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9/14

八月・初旬

昼過ぎまでの補習が終わると、僕はそのまま帰宅がてら、京王堀之内へ向かった。


鞄の中には、教科書と参考書と、筆箱と、スティックケースが刺さっている。

男子高校生の鞄として、方向性がだいぶ分からなくなってきた。


京王堀之内の駅を出ると、八月の日差しが少し傾き始めていた。

まだ十四時前だから、夕方というには早すぎる。

でも、真昼の暑さの一番きついところは過ぎていて、駅前の道に落ちる影が少し長い。


畑中の実家のスタジオを越えて、駅のロータリーで降りる。

今日はスタジオ集合ではなかった。

駅前から少し歩いたところにある、小さなカフェである。

京子ちゃんが選んだ店らしい。


畑中が選ぶなら、たぶんスタジオの待合室か、スーパーの休憩スペースか、よく分からない喫茶店になる。

渉君が選ぶなら、電源とWi-Fiのあるチェーン店になりそうだ。

僕が選ぶなら、そもそもカフェという選択肢が出てこない。


つまり、ここは京子ちゃんのフィールドに属する店だった。


木の扉を開けると、冷房の空気と、コーヒーの匂いがした。

店内は広くはない。

でも、窓際に小さなテーブルがいくつかあって、壁には植物が飾られている。

黒板には手書きのメニューが書いてある。

ランチプレート、ケーキ、季節のソーダ。


僕は、少しだけ場違いな気がした。


すぐに京子ちゃんが手を上げた。

「持田先輩、こっちです」

奥の四人掛けのテーブルに、すでに三人が座っていた。


京子ちゃんと渉君は、向かい合う形で座っている。

テーブルの上には、やたらおしゃれなお盆が二つあった。


木の皿の上に、サラダと、雑穀っぽいご飯と、白いソースのかかった鶏肉のようなものが乗っている。

横には小さなカップに入ったスープもある。

僕の知っている昼食より、だいぶ情報量が多い。


京子ちゃんの横に座っている畑中は、アイスコーヒーを前に、少しだけむくれていた。


「遅かったね、持田君」

「補習が長引いた」

「追加の物理だっけ?」

「うん」

「物理って長引くんだ?」

「相対性理論は、物理だよね」


畑中は、アイスコーヒーのストローをくわえたまま、僕を見上げる。


「補習で相対性理論やったの?」

「やってない」

「じゃあ、ただの屁理屈じゃん」

「説明する気力がないんだ」


すると畑中は、少しだけ満足したようにストローを噛んだ。

僕が疲れているのは分かったらしい。


僕は空いていた渉君の隣の席に座って、畑中と京子ちゃんに向き合う。


京子ちゃんは、もうランチプレートを半分ほど食べ終えている。

渉君も同じような皿を前にして、普通にフォークを動かしていた。


「渉君、こういう店、平気なんだな」

僕が言うと、渉君は一瞬、何を訊かれたのか分からない顔をした。

「平気です」

「慣れてるの?」

「姉と妹が好きなので」

その答えだけで、かなりのものが説明されてしまった。

たしか御茶ノ水の時に、楽器屋でも姉妹に連れまわされている、みたいなことを言っていたような気がする。


「池田君、妹さんいるんだ?」

京子ちゃんが、納得したように言った。

京子ちゃんも、渉君がこういうおしゃれなランチプレートを前に違和感がないことが、不思議だったようだ。

「いる。姉貴もいる。上に兄貴もいるけど、そっちは歳が離れてるから、あまり一緒には出かけない」

「四人きょうだいなんだ?」

「うん。姉と妹に挟まれてる」


渉君は僕と畑中に向かって、

「こういう店、姉と妹に連れて行かれるんです。ランチプレートは、野菜を食べたと言い張れるので、妹が母親に説明しやすいらしいです」

と続けた。


「おしゃれの中に生活の理屈がある……」

畑中が、なぜか敗北したような顔をした。


僕は、その顔を見て少し笑いそうになった。


畑中は、ロックの話なら、大人の男みたいな顔をする。

アンプの前でも、ベースを構えている時でも、ライブハウスのステージの上でも、誰よりも堂々としている。


