その時
碧黎は、維月の手を取って宮近くまで歩いて来て、そこで立ち止まった。維月は、何事かと碧黎を見上げた。
「お父様?どうかされましたでしょうか。」
碧黎は、振り返らずに言った。
「何の用ぞ、先程から。鬱陶しいことこの上ないわ。」
維月は、驚いた。すると、背後の茂みから、結蘭が、意を決したように出て来て、頭を下げた。
「ずっとお話をしたいと申しておりました。ですが、出来ずにおりましたので…機を探しておりました。」
維月は、仰天して口を押さえた。では、ずっとついて来ていたの…いったい、いつから?
碧黎は、振り返った。
「帰ったのではないのか。何やら西から輿が着いておったし、先程飛び立った。」
結蘭は、下を向いた。
「兄に叱られるのを承知で、残りましてございます。どうか、お時間を。」
維月は、どうしようかとおろおろと碧黎を見上げた。こうして、直談判に来るのは想定外だったのだ。女神は、そんなことをしないものだからだ。
つまりは、そこまで追い詰められていたのだろう。
「…話を聞くまでは、帰りそうにないの。」と、じっと結蘭を見つめた。「では、話を聞いたら帰ると約すか?ならばここで聞いても良い。」
維月は、結蘭に帰らないと言って欲しかった。せっかく十六夜といろいろ考えてショックを受けないようにと気を遣って来たのに…無駄になってしまう。
しかし、結蘭は頷いた。
「はい。話を聞いた後も碧黎様がそのように望まれるのでしたら、我は西の宮へ帰ります。」
だったら、話を聞かないでいいから帰って!
と維月は思ったが、何も言えなかった。碧黎は、ため息をついて維月を見た。
「少し堪えてくれぬか、維月。話を聞いて参る。すぐに戻るゆえ。」
維月は、心配そうに碧黎を見上げた。
「ですが、お父様…」
碧黎は、首を振った。
「これ以上わだかまりが残るのは良うない。我を信じて待っておれ。」
碧黎は、維月の額に口付けると、維月から手を放した。そして、結蘭を見た。
「参ろうぞ。」
結蘭は、ホッとしたような顔をして、ちらと維月を見てから、碧黎についてそこを離れて行った。
維月は、どうしたらいいのかと、まだおろおろと見送るよりなかった。
その頃、蒼は輝章と一緒に庭を歩いていた。輝章は、穏やかで優しげな神だった。そうして、何よりまだ250歳ほどだという。自分もそんな頃があった、とすっかり年長の気持ちでいた蒼だったが、しかし見た目はあまり変わらなかった。神の250歳は、人の25歳。つまりは、輝章は本当に神としてはまだまだ若者なのだ。
「それにしても、戻って来れて良かったではないか、輝章殿。」蒼は、庭の滝を見上げながら言った。「人の女と聞いた。そんなに思い入れたのか。」
輝章は、微笑んだ。
「それは美しい女での。凜が、あれによう似ておる。気性もしっかりとしていて、まさに凜を見ていたら、あれが生き返ったのではないかと思うこともあったほど。しかし、もう亡うなった女であるから。人世に居た時は、あれに会うことばかりを考えておったものであるが、こちらへ戻ると、神世に居た時のことが蘇って、あれが夢であったように思う。不思議なものよな。」
蒼は、頷いた。
「時にそうやって、我を忘れることもあるもの。しかし、主はそれで命を落とすところであったのだから。これからは、そういった事の無いようにせねばの。まだ若いのだから、また誰か娶れば良いではないか。やり直す資格が、主にはあると思うぞ。」
輝章は、頷いた。
「まだ考えられぬが、いずれ良い縁があればの。」
蒼は、輝章に好感を持っていた。とても穏やかで、他の神の男のように、がつがつした感じがない。それは、兄の知章も同じだった。あの宮は、人好きで人の世話をしている宮であるらしい。つまりは、詣でて来た人が願うことを、いちいち聞いて叶えてやろうと思ったものは、叶えてやっているのだ。
そんな宮が神世にはいくつかあったが、蒼はそんな宮の神達のことは、軒並み好きだった。皆こんな風に、穏やかで落ちついた様だからだ。
