明鏡止水
廊下に連れて来られた俺と泪はスチール製で昔の学園ドラマやアニメで有り勝ちなバケツを両手に持ち、壁と垂直に立たされる。持たされたバケツの中に入っている水は荒波立てることなく静かに水平を保ち、水面を覗く俺の顔を映した。
平穏無事、何事も起こさず、無難な人生を送る。正にこの水のような生き方を望んでいる筈なのにまたしても自分で台無しにしてしまった。一時の怒りと小さな後悔のせいで。
その事が悔しくてつい肩に力が入り、それがバケツに伝わっていき水面に波紋を作る。映っていた俺の顔は酷く歪んでいった。
「ふへへ、お前らぁ大人しくしてるっぺよぉ」
そんな中実物の俺の顔をも歪ませる薄気味悪い声。正体は俺と泪を監視するためにやってきた職員なのだが軍服越しでも弛みきった贅肉が揺れ動き、運動一つしていないのに荒い息を口と鼻から発しているなんとも不衛生で気持ちの悪い奴だ。
こんな奴に上から物を言われ、それに従うしかないこの状況。非常に不快でしかないが耐えるしかない。
何の能力もないが会社の在籍年数で役職を貰えているにも関わらず威張り倒してくる上司のように、人間的な観点から見て自分より劣っている輩に従うだなんて普通の社会人なら誰しもが経験することだ。
俺はまだ学生とはいえもう成人もしているし学生生活も半分を過ごした。これくらいの事に動じる訳にはいかない。
そんな事を考えながらバケツを持っているとデブ職員が何かを感知したのか、餌の匂いを嗅ぐ豚のように世話しなく鼻をひくつかせながら此方の方へと向かって着た。
「クンクン……何かお前らからは良い匂いがするっぺよぉ。どっちからかなぁ?」
大木のような野太い足を一歩一歩前に出し尚も鼻をひくつかせる。しかしそれは匂いを嗅ぎ取っている振りでしかなく、腫れぼったい一重の目線は完全に泪を捉えていた。
「んん~どうやらそこのお嬢ちゃんから甘い甘~い良い匂いがするっぺ」
餌を見つけた小汚い豚職員は泪の正面に立つと、更に息を大きく荒げて舌なめずりをしながら涎を垂らす。
立場が逆転してしまった豚と狼。しかし泪は威嚇することも警戒して耳を立てることもなく、ただ目の前に聳え立つ肉塊を眺めているだけだ。
この状況は流石にまずい。退役した軍人と言えど所詮は悪魔。立場を利用して己の欲求を満たそうとしている。
泪がここまで無警戒なのは、こいつをどうにかして止める手段があるからなのだろうか。いいや違う。彼女はまだ大人の『汚い部分』を知らないクソガキなので自分が今相手にどう思われているかすら把握していないのだ。
どうする? 今すぐ部屋に戻り職員達を呼ぶか? しかし俺が離れた隙に泪を何処かへ連れ去ってしまう可能性も無くはない。
なら俺が直接止めに入るか? 大声を出せば騒ぎを聞きつけてハゲおっさんや他の職員も駆けつけてきてくれるかもしれない。
しかし駆けつけた所でどうだろうか? 自分達の仲間が失態を犯したことを素直に信じるだろうか? 恐らくこの豚野郎が嘘をつき、俺達が勝手に騒いだと言ってしまえばそちらの証言を信じるだろう。そしてまた怒られペナルティを食らう羽目になる。
だとするのならばここは何もするべきではないんじゃないだろうか。
セクハラ、パワハラなんてのは世の中何処にでもあるし誰だって受ける。今から起こるであろうことも夢見がちな彼女には良い機会なのかもしれない。
「うへへへっお嬢ちゃん~大人しくしてるっぺよぉ」
雨上がりに路上を彷徨った末車に引き潰されたミミズのように薄汚く醜い指が純粋無垢で穢れのない彼女に這い寄って行く。
電柱の下に片方だけ落ちている純白のハイヒール。それに近づくミミズ。そんな光景を俺は傘を差したまま横目で見ているだけだ。
当たり前だ。そんな何処の誰が履いていたかも分からない靴に汚い物が乗っていようが何しようが俺にとっては知ったこっちゃない。他人の物に興味を持たないのは至極当然のことだろう。
