ヒビ割れ
地獄の社会更生訓練二日目、この日は腐った精神を鍛え直すと称し早朝の四時から叩き起こされ体育館の床一面を雑巾がけ、その後に座禅を二時間組まされ、『体内の不純を取り除く』と言う名目で腹の底から大声を出すといったインチキ宗教の修行ばりに頭のおかしい訓練をこなした。
一日目の訓練が相当堪えていたらしく、周りの悪魔共の顔色は泥でも被ったかのような土気色で皆目が虚ろだった。特にビリーなんかは元々痩せ型だったにも関わらずナナフシ並に痩せこけていた。
それに引き換え例のキュピ男は朝から元気バリバリで雑巾がけもキュピキュピ言いながら楽しそうにやっていたし、もうほんとなんなんだあいつは。普通の好青年より健全だぞ。なんで此処に居るんだよ。
こうして他の悪魔共が様々な個性を見せている中、泪ただ一人はオーバーな発言も突発的な行動に走ることもせずただ淡々と言われた通りに訓練をこなしていた。勿論あの夜の後からは一切会話をしていない。
俺としては彼女に邪魔されることなく訓練をこなせるという点では快適ではある。そもそも俺と泪は偶然部屋が同じなだけで特別な関係性もない。この訓練が終われば恐らく二度と会うことなくお互いがそれぞれの人生を歩んでいくのであろう。
言わば他人同然の奴に俺が一喜一憂するなんて可笑しな話だ。俺は俺の人生に、この訓練を無事終わらせることに集中するべきだろう。
そう自分に言い聞かせて擦り傷のように痛む心の何かに薬を塗る。しかし傷は治ること無く、塗った薬が傷口に染みてズキズキと音を立てながら俺を苦しめるだけだった。
「こら多田崇っ! 目を逸らすんじゃあないっ! 集中しろっ!」
そんな痛みが顔に出ていたのか、巡回している一人の職員に注意をされ、俺は再び目の前にあるプロジェクトマッピングで映し出されている映像に目を向けた。
今観ているのは天使と悪魔の戦争を舞台とし、主人公の青年悪魔が入隊から戦死するまでを描く戦争映画だ。この映画を通して、軍人とは何か、屈強な精神とは何かを学ぶというのが目的らしい。
まぁ、若者向けとして映画をチョイスする所や他の訓練と比べて楽なのは助かる面ではあるのだが、俺はどうにも腑に落ちない。
まず映画の内容自体が悪魔側視点で描かれている為、敵である天使側が悪役で描かれている事。
例えば太平洋戦争を題材にした映画では悪役の米国による圧倒的な軍事力を前に日本軍は次々と負けていく。そんな圧倒的な敵に対して愛国心、友情、愛情そして帝国軍人としての誇りなど人間が肩入れしやすい感情を持ちその身尽きるまで戦う、というのが定番の流れでこれを観た日本人は感動を覚えるのだが果たして外国人が観ても一様に感動するだろうか。
敵役にされた米国はきっと気分の良い物ではないだろう。そもそもこの戦争は日本が奇襲を仕掛けたのが直接的な原因となって開戦したのだ。この戦争の勝者であり被害者でもある自分たちが何故悪役に回されるのかと思うのも当然である。この映画もそうで、自分達悪魔軍がいかにも正しい、正義だと描写されている。
確かに大抵の天使はクソ野郎だというのは俺も知っている。しかし、そんなクソ野郎の中にも一人だけ真面目で努力家な天使がいるのも俺は知っているのだ。
なので悪魔が正義、天使は悪という一種の洗脳にも近い固定概念を持たせようとするこの映画が気にくわない。そしてエリゴス役を演じているのが本人だったのも気にくわない理由の一つだ。あの人自分が出演してるからってこの映画選んだだろ。
そしてなによりだがこの映画の主人公だ。
ごく普通の家庭で育った彼が行き成り軍に入隊させられるのだが実技訓練では全てにおいて一位を獲得したり、柄の悪い先輩達を返り討ちにしたり、窮地に陥った戦況を打破する作戦を提言して成功を収める等々とても普通の青年とは思えないほどの活躍をしていくのだ。
これは映画、つまりはフィクションなのでそんな野暮なツッコミをするのはどうかと思う。しかし、自らを普通と名乗った癖にこんな活躍をするのは俺だからこそ気に入らないのだ。
普通の青年が入隊すれば実技訓練は良くても中の下、先輩上司には媚を売り、窮地に陥った戦況の中流れ弾に当たり戦死する。これが普通だろう。
なのにこいつと来たら普通の凡人設定を忘れやがって……くそっ!