でも、木皿のランチプレートと、京子ちゃんの「このお店かわいいですよね」という顔の前では、戦闘力がガタ落ちするらしい。

もしかしたら畑中は、こういう普通の女子高生っぽいものに、少し弱いのかもしれない。


おまけに、今日の畑中は、いつものボーイフレンドジーンズに、上は本当にただの白いTシャツ、足元はなんと男物のサンダルだった。

相変わらず、ワードローブの貧弱さを誇っている。

極めつけには、今日は、ポニーテールどころか、ひっつめ髪ですらない。

前髪まで一緒に、頭のてっぺん辺りで極めて雑に縛っている。四角いフレームの眼鏡だから、その雑さが余計に目立つ。


畑中は今日は家……つまりスーパーとスタジオの裏から直接来たはずだから、完全に徒歩生活圏にあるこの店は、『カフェ』とはいえど、そういう格好なのは当然かもしれない。


それにしても、だ。


「女子高生がおしゃれなカフェにいる」が一目で分かる京子ちゃんとは対照的に、畑中は、全然女子高生らしくなかった。

でも、それは、なんだか悪くなかった。


「持田君、笑ってる?」

畑中が言った。

「笑ってない」

「絶対笑ってる」

「畑中がランチプレートに負けてるなと思っただけ」

「負けてないでしょ」

「じゃあ、頼めばいいだろ」

「もうアイスコーヒー頼んだよ」

「負けてる」

「負けてない!」

京子ちゃんが、くすっと笑った。


渉君は、フォークを置いてから言った。

「アキラさんは、次来た時頼めばいいんじゃないかな」

「えーと、ここ次があるの?」

畑中がちょっと顔をしかめる。やっぱり、こういう空間にかなりの苦手意識があるようだ。

「美土里さんが気に入ってるなら、あるんじゃないかな」


京子ちゃんは少し照れたように笑った。

「部室だと、なんか、部活の歌詞って感じになっちゃうかなと思って」


そう言って、京子ちゃんは足元の鞄からノートを取り出した。

「でも、これは、私が書いた歌詞なので」

その言い方で、空気が少し変わった。


カフェの中には、他の客もいる。

近くの席では、母親らしい人と小さい子がジュースを飲んでいる。

奥の席では、大学生かもしれない人が本を読んでいる。


だから、大声で話す感じではない。

それでも、テーブルの上にノートが置かれると、その小さな紙の束が重くなる。

「詞先、です」

京子ちゃんが言った。ノートを広げる。


前に渉君が言っていた。

歌詞が先にあって、それに曲をつける作り方。


これまで京子ちゃんは、渉君が作った仮詞を少しずつ自分の言葉に置き換えていた。

だから、完全に何もないところから書いてきたのは、これが初めてだった。


「先に、池田君には見てもらいました」

京子ちゃんが言う。


京子ちゃんのノートには、赤ペンで直した跡がある。

机の上のランチプレートを避けて、僕と畑中側に置かれた渉君のいつもの小さいノートパソコンには、作曲ソフトの画面が開いてコードネームらしきものが並んでいる。

それ以外にはまだ何も入力されていないようだったので、最初の雰囲気を京子ちゃんに聴かせるために作ったものかもしれない。

だからこれは、デートというより、打ち合わせに近く見えるんだけど……それにしても、おしゃれなランチプレートの隣である。


京子ちゃんと渉君の距離感は、少し不思議ではある。

こんなおしゃれなカフェで、二人でランチプレートを食べて、ノートとノートパソコンを広げて、歌詞とコードの話をしている。

傍目には、普通に仲のいい高校生男女に見えるだろう。


でも、全く色っぽくはない。

歌詞のノートはともかく、デート中にノートパソコンを広げる男子高校生はあまりいないだろう。

だから、何といえばいいのか……『本気』という感じを受ける。




「読んでいい?」

畑中が訊いた。

「はい」

京子ちゃんがうなずく。

渉君はまた食べ始めた。たぶん、もう何度か読んでいるのだと思う。


畑中はノートを受け取った。

そして、指を走らせながら最初の数行を読んだところで、一度だけ指を止めた。


それから、僕の方を見なかった。

京子ちゃんの方も見なかった。


