」

「何も、君たちが悪いわけじゃない。悪いのは、あくまでも《ノア》と《AD》だ。君たちは、騙されただけさ。もちろん、先輩だって」

「悪人の富樫さんと会わなければ、私たちを地獄の苦しみから救ったアロヤンさんだって、死にはしなかったわ。富樫さんがいなければ、こんなおかしな人生には、ならなかった!」

 もう、理屈が破綻していた。潜在的な思考に不安定性が反映されている。

 後天的に〝CRISPR/Cas9〟の応用技術を施された体に対して、〝ナックラヴィー〟が奇妙な形で副作用を起こしたと推察できた。デミルコルを自らが直接、(あや)めたために、顕現したと見るべきか。

「圭太サン、あなたも富樫さんと同じ、日本人でしょ? この責任は、どうとってくれるのかしら? 日本人には、ハラキリのマナーがあるのよね? できないなら、私が代わって、フォンさんみたいに、処刑()て上げてもいいのよ」

 天城は、カリネの信じられぬ発言に、強く発色する黄色い瞳を覗き込んだ。

「カリネ、君が……、フォンをやったのか?」

「そうよ。尾根伝いに別れた後で、後ろから回り込んで突き落としてやったわ。罪人の富樫さんの元恋人だし、何と言っても、フォンさんだって、私と同じような巨人の資格があったんだから」

 カリネは、自分と〝同等〟の実験体であるフォンを、今後、邪魔になると判断し、計画的に排除していた。しかも、〝富樫の元恋人〟という理由まで附加されていたとは……。

 衝撃的な発言に、天城は、大いに戸惑った。と同時に、哀しみと怒りも、込み上がる。

 天城の心の衝撃を表すかのように、遠くで、近くで、爆発音が聞こえた。まだ、誘爆が収まっていない場所もあるようだ。

 カリネは、デミルコルの時と同じようには一気に斃そうとせず、じりじりと動き出した。夜叉の面が細かに(ふる)えを覗かせる。狂気と興奮に我を忘れているように思えた。

 天城は、恐怖に打ちのめされそうになりながらも、適切な対処方法を考えた。

 カリネは、どうしても生かしたい。今は、不安定性が優越しているが、落ち着けば元に戻ると信じたい。ここまで共に歩んできた仲間を、自らの手で斃すわけにはいかなかった。

だが、天城の考えも空しく、カリネは鋭い視線のまま、更に間合いを詰めてくる。

「もう、止めようぜ、カリネ。……こんなの、間違ってる」

「その通りよ。あなたと私が一緒に生き残っているなんて、間違ってるわ。一撃で仕留めてあげるから、心配しないで」

 カリネの体が大きく動いた。獲物を狩るハンターの目付きが、一層黄色く輝いた。足許の水を蹴立てて、逃げる天城を追い詰める。

 かつてない緊迫に、天城の鼓動がのた打ち回る。カリネのほうが、天城の全身体能力を上回っている。まだ、天城は、〝巨人の資質〟を上手に使いこなせていない感じがした。

しかし、天城の一瞬の思考の隙を突かれ、カリネに懐に入り込まれた。

 次の瞬間、強烈な掌底(しょうてい)突きが天城の喉元を襲った。銃で喉を撃たれたような激痛に顎が上がり、数メートルを吹き飛ばされた。水の床に叩き付けられた体が、バウンドして、ようやく止まった。

 カリネの攻撃は、まだ続いた。横たわった天城に走り寄り、胸元を蹴り上げた。激痛が全身に広がり、肋骨(あばらぼね)を何本か折られた感覚だった。口から血が溢れ出したが、どうにか、言葉を発せられた。

「……一撃で仕留めるって……言っただろ……嘘は駄目だ」

 天城は、この期に及んでも、カリネを救えないかと、考えていた。富樫の推薦でカリネが不幸になったのなら、同じ日本人として、富樫の後輩として、救える命を無駄にしたくはなかった。

