第一話「魔法が効かない谷で、一番頼りになるのは経験だった」
目を開けると、見知らぬ森の中にいた。
ついさっきまで、自分は猛吹雪の中、客を岩陰に押し込んでいたはずだった。
黒崎涼介、三十二歳。元自衛隊出身、現在は山岳ガイド会社の専属スタッフ。
人を安全に山へ連れて行き、安全に連れて帰る。それだけの仕事だが、簡単だと思ったことは一度もない。
自然は、こちらの予定など考慮してくれない。
だからこそ、常に最悪を想定しておく――それが、十年以上この仕事を続けてきて、涼介が身につけた唯一の信条だった。
数十分前――。
その日は、登山経験の浅い客を連れて、初級者向けの稜線を案内していた。
天気予報では晴れのはずだった。
「黒崎さん、なんか空、変じゃないですか……?」
客の声に顔を上げた瞬間、視界が真っ白に染まった。
季節外れの、それも前触れのない猛烈な吹雪だった。
風が一気に強さを増し、視界は数メートルも保たない。
涼介は反射的に、客の腕を掴んで岩陰へ押し込んだ。
「動くな! ここでビバークする! 落ち着いて、俺の指示だけ聞いてくれ!」
訓練された声で、迷いのない指示を出す。
こういう瞬間のために、何度も訓練を重ねてきた。パニックになるのは一番まずい。
まず体を低くし、風を遮る場所を確保する。それだけで生存率は大きく変わる。
ザックからシートを引っぱり出し、風を遮る体勢を整えようとした、その時。
足元の感覚が、ふっと消えた。
雪の音も、風の音も、客の声も、すべてが一瞬で引き剥がされるように消えていった。
そして、気づけば、この見知らぬ森の中にいた。
風は冷たいが、先程までの吹雪ではない。
木々は見たこともない種類で、葉の形も色も馴染みがない。
空の色も、どこか薄く青みが強かった。
「……は?」
声に出してみても、状況は変わらない。
涼介は反射的に状況確認に入った。客はいない。自分一人。
装備は身につけたまま。ザックも腰のベルトも無事。怪我もない。
パニックになる暇はなかった。山で何度も叩き込まれた手順が、勝手に体を動かす。
まず現在地の把握。次に水場の有無。日没までの時間。体力と装備の消耗を抑えること。
それさえ守れば、たとえどこにいても、すぐには死なない。
「……とりあえず、生きてることだけは確かか」
涼介は腰のナイフを確認し、周囲を観察しながら、慎重に歩き出した。
地面の状態、風の流れ、生き物の気配。すべてを拾いながら進む。
三十分ほど歩いたところで、悲鳴と、何か大きなものが地面を踏む音が聞こえた。
音のする方へ姿勢を低くして近づくと、開けた窪地に、若い男女四人組がいた。
揃って妙な格好をしている。ローブ、剣、杖――まるでファンタジー映画から飛び出してきたような恰好だった。
その正面には、体高が人の腰ほどもある、灰色の獣がいた。低く唸りながら、四人との距離を詰めている。
一人が足をひどく負傷し、地面に座り込んでいる。残りの三人は、獣に向かって杖を構えているが、何も起きない。
「なんで……! 全然、魔法が出ない……!」
「ここ、本当に『枯れ谷』なのか?! 噂は本当だったのか……!」
涼介には、彼らの言う「魔法」が何なのか分からなかった。
だが、負傷者がいて、危険な獣がいて、パニック状態の集団がいる、という状況そのものは、嫌になるほど見慣れていた。要素を分解すれば、対処は単純だ。
近くに転がっていた太い枝を素早く掴み、涼介は窪地に踏み込んだ。
「動くな、声を出すな! そっちの三人、その場で姿勢を低く!」
獣がこちらに視線を向けた瞬間、涼介は枝を地面に強く叩きつけ、大きな音を立てた。
獣が一瞬たじろぐ。怒らせず、しかし警戒を逸らす――野生動物との距離感は、山で何度も学んできた。
獣はうなり声を上げながらも、二度ほど枝を打ちつけられたところで、根負けしたように森の奥へ走り去っていった。
静寂が戻ったあと、涼介はすぐに負傷者のもとへ膝をついた。
「そこの怪我してる人、動かすな。下手に動かすと出血が悪化する」
「あ、あなた、何者……」
「説明は後だ。今は止血が先」
ザックから救急セットを取り出し、手早く処置を始める。
傷口の確認、圧迫止血、固定。慣れた手つきに、四人は呆然と見ているしかなかった。
処置を終えた頃、リーダーらしき青年が、震える声で尋ねた。
「あなた、魔法を使わずに、よくこんな冷静に……ここ、魔力が一切効かない『枯れ谷』なんですよ。僕らみたいな冒険者は、ここに入ると本当に何もできなくなる」
「魔法ってのは、よく分からん。だが、俺はそもそも、それに頼ったことが一度もないからな」