ただ、ノートに視線を戻して、先へ進んだ。

見なかったことが、かえって何かを意味している気がした。


畑中は、最後の行まで読んだ。

途中で何かを言いかけたように唇が動いたけれど、結局何も言わなかった。

最後まで読んで、少しだけ息を吐いた。


それから、ノートから顔を上げて、向かいの席の僕に、その開いたままのノートを寄こす。


僕も、京子ちゃんに目で確認を取ってから、ノートの文字を追った。


春とか、制服とか、帰り道とか。

そういう言葉は、これまで京子ちゃんが書いていたものにもあった。


でも、今回は少し違った。


近くにいる人。

自分の声を、ちゃんと聴いてくれる人。

だけど、その人が本当に聴いている音は、別の場所にある。

その人の隣には、もう誰かがいる。


そういうことが、直接そう書かれているわけではないのに、分かる。

分かる、気がする。

いや、分かってはいけない気もする。


僕は、自分のことを歌詞の中に見つける、という経験をしたことがない。

そんな経験をしている高校一年生は、普通あまりいないだろう。

少なくとも、僕の周囲にはいない。


僕はもう一度、ノートを見た。


近くにいるのに、手を伸ばさない人。

声を受け止めてくれるけれど、別の音をずっと追いかけている人。

最後には、ステージの上から手を振って、別の道へ行く人。


そこまで読んで、ようやく分かった。

これは、たぶん、僕のことだ。

少なくとも、京子ちゃんが見ていた僕のことだ。


僕は何か言うべきなのかもしれない、と思った。

でも、何を言えばいいのか分からなかった。


ごめん、と言えばいいのか。

ありがとう、と言えばいいのか。

違う、と言えばいいのか。


どれも違った。

どれを言っても、京子ちゃんがせっかく歌詞にしたものを、ただの告白か、ただの失恋にしてしまう気がした。


だから、黙った。

黙って、ノートを開いたまま畑中に返す。




畑中は、怒っている顔ではなかった。

笑っている顔でもなかった。


赤い金属フレームの眼鏡越しに、京子ちゃんを、じっと見ている。

「……京子ちゃん」

「はい」

京子ちゃんの背筋が、少し伸びる。

畑中は、ノートを両手で持ったまま、少しだけ間を置いた。


いつもの「かわいい」でも、「いいじゃん」でもない。

声が、ほんの少し低かった。


カフェの他の席に届かないくらいの声で、畑中は言った。

「これ、終わる歌なんだね」


テーブルの上が、少し静かになった。

本当は、店内には音楽が流れている。

グラスの氷が鳴る音もする。

誰かが扉を開けて、入口のベルも鳴った。


でも、僕たちの空間は、独立していた。


京子ちゃんは、すぐには答えなかった。

それから、小さく息を吸った。

「……終わる歌に、なってますか」

畑中は、すぐにうなずいた。

「なってる」

短い返事だった。


京子ちゃんは、自分のノートを見た。

自分が書いた字を確認するように。

「よかった」

小さな声だった。

畑中は、少しだけ眉を寄せた。

「よかった、なの?」

「はい」

京子ちゃんはうなずいた。


「だって、このバンドは、文化祭までですよね?」

その京子ちゃんの確認するような言葉に、畑中が、ぐっと詰まった。

本当に、喉の奥で何かが止まったみたいだった。


僕は畑中を見た。


七月の終わり、畑中は僕に言った。

このバンドは文化祭までだと思う、と。


京子ちゃんと渉君を、ちゃんとステージに載せる。

そこまではやる。

でも、その後もこの形で続けるのは違う。

僕は、それを聞いている。


畑中は、たぶん、そのうちちゃんと、一年生二人にも言うつもりだったのだと思う。

自分が言い出した。

ポップでキッチュでキュートなラブソングをやろうと言った。

チラシを書いた。

京子ちゃんを歌わせた。

渉君の曲を面白がった。


だから、終わらせるなら、自分の口で説明しなければならない。

畑中は、そういうことを考える人だ。


でも、その言葉は、畑中から出る前に、京子ちゃんから出た。





――だって、このバンドは、文化祭までですよね?