 だが、カリネは、天城の気持ちを()もうとはしない。

「分かったわ、圭太サン。今度は、確実に、一撃よ。……ごめんね」

 天城は、頭部を狙うカリネの遠慮のない殺気に、万策尽きて、死を覚悟した。様々な後悔が波の如く押し寄せる中、目を(つぶ)る。

 その時、ドーム状の天井に何発もの銃声が響き渡った。

 カリネの体が崩れていき、天城の隣に前のめりに倒れた。白衣を朱に染めて。

 カリネの背後には、フォンが短機関銃を構えて立ち竦んでいた。部屋の中央辺りで事切れていた《AD》の兵士の死体から奪ったものだった。

 天城は、またしても死神の鎌を、何とか振り払えた。体が脱力して、ほとんど動けない。

「間に合ったね、ケイタ。最悪の事態は、免れたわ」

 フォンを見遣ると、足を引き摺って、体中から出血していた。特に、右肩から腕に掛けてと、右腿(もも)全体の衣服が裂かれたようにボロボロだった。カリネに谷に突き落とされたにも拘わらず、駆け付けてくれたお蔭で、天城は、命拾いした。

「立てそうにないね。……どうやら、全部、終わったみたいだけど」

 フォンは、部屋の情況とデミルコルの死体を見比べて、呟いた。

「どうにか、済みましたよ。個人的な問題が発生しましたけどね。フォンは大丈夫で……」

 天城がフォンの肩を借りて立ち上がると、奥の部屋から爆発音が聞こえた。詳しい事情を説明している(いとま)はなかった。

「逃げるくらいの元気は、あるよね? 死にたくないでしょ?」

「やってみます。将来が楽しみなんで」

 胸と顎が痛みに耐えられそうもなかったが、ここは、走る他ない。

 天城は、フォンと二人三脚のように、互いを支え合って走り続けた。背後からの誘爆の恐怖と戦いながら、いくつもの溺死体が横たわる通路を地上へと向かった。

 走っていると、何度も足許が揺れた。爆発は、タワーだけでなく、タワーの建つ軟弱地盤にも、少なからぬ悪影響を与えたようだ。サイトA全体も、長くはないかも知れない。

 互いに励まし合って、傾いてきたタワーの地上階に、二人が出たのは、二十分ほど経った頃だった。

 タワーの周囲には、呆然自失とタワーを見上げる白衣姿の研究者や発掘に携わった人夫が、数人ほどいるだけだった。だが、誰も、天城とフォンを見咎める者はいない。

 傾いたタワーは、無残にも各所に(ひび)が入り、割れているガラスもあった。入る前の巍然とした威厳は、全くなかった。

 二人は、泥だらけの青芝を横切って、ほぼ円形の糸杉池畔を回り込んでいった。池水は既にほとんどなく、縁から土砂が崩れていく様子が見て取れた。軟弱地盤が手に取るように窺える。

「哀れなものね。ここも終わりよ」

 フォンと糸杉池の成れの果てをうち眺めていると、天城の視線の先に、奇妙な物体が捉えられた。池の底付近に、黒く角張った、百メートルを超える巨大な残骸が打ち棄てられたかのように横たわっている。

「何ですかね? 堆積物でしょうけど。まるで、大きな巨人の(ひつぎ)……」

 天城は口籠って、フォンを見詰めた。「まさか……」と乗り出すように足を止めて、池底の残骸をじっくりと覗き見る。

 朽ち果てているというよりは、その時をひっそりと待っていたような印象を受けた。太い何本もの頑丈そうな木材がしっかりと組まれ、この池の名である〝糸杉池〟の語源を見た気がした。

 ――糸杉で建造されたノアの方舟。

 アララト山に漂着したとされる神話に基づく残骸探索は、今世紀に入っても続けられている。

 古代の歴史家の記述やマルコ・ポーロの言及、帝政ロシアの探検隊なども、方舟発見の報を残している。第二次大戦後にも数々の研究チームやトルコ空軍、人工衛星からの探索も行われているが、決定的な発見には至っていない。

