柵
その少し前、箔翔は凛を見つけ、やはりと歩み寄ろうとしたが、傍に安芸が居るのを見て立ち止まった。凛は元より人なので、簡単には神の気を気取ることはない。そして今の安芸は、神の力を失っていた。なので、二人とも箔翔の大きな気にも気づかなかった。
そして、そこで凛の気持ちを知ってしまった。箔翔は、それを聞いて少なからずショックを受けていた。凛が安芸を…確かに、そうなってもおかしくはなかった。安芸は、最初に比べて格段に王らしく落ち着いた雰囲気になった。自分ですら、思わず対等に話してしまうほど、今の安芸は成長していたのだ。
凛を、自分も気に入り始めていたのか。
箔翔は、ちくりと痛む胸にそう思った。だが、それでも時に忘れていたほどの思いであり、まだ本当に想うまでには至っていなかったらしい。
自分の気持ちに少しホッとした箔翔は、その後の安芸の答えを聞いて、眉を寄せていた。安芸らしく、冷静に自分の立場を分かっていて話している内容だった。しかも、凛の父親の件もまた考えていたのだ。そして、とっくに答えを出していた。安芸は、自分か公青に凛を娶らせ、凛とその父を救おうと考えていたのだ。
そこまでは考えが至らなかった。
箔翔は、そう思っていた。妃ということに極端に面倒さを感じていた箔翔には、凛すらもそんな対象には見ていなかったのだ。
確かに、箔翔は鷹。半神であろうと世継ぎを生むことは可能だろう。そして公青。西との和平のためと神世には映るだろう。ならば、どちらも凛の父親の罪を消せる可能性がある。
凛を慰めるにも言葉も思いつかず、自分がそれを見たと知ったら凛も居辛かろうと、箔翔は足早にそこを後にした。
次の日の朝、安芸がやって来て、言った。
「箔翔殿。話があるのだが。」
箔翔は、顔を上げた。山のような書状を見ているところであったが、安芸に頷きかけた。
「座るが良い。」
安芸は、頷いて箔翔の前に腰かけた。箔翔は、書状を脇へやって、安芸と向き合った。
「何ぞ?早くから珍しいの。いつもなら、訓練場へ行っておる時間ではないのか。」
安芸は、視線を下へ向けた。
「今日は…やめておくことにした。それよりも、凛の父親のことで考えておることがあって、話しておこうと。」
箔翔は、全て知っていたが、先を促した。
「話すが良い。」
安芸は、頷いた。
「我は…主の話を聞いて、世のためになる子を生み出したならば、その父の罪は許されると知り、考えた。凛を価値ある女にすれば良いのだと。」
箔翔は、頷いた。
「確かにそうであるが、半神の身では難しかろう。」
安芸は、首を振った。
「ただ一つ、女に出来ることがある。力のある王に、嫁ぐことぞ。」
箔翔は、眉を上げた。内容に驚いたからではない、安芸があまりに真剣な表情をしていたからだ。
「…半神であるぞ?普通の女ではない。人の血が王に混ざることは、誰もが嫌がるではないのか?」
安芸は、じっと箔翔を見つめた。
「必ずしもそうではない。神と半神で、生粋の神が生まれる例はいくつもあるはず。しかし確実な例もある…龍と鷹ぞ。」
箔翔は、安芸が本当に深く考えていたのだと感心して聞いていた。
「維心殿は無理であるぞ?あの妃しか娶らぬと前世から決めておるからの。絶対に、相手を斬ってでも受けぬ。」
安芸は頷いた。
「それは知っておる。だから、主に頼みたいのだ。凛を娶ってはくれぬか。出来るだけ早く。本日でも良い。」
箔翔は、それには仰天して両眉を上げた。やけに性急な。
「また性急なことよ。犬や猫をもらうのとはわけが違うのだぞ。」
安芸は、険しい顔をして、また視線を下げた。
「早ようしてほしいのだ。あれも父を案じておるだろう。主は前の妃も帰して独り身であると聞いた。何の柵も無いであろうが。」
箔翔は、じっと安芸を見た。
「我がなぜに妃を帰したと思うておるのだ。政策やら何やらで置く妃が面倒で鬱陶しくてならなんだからぞ。凛とて、そんな形で我に嫁いでも幸福になどなれぬ。我は想う女でなくば、娶らぬと決めておるのだ。」
安芸は、キッと顔を上げた。その顔は明らかに激しく怒っていた。
「凛の何が不満ぞ!あれは賢い女ぞ!半神には珍しく、見目も良いし主の妃として遜色はあるまいが!」
ここ最近では全く見ていなかった安芸の激昂する様に、箔翔は黙った。安芸は、箔翔の様子にハッと我に返ったような顔をしたかと思うと、さっと横を向いた。
「…すまぬ。」
箔翔は、まだじっと安芸を見つめたまま、言った。
「主…凛を想うておるのであろう。」
安芸は、顔を上げてまた激しい様で言った。
「そのようなことはない!」
箔翔は、首を振った。
「嘘を申すでない。なので、主は早よう凛を我に娶らせたいのだ。でなければ己の抑えがきかぬと思うておるのだろうが。違うか?」
安芸は、じっと黙って横を向いていた。しかし、その唇はぶるぶると震えていた。また怒ったのかと思ったが、箔翔が見ている前で、安芸はそのまま力なく頭を垂れた。
「…我が娶ると言えると思うか。」安芸は、頭を抱えた。「前は王でも、今は罪人と呼ばれ気まで剥奪されておるような身。そしてその気も、この手に戻るかどうかも定かではない。命の保障もない。仮に許されたとして、今までのようには統治出来まい。更に強く公青に監視され、公青の属宮とされてしまうやもしれぬのだ。そのような我が娶って、あれが幸福になれると思うのか。」