畑中は、少しの間、何も言えなかった。

その顔を見て、京子ちゃんも何かに気づいたようだった。

でも、言葉を引っ込めなかった。


渉君も、黙っていた。

たぶん、渉君も分かっていた。


「……うん」

畑中は、ようやく言った。

「そう。文化祭まで」

声は、いつもの畑中より少し遅かった。


京子ちゃんは、静かにうなずいた。

「本当は」

畑中は、テーブルの上の、アイスコーヒーのグラスに添えた自分の手を見つめて、ちょっと絞り出すように言った。

「本当は、私からちゃんと言うつもりだったんだよ。私が言い出して、京子ちゃんと渉君を誘ったんだから。途中で勝手に、はい終わり、みたいにするつもりはなかったの」


京子ちゃんは黙って聞いていた。

渉君は、ランチプレートの皿を少し端へ寄せた。

話を聞く場所を、テーブルの上に作るみたいだった。


畑中は続けた。

「このバンドは、文化祭までだと思う」

その言葉を、今度はちゃんと言った。


「京子ちゃんを、ちゃんとステージに載せる。渉君の曲をちゃんと鳴らす。そこまでは、絶対にやる」

畑中は、そこで一度、僕を見た。

七月の部室で見た目だった。


「でも、その後もこの形で続けるのは違う。私も、持田君も、たぶん無理をしちゃうんだ」

「無理、ですか」

京子ちゃんが訊いた。


責めている声ではなかった。

ただ、確かめる声だった。

「うん」

畑中は、はっきりうなずいた。


「私と持田君は、元々二人で古いロックをやっててさ。京子ちゃんと渉君が入ってから、私たちの音も変わった。それは、すごく良かったと思ってる」

「はい」

「でも、それをずっと続けるのは、たぶん違う。私も、持田君も、合わせすぎる。特に持田君は、合わせちゃうから」


僕の名前が出たこともあって、畑中は一度僕の方に目を寄こした。


「悪いことじゃないよ。持田君のいいところ。でも、ずっとそれをやると、持田君のドラムが変わりすぎる。私もたぶん、持田君に文句を言う。すごく言っちゃう」

京子ちゃんが、少しだけ笑った。

渉君も、ほんの少しだけ口元を動かした。

空気が、少し戻る。


でも、畑中の声は、まだ真面目だった。

「だから、文化祭まで。そこまでは、ちゃんと四人でやるよ。その後は、その後の場所を探す。京子ちゃんは歌えるようになる。渉君は曲を作れる。二人でやってもいいし、別の人を入れてもいいし、囲碁将棋部でまた何か変なことをやってもいい」

「変なこと?」

渉君が言った。


「杉宮君がいるから」

「ああ」

渉君は、それだけで納得した。


杉宮は便利な言葉になっている。便利すぎる部長である。


京子ちゃんは、ノートを見ていた。

「私」

小さく言った。

「はい」

畑中が、少しだけ優しい声になる。

「私、この歌、文化祭で歌う歌だと思って書きました」

畑中は、うなずいた。

「うん」

「その後も、同じように歌う歌じゃないと思って」

「うん」

「だから、終わる歌にしたかったんです」

京子ちゃんは、そこまで言って、少しだけ困った顔をした。

「でも、終わるだけだと、暗いかなって」


畑中は、そこで少し笑った。

「暗くないよ」

「ほんとですか」

「うん。ちゃんと、先に行く歌になってるから」

京子ちゃんの目が、少しだけ揺れた。


畑中は続けた。

「だから、文化祭で歌える」

その言葉で、京子ちゃんは少しだけ肩の力を抜いた。


僕は、まだ黙っていた。

言うことは、あるのかもしれない。

でも、ここで僕が何か言うと、京子ちゃんの歌詞が、僕への何かになってしまう。

それは、違うと思った。


この歌は、京子ちゃんの歌だ。

僕が出てくるとしても、それは京子ちゃんが歌にして、文化祭で手を振るための相手でしかない。


相手でしかない、という言い方は変かもしれない。

でも、主役は僕ではない。

黙っていた方がいい。

そう判断した僕である。


「持田先輩」

渉君が、ふいに僕を呼んだ。

「うん?」

「ドラム、サビの最後は、しっかり切りましょう」

「今それを言う?」

「まだ曲全然できてないけど、今です」


渉君は、小さい画面に映るコード進行だけを、僕に見せる。

「この歌詞なら、サビの最後は伸ばさない方がいいです。手を振る歌なので。伸ばすと、未練が残る」


手を振る歌。

未練が残る。


渉君は、恋愛の話をしなかった。

音楽の話をした。

でも、たぶん全員に意味は分かった。


「サビの最後の言葉を短く切る。そこから静かにシンセを入れてエンディング。静寂を演出してから、部長のビートに繋ぎます」

「杉宮がどんどん謎の存在になっていくな」

僕が言うと、渉君は少しだけ首を傾げた。

「部長なので」

説明になっていない。

でも、杉宮なので、説明になっている気もする。




「それと、それで思い出したんですけど」

渉君は続けた。

「そろそろ、部長の練習用の仮トラックを録らないと間に合わないです」

「録る?」

畑中が訊いた。

「はい。文化祭まで逆算すると、盆明けには録音したいです。美土里さんの仮歌、アキラさんのベース、持田先輩のドラム。ギターは俺が入れます。部長がつなぎとSEを練習するためのものなので、テンポと尺を確定させたい」