 著名な《ノアの箱舟国立公園》内にある〝デュルピナー・サイト〟と呼ばれる巨大な船舶に似た地形も、完全に自然地形だと調査結果が出ているほどだ。

「ここに眠っていたとはね。水没していたために、腐らずにくっきりと残っているわ」

 フォンが感心したように、腕を組んだ。確実な証拠を、(まぶた)に焼き付けている感じだった。

 天城も呆然と、驚きを隠せずに、目前の光景を見続けた。だが、衝撃的な真実に、複雑な思いが首を(もた)げる。

「でも、方舟の行方を発表すると、自ずと、サイトAの秘密も露見しますよ」

 フォンが天城の思いを汲んで、肩を竦めた。

「致し方ないわよね。これで、タワーごと、葬り去りましょうよ」

 フォンは、背負ったバッグを顎で示した。

 作戦の途中で突き落とされたために、まだプラスチック爆弾は、使われていなかった。これだけの量があれば、軟弱地盤ごと池やタワーを崩壊させるには充分だ。

 フォンは、遠隔爆破装置を取り出すと、池の底へバッグをぽーんと(ほう)り投げた。

「ジャーナリストとしては、口惜しい限りね」

「でも、人としては、(まっと)うな選択ですよ」

 天城とフォンは、池畔を離れ、サイトAを見下ろせる丘の上に戻った。そこで、全てに決着するために、二人で、遠隔爆破のボタンを押した。多くの人々の鎮魂の意味を込めて。特に、一緒に大スクープを挙げるという夢の潰えた、富樫の顔を思い返しながら。

 地響きが辺りを覆い、池の底が割れるように崩れ始めた。方舟の残骸を包み込むように、大きな土煙が上がっていく。

 更に連動するように、タワー周辺の土地にも揺れが及んだ。タワーが池の底へ向けて、一層、傾き出した。

 次第に揺れも大きくなっていった。糸杉池や谷口、発掘現場や懸崖、生き残った《AD》の面々をも飲み込んで、地層全体が崩れていく。サイトAの最期だった。

「ここも危険ですね。行きましょうか」

 天城は、様々な思いをこの場に置いて、くるっと背を向けた。それが、明日からの新しい自分のスタートに相応(ふさわ)しいと信じて。



 終 章 巨人の行方

 天城とフォンは、凱旋(がいせん)したアンタキヤの町で、しばらく静養に励んだ。カヤが全面的にバックアップをしてくれたお蔭で、不自由なく回復に専念できた。

 それでも、カリネに蹴られた天城の肋骨は、四本が骨折、三本にもダメージが残った。内臓へのダメージも想像以上に深刻で、全治には集中治療室での加療で、半年近く掛かるだろうと診断された。

 しかし、医者の見立て以上に、天城の回復は、異様に早かった。半年どころか、一月程度で、一般病棟へと移されるほどに。

 医者は、奇跡だと絶賛していた。それでも、実は〝巨人の資質〟が功を奏した結果だと、天城は感じていた。しかも、〝ナックラヴィー〟との相互作用も、大きく反映しているのだろう。

 特に、具体的に治癒力の向上を実感したわけではない。体内で〝別の生き物〟の蠢動(しゅんどう)を感知してもいない。また、人格が変わったとか、性癖が改まったとか、精神面の変化も、感じられなかった。