涼介は止血した足に布を巻きながら、淡々と答えた。
リーダーは、信じられないものを見るような目で涼介を見た。
「……まさか、あなた、異世界から来た人ですか? たまに、こういう枯れ谷に迷い込んでくると聞いたことはありますが」
「異世界……? いや、俺は山で吹雪に遭って」
言いながらも、涼介自身、自分の言葉に説得力がないことは分かっていた。
見たこともない木々、効かない「魔法」、人の腰ほどもある獣。すべてが、自分の知る世界とは食い違っている。
「やっぱりだ! 各地の冒険者ギルドが、ずっとあなたみたいな人を探してるんです。魔法に頼らずに動ける人間は、この大陸でも、ほんの一握りしかいない」
「とりあえず質問は後にしてもらえるか。日没まで、あと三時間もない。この場所から、安全な場所まで動けるか?」
「動けるか分かりません……ここに来てから、方向すら分からなくなって」
涼介は短く頷くと、足跡や木々の倒れ方、風の通り道を確認しながら、来た方向とは違う、わずかに高い地形を指差した。
「あっちに登れば、視界が開くはずだ。日が落ちる前に、できるだけ高所まで移動する。怪我人は俺が支える。歩ける奴は俺の後ろを離れずについてこい」
迷いのない指示に、四人は互いを見合わせたあと、無言で頷いた。
森を抜け、なだらかな斜面を登りきった頃、ようやく視界が開けた。
眼下には見たこともない山脈が連なり、遠くにはわずかに灯りらしきものも見える。
「あの灯りの方向に、村か町があるはずだ。今日はもう無理だが、明日の朝には動けるだろう」
リーダーの青年が、ようやく落ち着いた声で言った。
「……本当に、助かりました。あなたがいなければ、僕たち、今日でここから出られなかったと思います」
その夜は、見晴らしの良い岩場で野営することになった。
涼介は手早く風除けを組み、火を起こす。マッチもライターも使わず、乾いた枝と火打石代わりの石を使う手際に、四人はまたしても驚いた様子だった。
「あの、まだ名乗っていませんでした。僕はアレン。こっちは妹のミラ、そっちがガロ、彼女がフィーナです」
「黒崎涼介だ」
短く答えると、涼介は焚き火に枝を足した。
アレンが、おそるおそる尋ねる。
「黒崎さんは、本当に魔法を使わずに生きてきたんですか? 戦闘も、移動も、生活も、全部?」
「全部とは言わないが、少なくとも魔法に頼った経験はない。代わりに、体と道具と、判断力でなんとかする」
「……すごい。僕らは小さい頃から、何でも魔力で解決してきました。火を起こすのも、傷を治すのも、見張りをするのも。だから今日みたいに魔法が効かなくなると、本当に何もできなくなるんです」
ミラが、まだ動揺の残る声で続けた。
「枯れ谷に入るなんて、本当は無謀だったんです。でも依頼の報酬が良くて……」
「依頼の内容は?」
「この先にある遺跡から、古い記録を持ち帰ること。魔導院からの依頼でした」
涼介は焚き火を見つめながら、その情報を頭の中に留めておいた。
今すぐ必要な知識ではないが、無駄になることはないだろう。経験上、そういうものだ。
「明日、町まで送る。そこから先は、お前らで何とかしてくれ。俺も、自分がどこに来たのか、誰かに聞かないと分からないことが多すぎる」
「町に着いたら、ぜひギルドに顔を出してください。あなたの話を聞いたら、ギルド長が絶対に放っておかないと思います」
涼介は、特に否定もせず、小さく頷くだけにした。
今はまだ、この世界がどういう場所なのか、判断する材料が足りない。焦って動くより、まず情報を集める。それも、山で学んだことの一つだった。
火を見つめながら、涼介はふと考える。
元の世界には、もう帰れないかもしれない。だが今はそれを悩んでいる時間が惜しい。
今夜を無事に越えること、明日、四人を町まで送り届けること。優先順位は、いつだってはっきりしている。
翌朝、灯りが見えた方向へ歩き始めてから半日ほどで、ようやく町の外壁が見えてきた。
涼介は、手当てを終えた足を一瞥し、それから視線を上げた。
どうやら、しばらくは家に帰れそうにない。
ならば、できることをやるしかない。それだけは、元の世界でも、この世界でも変わらないはずだった。
「……とりあえず、お前らをここから連れ出す。それが先決だろ」
涼介の異世界での最初の仕事は、魔法が効かない谷からの脱出ガイドになった。
―― 第二話「冒険者ギルドは、魔力のない男に何を依頼するのか」へ続く ――
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