「もうそんな時期かぁ」

畑中が言った。

「そんな時期」

渉君は淡々としていた。

「この曲は、盆までの間に作るので、もうちょっとかかりますが、他の曲は、盆明けに録音したいです」

この場では、そういう言い方だった。

後日、グループLINEには、もう少し決定事項として流れるのだろう。


渉君は、そういうところがある。

まだ一年生なのに、気がつくと予定を決めている。


畑中は、少しだけ笑った。

「渉君、いつの間にそんな偉くなったの」

「偉くはない。間に合わせる人になっただけで」

「それ、偉いよ」

畑中が言うと、渉君は目をそらした。

少し照れたようにも見えた。


一応、バンドが始まった当初は僕がリーダー扱いだったはずなのに、今は渉君と京子ちゃんが主導しているように感じる。

でもそれは、文化祭の後を考えれば、その方が良い。


渉君は、作曲・アレンジだけじゃなく、最終的なステージ演出までもう睨んでいる。

京子ちゃんは、詞や歌でどんどん自分の世界を作って、このバンドを支配しかけている。

若い二人が成長しているのを見るのは、僕にとっても、とても嬉しいことだった。


「だから、しばらく合わせはやらずに、個人練習の方がいいと思う。しっかり詰める感じで」

渉君は、僕と畑中を順に見て、言った。

「俺と美土里さんは、曲作りやんなきゃなんないから……先輩たちは」


渉君は多分『この詞を活かすために、しっかり時間をください』と、畑中と僕にお願いしている。


「私と持田君が、二人で今までの三曲のリズム隊アレンジ練るのはいいんだよね?」

畑中が渉君に確認する。

「持田先輩の邪魔をしなければ」

「邪魔なんかしないよ!」

畑中が心外そうに言う。

「持田先輩は盆前まで補習なんでしょ? アキラさん夏休みなら邪魔になるよね?」

そっちか。

畑中が、ごくごく小さい声で『私だって家で受験勉強してるし……』とボヤいたのが聴こえたけど、気のせいかもしれない。


「ま、それは冗談として、変えたらスマホ録りでいいから送ってくれれば、大丈夫」

冗談だったのか。

渉君の冗談は、いまいちわかりづらい。


「じゃ、そういうことで」

と、畑中が何とか自分を納得させたのか、〆の言葉を言った。

えーと、僕をリーダー扱いしたのは畑中だったと思うんだけど。


京子ちゃんは、自分のノートを閉じた。

「じゃあ、直します」

「直しすぎないで」

渉君が端的に言った。

「今のままで、十分芯はある。言葉の数と、最後の切り方だけ」

「うん」

京子ちゃんはうなずいた。


畑中は、京子ちゃんが抱えるノートの表紙を、指先で軽く叩いた。

「京子ちゃん」

「はい」

「これ、かわいく歌うだけじゃ足りないと思う」

京子ちゃんは、少し目を見開いた。


先月まで、畑中はよく「かわいい」と言っていた。

京子ちゃんの声も、歌詞も、ギターを抱えている姿も、かわいいと言っていた。


でも、今回は違った。

「ちゃんと歌った方がいい」

畑中は言った。

「ちゃんと」

京子ちゃんは、言葉を確かめるように繰り返した。

「うん。ちゃんと」

畑中はうなずく。

「京子ちゃんなら、この歌をちゃんと歌えると思う」

京子ちゃんは、少しだけうつむいた。

それから、顔を上げた。


「ちゃんと歌います」

その声は、六月に入部した時より、少しだけ強かった。


僕は、何も言わなかった。


カフェの入口のベルが鳴った。

新しい客が入ってきて、店員さんが「いらっしゃいませ」と言った。


僕らのテーブルだけが、少し遅れて現実に戻る。


京子ちゃんは、残っていたランチプレートの端のサラダを、ようやく少し食べた。

渉君も、冷めかけていたスープに手を伸ばした。


畑中は、アイスコーヒーの氷をストローでつついている。

「畑中」

僕は小さく言った。

「何」

「次はランチプレート頼めば」

「今それ言う?」

「今だと思って」

畑中は、僕を軽く睨んだ。

でも、その顔は少し戻っていた。

「持田君が補習終わるの遅いからでしょ」

「僕のせいなのか」

「持田君のせい」

「物理のせいだろ」

「物理も持田君の一部」

「嫌な一部だな」

京子ちゃんが、また少し笑った。


渉君は、カップを置いてから言った。

「次来るなら、早めの方がいいです。この人気だと、ランチ、多分早くなくなるので」

「渉君、分かるの?」

「姉と妹がいるので」

強い理由だった。




――このバンドは文化祭まで。


その言葉を、誰も否定しなかった。


畑中が、自分から言うつもりだった線。

京子ちゃんが、歌詞の中で先に引いていた線。

渉君が、録音予定にしてしまった線。

その全部が、同じ場所に重なった。


僕はまだ、何も言っていない。

何も言っていないけれど、たぶん、それでよかった。

少なくとも今は。


その時の僕は、そう思った。

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