「さて、宮へ戻ろう。そろそろ、日が傾いて参るだろう。オレも解決せねばならぬ問題がまだ残っておって…落ち着かぬ。」
輝章は、同情したような目で蒼を見た。
「忙しいのだの。このように大きな宮であれば、いろいろとあろう。ほんに我の相手までさせてしもうて、申し訳ないの。」
蒼は、首を振った。
「いや、これはオレの楽しみだから。少しは気を休める時もなければ、やってられぬからの。」
蒼はそう言うと、輝章と共に宮へと向かった。
碧黎は、維月と別れて庭を少し歩いた。あまり奥まで行くのは良くないと思った碧黎は、突然に立ち止まると後ろを付いて来る結蘭を振り返った。結蘭は、驚いたようだったが、黙って立ち止まる。碧黎は、言った。
「して、何ぞ。主はいつも意味ありげなことを言うては時間を取れと申しておったよの。前置きは良いゆえ、要件だけを申せ。」
結蘭は、その性急な様子に驚いたが、無理に時間を取ったのだから、仕方がないと思いながら、口を開いた。
「碧黎様は、維月様を娶られるおつもりでいらっしゃるのですか?」
碧黎は、両眉を跳ね上げた。明らかに、思っても見なかったことらしい。
「それが主に何の関係があるかと思うが、いずれはの。今は十六夜のことも維心のこともあるし、我も今のままで充分満足しておるから、そこまでは良いかと思うておる。あれを側に置いておるだけで、我は満足であるから。」
結蘭は、じっと碧黎を見た。
「では、その娶られるまでの間は、他に妃をとは考えておられぬのですか。」
碧黎は、眉を寄せながらも、答えた。
「考えておらぬ。維月以上など居らぬ。我にとり対等の目で見られるのは、維月のみ。陰の月であるから。我は陽の地。我らはそういう命なのだ。」
結蘭は、それでも言った。
「我のことは、どうお考えでしょうか。」
碧黎は、それこそ驚いたように目を見開いた。
「主?ええっと…西の島の、公青の妹であろう。」
結蘭は、首を振った。
「そうではありませぬ。我と、何度も庭を歩いていろいろなお話を。それこそ、維月様とこの庭を歩かれておる時のように。」
実際は、隣りを歩いていただけだった。維月とは、時に身を寄せ合って仲睦まじくしていたが、結蘭の中ではそういう風に記憶しているらしい。
碧黎は、きょとんとしたような顔をした。
「維月と同じようにと?我は維月以外には触れぬがの。」
結蘭は、そこでハッと気付いた。そうだった…かしら。
「でも…何度もお話をしてくださった。ああして二人きりで庭を歩くのは、王族の我にとり余り無いことでございます。なので、碧黎様にも我を望まれておるのかと…。」
碧黎は、それにはすぐに首を振った。
「それはない。」結蘭が、ショックを受けたように顔を上げた。碧黎は続けた。「話し掛けられたゆえに、返しておっただけ。我は主に、何ら特別な想いなどない。」
結蘭は、じっと碧黎を見て、訴えるように言った。
「ですが、我はお慕いいたしておりまする。」
碧黎は、それを聞いて顔を引き締めた。そこで、やっと結蘭が言いたいことが分かったのだ。ダイレクトに言われて、やっと分かること…碧黎は、真剣な表情で言った。
「ならば、主に言わねばならぬ。我は、主に限らず他のどの女神もそんな対象には見ておらぬ。なので顔も名すら覚えようとも思わぬ。我から見たら主は池に泳ぐ複数の鯉の一匹のようなもの。複数生きておるのを眺めることはするが、ただ一匹と目に留めてめでることもないし、まして鯉相手に婚姻を考えるような感情など湧くはずもない。我と対等なのは月の眷族のみ。よって我の興味は、維月にある。主と我は、対等ではない。己の分を弁えよ。」
結蘭は、目に涙を溜めてそれを聞いていた。ぶるぶると震えて、声を出せずに居る。
碧黎は、踵を返した。
「では、これで話は終わりぞ。我は主の兄が言うように西の宮へ帰ることを望む。帰ると約したの。早々に帰るが良いぞ。」
そうして、そこに結蘭を残したまま、碧黎はそこを去った。