 だが、確実に、細胞が目覚めた感触は、あった。ある意味、清々(すがすが)しく、今まで経験のない爽快感に満たされていた。

〝赤い粒〟の宿主内の安定増殖が、巨人のパワー・アップを促すのではという、マクラウドの予測を、身を以て証明したようなものだった。

 十月に入ったある日、天城も、退院の運びとなった。半年を待たなかったが、それでも、ようやくの感が否めなかった。

 病院には、一足早く退院したフォンが迎えに来てくれた。フォンの腕や腿の傷は、ほとんど治っていた。だが、歩くとまだ少しだけ痛みがある、と肩を竦めた。

「久し振りの外界は、どうかしら?」

「ようやく生き返った、って感覚ですね。……でも、自分が普通の生活ができるのか、ちょっとまだ不安ですけど」

「早速で悪いけど、カヤさんが、どうしても快気祝いをするっていうから、辛抱してよね」

 フォンは、どことなく意味ありげに微笑んで、天城を車に誘った。

 資料館脇の公園は、秋が色濃く深まりつつあった。乾いた風に吹かれた落ち葉を集めて、閑散としている。

「おお、英雄の生還だ。待っておったぞ」

 公園の駐車場まで出向いたカヤは、元気になった天城を、暖かいハグで歓迎した。相変わらずのダブダブの白衣に、大きな黒縁の眼鏡が似合わない。

 カヤは、「スープが冷めるから、早く中に入れ」と()かした。だが、天城は、我儘(わがまま)を言って、少しだけ、娑婆(しゃば)の空気を吸いたいと、公園のベンチに腰を下ろした。

 実際は、快気祝いが照れ臭かった。それに、やっと生きて戻れた実感を、もう少し肌で確認したかった。

 カヤは、自分もベンチに座って、ベッドの上から生還した天城を、満足そうにじっくりと見た。

「これから、どう生きていくつもりだ?」

 サイトAでのありのままを、フォンから報告されていたカヤは、天城の重傷だった体よりも、これからの人生のほうを心配した。

 重傷の体を早く(いや)したように、〝巨人の資質〟には、未知なる領域が隠されているはずだ。今回のように、いい結果ばかりに転がるとは断定できまい。

「色々と、予測できない事態も起こるでしょうね。でも、それも含めての新しい自分ですから。ぼちぼちと向き合っていきますよ」

「まさか、体が大きくなるなんてオチは、ないでしょうけど。瞬発力や持久力に、変化が見られるかもよ。〝赤い粒〟の影響でね」

 天城のすぐ隣に座ったフォンも、興味深そうに、天城をまじまじと見詰めた。

「俺の体も不安ですけど、これからの中東情勢のほうも、気になります。首魁が死んで、《AD》は、どうなりますかね?」

 天城は、カヤに向かい、訊ねた。病室では、ほぼ外界からの情報が入ってこなかった。命を()して戦った結果が、更に渾沌(こんとん)と矛盾に満ちた世界に陥ったら、話にならない。

「これまでの危険な《AD》は、もうおしまいだろうな。あの後、《AD》内の穏健派が主導権を握ったらしいから。もしかしたら、PKKと同じように、解散を言い始めるかも知れん」

 かつては、IS(イスラム国)の盛衰で、クルドの立場もくるくると変わった。周辺諸国は、過激な武装勢力に対しては、一層の厳しい対応を迫るだろう。もう、武装闘争なんて、古臭い遺物なのかも知れないと、天城は思った。

「これからは、単独で物騒な事件を起こすよりも、より平和的な解決方法を選択していくようね。国連に対しては、PKKに倣って、今まで以上に、トルコ政府の圧迫政策に異議を唱えていくみたい」

 フォンは、昔からの情報筋やネットを駆使して、少しでも多くの情報を得ようと試みていた。体力的なハンデは、まだあったが、ジャーナリストの面目(めんもく)躍如(やくじょ)といったところか。

 天城は、カリネの最期の顔を思い出しながら、訊ねた。

「アルメニアの動きも、しばらくはないんでしょう?」

「《ノア》の壊滅で、結果的に〝軍隊の強壮計画〟も頓挫(とんざ)した形よね。一方で、ナゴルノ・カラバフでの紛争に敗れた後から、ロシア離れが急速に進んでいるでしょ? ロシアは脅しを懸けているようだけど、アルメニアは、どんどん西側に接近しているわ。今は、大人しくしつつ、政治情勢を見極めているってところかしら」