至極当然で当たり前ということは即ち一般的、普通の事と言えるであろう。普通の人生を過ごしたい俺だからこそ、この場をスルーすることは必然的なのだ。
そう、見て見ぬ振りをするのは無難なチョイスで、当たり前の事で、それ以外に選択の余地がない程普通の事で…………。
――んな訳ねぇよなぁ普通。
傘からは一滴の雨粒が滴り、それがバケツに落ちて中心からゆっくりと波紋を作る。そこで俺の意識は現実へと戻ってきた。
見て見ぬ振りなどできる訳がない。そんなチョイスは無難でも当たり前でもない。そんな選択をする奴が普通の人間である筈がない。
普通の人間とは、感情や私情に流されることなく常に正しい道を考えて行動するものだ。例え自分が気持ち的に暗くなっていようが苛立っていようがやらなくては行けない事で。アイデンティティよりずっと根底にある信念という物なのだ。
ならば俺が今すべき行動はただ一つだ。
「おい、あんたちょっといい加減にしとけよ? これ以上泪に汚ねぇ指近づけるってなら――」
「ふふっ僕の魅惑で甘味なスメルを嗅ぎ付けるとは……流石職員、素晴らしい嗅覚を持っているね。ほらこれは君が嗅ぎ付けた森の黒宝石だよ」
俺がバケツを置き、泪と職員の間に割って入ろうとしたその時、彼女もバケツを置き手をポケットに突っ込む。取り出したそれは例の宝石と形容された飴玉だ。
「ぶひひ~っ!! これこれっ! やっぱり持ってやがったっぺ!!!」
興奮から声と鼻息を大きく荒げて涎を撒き散らす職員は泪から半ば強引に飴玉を奪うと袋ごと口に放り込みボリボリと咀嚼していく。
いやいやいや、ちょっと待て。待ってくれ。甘い匂いって比喩とかじゃなくて直接的な意味? 見た目完全に性欲丸出しデブなのに太ってるのは本当にただの食いしん坊だからって事なのか?
違うよなぁ? いや、このまま飴だけ食ってるのが安心安全の正しい展開だがそうじゃないよなぁ? なぁ?
予想を遥か斜めの方角で裏切られた俺は唖然としてしまい言葉も、足を前に出すことも出来なくなってしまった。そんな中泪が再びポケットに手を入れてから。
「どうやら気に入ってくれたみたいだね。上げた物を喜んで食べて貰えるのは気分がいいよ。何処かの誰かさんと違ってね……まぁそれは良いとしてだね、そこまで気に入ってくれたのならもっと食べるかい?」
泪は一瞬俺の方を睨んでから小さな両手の平からはみ出さんばかりの飴玉を職員に差し出す。
「ええっ? こ、こんなに一杯貰っていいのかっ!?」
「ああ勿論だ……でも一度にこんな量を食べるのは流石の君でも少々無理があるだろう? それに食べている所を誰かに見られるのもまずいと思うんだ。だからトイレにでも行く振りをして少しばかり席を外してゆっくりと宝石の輝きをゆっくりと堪能するってのはどうかな?」
「……成る程。中々いい案だっぺよ。じゃ、じゃあ俺は今からトイレに行くけどお前らここから離れるんじゃあないぞ? 絶対っぺよ?」
職員は泪から安すぎる賄賂を受け取ると肥満過ぎる図体でそれを隠し目を左右に泳がせながら何処かへ去っていった。
「ふぅ、全くやれやれだね。こんな事の為に貴重な飴玉を使ってしまうとは。でもこれで邪魔する奴はいなくなった。さぁ崇、お互い腹を割って話そうじゃあないか……って、崇?」
肩を透かしてため息をついた泪は思考も身体もフリーズしている俺に困惑の表情を向けてくる。それを受けて身体の自由が利くようになり、まるで熱したフライパンに棒立ちしているような感覚で足の裏からドンドン熱くなり旋毛から湯気が噴出しそうになる。
何とか熱を取り除こうとするも、それが出来る物は水が入ったバケツしかなく、俺はバケツに映っている真っ赤に染まった俺の顔を両手で掬い、思い切り叩き付けた。