箔翔は、これが安芸の凜を思う精一杯の行動なのだと、それで知った。凜が大切だからこそ、箔翔に娶らせようとするのだ。罪人である自分が娶っても、凜が幸福になれないと知っているからなのだ。
箔翔は、息をついた。
「まだ分からぬではないか。確かに主は罪人であるやもしれぬ。だが、公青は主に機会を与えたのだ。我は、主は立派にそれを利用して良いように己を掴んだと思うておるぞ。諦めるのは、まだ早い。」
安芸は、そのままじっと黙って頭を抱えていたが、そのうちに、顔を上げた。
「…気休めなど要らぬ。」そうして、立ち上がった。「そのように確実でないものをあてにするほど、我は愚かに楽観的ではないわ。もう良い、ならば公青に頼む。我が最後の裁きの審査を受ける時、公青に申し出ようぞ。主からも、口添えをしてやってくれ。さすれば、公青も無碍には出来ぬだろう。元は妹の夫であるのだからの。」
安芸は、そう言い放つと、くるりと踵を返した。箔翔は、その背に言った。
「公青も、受けぬぞ。あれには龍の正妃が居る。全てを懸けて大切にしておるのだと聞く。子も生まれたばかり。凜に、行く宮などない。」
安芸は、ちらと振り返った。
「ならば他を当たる。月は大変に慈悲深いと、我は此度のことで知った。月に話し掛けて、嫁ぎ先はないか探してもらおうぞ。訳を話せば、すぐにでも探してくれるだろう。」
そして、そのまま出て行った。
箔翔は、ため息をついた。確かに、自分も凜なら娶っても良い。だが凜の心が安芸にあるのを見たばかりで、そんなことは出来ない。そして自分の嫁ぎ先を探し回る愛しい男の姿を、凜が見て傷つかぬはずはない。
どうにかするべきなのだろうが、こんなことは全く自分の専門外だった箔翔は、まだ朝で月の出ていない空を見上げた。十六夜…しかし十六夜も、愛だの恋だのにはきっと面倒だと言うのだろうな。
《…そりゃあ気の毒だな。》意外にも、十六夜の声は心からの同情を伝えて来ていた。《安芸だって、最近じゃあ良くなったって、月から見て蒼と二人で話してたんでぇ。確かに夜は二人で仲良くオレを見上げてるなあとは思ってたんだが、まさかと思ってたからな。あいつら、仲良く話してるだけだったし。》
箔翔は、あまりに意外だったのでしばらく黙った。十六夜は、黙っている箔翔に、怪訝な声で言った。
《箔翔?で、オレに何をして欲しいんだ。》
箔翔は、我に返って答えた。
「いや、どうするべきかと聞きたかっただけぞ。我もこういうことには極端に疎くての。下手に動いて余計に悪化するようなことがあってはならぬと思うて。」
十六夜の声が、考え込むような感じに変わった。
《そうだなあ。あと数ヶ月で公青が切った一年だろう。軍神達は無事に浄化も更生も終わって公青の宮で物凄く大人しくしているようだ。君が悪いほど悟ってて、仏のようだと言ってるぐらいさ。軍神に戻れるのか不安なぐらいに、月の宮から帰った軍神達は穏やかに悟りすましてるらしいぞ。公青の判断を待ったらどうなんだ。そうすりゃ安芸だって、きっと西の地の宮の王に戻れるだろうし、凜を友好のしるしだの何だのこじつけて娶っちまえばいいじゃねぇか。》
箔翔は、空を睨んだ。
「要は待てということか。我は安芸に、そこまで愚かに楽観的になれぬと言われたばかりぞ。もしも安芸が危惧する方向に決まってしもうたらどうするのだ。」
十六夜は、肩をすくめたようだった。
《それはそれで仕方がねぇよ。他に誰か娶ってくれそうな所を探しゃいい。定佳とか、甲斐とか。そうすりゃ輝章は助かるし、凜だって万々歳だろうよ。》
箔翔は、少し腹を立てたように言った。
「そのような投げやりな。誰でも良いわけではあるまいが。」
十六夜の声は、急に真面目になった。
《凜にとっちゃあ、安芸でないなら誰でも同じなんだと思うがな。安芸が好きなんだろう。だが安芸に嫁げないなら、誰だっておんなじだ。そんなもんさ。》
十六夜に言われて、確かにそうだと箔翔は気付いた。我とて、誰も想っていなかったがために、女など誰でも同じだと思っていた。なので、結蘭がどれほどに美しく嗜み深いと言われても、他と同じに思えて興味も湧かなかった。きっと、女も同じなのだ。想う男でなければ、誰でも同じ。そして、恐らく誰に嫁いでも幸福ではあるまい。
「主に言われて、気付くとはの。」箔翔は、苦笑した。「侮っておったわ。主はこのような恋愛事などには通じておらぬと思うておったのに。」
十六夜は、ふふんと笑った。
《維月と何年愛し合ってると思ってるんだよ。維心と維月のことも見て来たし、蒼のことだって、他の神の恋愛だって見て来た。少なくてもお前よりはよく知ってるさ。とにかくは、しばらく様子をみな。オレも、気をつけておく。》
箔翔は、頷いた。
「分かった。あとしばらくのこと。見守っておろうぞ。」
そうして、十六夜の声は答えなくなった。しかし、まだ月に意識があるようだ。つまりは、恐らく別の誰かに意識を向けたのだろう。
箔翔は、後ふた月と迫ったその審判の時を、じっと待つことにしたのだった。