「多田 崇っ! 集中しろと言っているだろっ!」
今度は苛立ちが顔に出ていたのか、職員に再度注意をされてしまった。
俺はため息交じりに深い息を吐き、気持ちを宥める。昨日の後悔を思い出せ。後悔から生じた擦り傷を見ろ。感情をコントロール出来なかった所為で碌な目に遭わなかっただろ。
普通で無難に行きたいのなら気持ちを落ち着かせて静かに映画だけを観ていればいい。それくらい俺には出来るだろ。
そう自分に言い聞かせて、俺は再度息を吐く。吐いた空気と共に不必要な感情や考えがスゥーっと心地よく抜けていき、全て抜けきった後の頭の中は新品の窓ガラスのように澄んでいる。
これでいい。これがいい。落ち着いてクールに物事を考え、普通で平凡な解答をチョイスし無難に行動する。これが俺のやり方だ。
「――ハッくだらないなぁ」
俺が安堵の息を吐いた中、吐かれた空気の音に紛れて隣の席から嘲笑的な狼の声が確かに聞こえた。それは俺の耳からの頭の中へと侵入し新品の窓ガラスにヒビを入れる。
「……何がくだらないんだよ」
「フンっくだらない物にはくだらないとしか言いようがないなぁ。強いて言うのなら君の考え方や価値観、かな?」
「おい、もう一度言ってみろこのクソガキっ!」
一度ヒビが入ってしまえば修復は出来ず、俺は我を忘れてしまってつい立ち上がり泪に詰め寄ってしまった。頭の中では俺が俺である理由のアイデンティティがバラバラと崩れ落ちていた。
「ほう、この僕に喧嘩を売るつもりかい? いい度胸だ買ってやろうじゃあないか。いいだろう何度でも言ってやるよ! 君の言動もっ! 行動もっ! 全部安いなんだよっ! 実にくだらないねっ!」
泪も立ち上がり人差し指をこちらに向けながら向かってくる。
俺がチープ? それは全部お前の方だろうが。服装も言動も行動も全部誰かの真似、自分の理想を不恰好に演じているだけじゃないか。
お前はこの映画の主人公じゃないんだ。確かに自分の人生では主人公かもしれないが人生ってのはフィクションとは対極で、戦争で都合よく生き残ったりはしない。ある日不思議な力に目覚めたりもしないし、通学中にパンを咥えた転校生とも激突しない。限りなく残酷な現実なのだ。
それなのに自分は特別だと思い込み、自分の能力を過信した結果失敗し恥をかく。それこそくだらないのではないだろうか。
そんな恥ずかしくてくだらない奴に、自分の信条を全否定されて怒らない人間のことを果たして普通と言えるだろうか。いいや、違う。絶対に。
この、正論とは程遠い考えで冷静さを失った俺を肯定し、泪との距離を更に縮める。眼下では泪が鋭い犬歯を見せつけながら唸り声をあげ、俺を威嚇してくる。
――なんだその目は、その態度は。お前は本当に何なんだ。くそっ! 気にくわねぇ……っ!
「いい加減にしろ貴様らぁっ!!!」
視界と思考が完全にフェードアウトし、怒りに身を委ねていた中で飛び込んできた第三者の怒号が俺の意識を引き戻してくれた。見れば先程から再三俺に注意していた職員が顔を真っ赤にして怒っている。
「貴様ら二人は罰として廊下に立っていろっ!!!」
職員の指示で部屋の後方で待機していた別の職員が俺達を先導しこの部屋から立ち去る。歩く度に散らばったガラスの破片が足の裏に突き刺さり、心の擦り傷と共に俺をズキズキと痛めつけた。