 富樫やマクラウドの望んだ、《AD》の悪行の世間への公表、とはいかなかった。だが、各方面にいい影響が出てきたようで、自分たちのやってきた努力に、天城は満足した。

 それよりも、最大の懸案である〝ナックラヴィー〟の行く末についてを、天城は一番気にしていた。

現状、詳細を知る者は、天城・フォン・カヤ以外には、いなくなったといっていい。サイトAから逃亡できた研究者でも、あまりにも短時間かつ急激に水没となったため、〝現物〟を持ち出せた者は、いないはずだ。

「ここの研究所に残っていた〝ナックラヴィー〟は、全て廃棄されたんでしょう?」

「淡水で浄化して、死滅を確認したよ。それに、マクラウドの遺したデータも纏めて廃棄しておいた。そこら辺の心配は要らん」

「将来的に、サイトAを掘り起こすような人たちがいなければいいんですけどね」

「今回の崩落事故で命を落とした遺族たちが、遺体の捜索をするかも知れん。でも仮に、〝ナックラヴィー〟が見付かっても、培養方法が不明なままなら、問題ないだろ?」

 カヤは、呵々(かか)と笑って気にも留めていない様子だった。

 実際に、今回の崩落事故は、世間で注目される機会は、全くなかった。糸杉池を含むサイトAの崩落事故は、トルコのマスコミにも、ほとんど報じられなかったせいだ。

 ただ、小さな新聞記事などで、「元々が軟弱地盤の地層だったが、それが、何らかの契機(例えば地震や自然崩落)で崩れ去った。しばらくは地層の崩壊が続く可能性も高いから、周辺には近付かないように」と伝えた程度だった。五年前の雪崩事故との関連にも触れない始末だ。

トルコ政府としては、武装勢力下の微妙な地域での事故だったため、詳細を確認せずに、切り捨てたのかも知れない。

 糸杉池の底に横たわっていたノアの方舟と思しき残骸も、天城とフォンの記憶の中だけにしか、残らなかった。

〝ノア=巨人説〟の立証はおろか、巨人の存在自体も綺麗さっぱり闇の中に吸い込まれて、何事もなかったかのように消え失せた。

 仮に、どこかでまた、〝巨人の遺物〟が発掘されようものなら、世間は面白がって、今まで通り、オーパーツを説くだろう。

〝これでよかった〟という気持ちと、〝これでいいのか〟という思いが、ジャーナリストとしての天城の心中で、葛藤(かっとう)を繰り返した。

 ただ、一つだけ、天城の巨人のイメージは、大きく変わった。人を喰らう怖ろしい存在ではなく、人類の狭間で遠慮深くタフに生き続ける存在に。

〝巨人の末裔〟という肩書は、これから天城を大きく変えていくだろう。だが、それは、ある種の優越感にまで高められるはずだ。

「何かあったら、連絡してね。すぐ、助太刀(すけだち)に行ってあげる」

 フォンは、やけに優しく告げると、すっくと立ち上がって、手を差し出した。

「スープが冷めちゃったわよ。行こ」

(わし)が腕に()りを掛けて作った地元の郷土料理だ。味は保証するぞ」

 天城は、二人に勧められるまま、席を立った。帰国してからの言い訳や富樫についての上司への報告方法など、まだまだ問題は山積していた。

 だが、アンタキヤにいる間は、それらの諸問題を棚上げにして、命の礼讃(らいさん)と事態解決の喜びを噛み締めようと思った。

 天城は、深まりゆく秋の空を顧みて、小さく日本語で呟いた。

「さようなら、富樫先輩。それと、こんにちは、未知なる巨人」

 巨人の気配をどこかに隠して、(あお)く透き通る空は、限りなく高かった。


                           了



最後までご覧頂きまして、ありがとうございました。次回作も、お楽しみに。

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