教育
気が付くと、驚くほど大きな宮の上空に到着していた。
そこは、山の上に張り付くように立っており、人の手も加えられていない、荘厳な土地だった。この人が多い地域でありながらああして己の神域を守っていられることに、ここの神の力を感じた。
その宮へと龍の軍神達に連れられて降り立った翠明は、回りを見回した。たくさんの神が居るが、その気を読むことも今の自分には出来なかった。なので、ここに居る神がどんな神なのか、翠明には全く分からなかった。
すると、一人の初老の男が出て来て、翠明に頭を下げた。
「翠明様であられまするか。我はこの龍の宮重臣筆頭、兆加でございまする。王の命により、お迎えに上がりました。」
翠明は、思わず身を硬くした。龍の宮…ここは、龍の宮なのか。ならば、あの龍王が君臨する宮。公青は、我を龍王の元へと送ったのか。
何を思っても、翠明には頷くより他なかった。どんな扱いをされようとも、自分は臣下や民達のため、ここで耐え抜かねばならない。そうして、公青をうまく騙して改心しているかのように見せ、宮へと帰らねば。
そう思って兆加について歩く翠明であったが、しかし誰も翠明に無礼な振る舞いなどしなかった。通り過ぎる神達は、皆普通に神の王にするように、礼儀正しく頭を下げる。それに、ここの神達のしぐさは、大変に洗練されていて、驚くほどに美しかった。それが、全てここの教育が徹底されていることを意味するのだと悟って、翠明は愕然とした…この数の臣下が全て、同じように礼儀正しく洗練されているなど。
翠明がそう思いながら、長い宮の回廊を歩いて行くと、その先に大扉があり、それが左右に開くのを見た。真ん中に敷かれてある深い青色の毛氈の上を、なおも歩くと、正面に玉座が見え、そこにはあの時に見た、人型の龍王が、じっと座っていた。その隣りには、懐かしいような癒されるような気感じがする、これもまた美しい女が座って、こちらを見ていた。
兆加が、前へと進み出て、膝をついた。
「王。仰せの通り、翠明様をお連れ致しました。」
龍王は、頷いた。
「翠明。あの折見たきりよな。まさかこうなるとはの。主とはもう会わぬのだと思うておったわ。」と、隣りの女と視線を交わした。「今更であるが、我は龍王、維心。これは我が正妃、維月。維月は陰の月であるから、十六夜とは兄弟ぞ。今主の力を奪っておるのは陽の月。主は身の程を弁えておるであろうから、わざわざ言うことはないやもしれぬが、あえて申す。そんなわけで、これに手を出すでないぞ。」
翠明は、眉を寄せた。
「何も感じられぬのに。主の気すら、今の我には全く分からぬ。主の妃も、何やら懐かしいような、癒されるような感じを受けるのみよ。龍王の妃に手を出すほど、我は愚かではない。」
維心は、ニッと笑った。
「であろうの。主が気を奪われておって良かったことよ。我が妃の気には、誰にも抗えぬでな。気のない主にでも、この癒しの気を感じさせるほどであるから。釘を刺しておこうかと思うてな。」
すると、隣りから維月が咎めるように、しかし控えめに言った。
「維心様、翠明様はそのような心持ちでいらしたのではありませぬわ。こちらへ学びにいらしたのでしょう。そのようなご心配は要らぬのですわ。」
維心は、維月に微笑み掛けた。
「そうよな。こやつがその気でも、主にとってはありえぬであろうしの。」
翠明は、そんな様子に呆れていた。龍王とは、非情で知られる残虐な王ではなかったか。それが、妃にはこれほどに甘いのか。
維心は、翠明に向き直った。そして、言った。
「して、主のことであるが。」と、兆加を見た。「維明を呼べ。」
兆加は驚いたような顔をしたが、頭を下げて出て行った。維心は、続けた。
「我は忙しいし、主を育てておる暇もないのだ。だが公青がどうしてもと申すからの。我が宮に、調度主と歳の近い皇子が居るので、あれに任せようと思う。」
翠明は、目を丸くした。皇子?いくら歳が近くても、皇子が我を教育だと?
そんな屈辱はない、と翠明は思ったが、唇をかみ締めて何も言わなかった。維心は、何を思っているのかそのまま黙っている。すると、そこに維心にそっくりの神が、甲冑のまま入って来て、頭を下げた。
「父上。お呼びと伺いまして。」
維心は、頷いた。
「維明。主に話して置いたの、これが西の翠明ぞ。」
維明は、ちらと翠明を見た。翠明は、その目をじっと見返した。確かに歳は同じぐらいか。だが、気が感じ取れないので、この神の力が分からぬ。
維心が、そんな二人の様子にお構いなく言った。
「翠明、我の第一皇子、維明ぞ。主はこれから、これについておれ。それだけで良い。」
維明が、驚いたような顔をした。ついておれとは、つまりはこれを連れて歩くのか。
翠明は、戸惑ったように維心を見上げた。
「ついておるだけ?それで、何を学べと申す。」
維心は、特に気にする様子もなく言った。
「別に何も。それは主が考えよ。維明はいつもの生活をするだけよ。部屋は維明の対の近くに割り当てる。とにかくこれが、朝から晩まで何をしていても主はついて参って見ておれば良いのよ。」と、維明を見た。「主はこれをどこへでも連れて参れ。外出する時もの。逆らうようなことがあったら、斬っても良いから。分かったの。」
維明は、何を言うのかと思ったが、父の命なので仕方なく頭を下げた。
「は、仰せの通りに、父上。」
翠明は、どんな扱いにも耐えようと思っていたが、龍王のこの態度には我慢がならなかった。自分を、王とも思っていない。だから、皇子などに面倒を見させて、己は手を出さずに置こうとしているのだ。
しかし、本当なら死んでいて、宮を滅しられていてもおかしくない身。翠明は、歯を食いしばっていた。すると、維明が進み出て、翠明に言った。
「では、これへ。我は今訓練途中であったのだ。訓練場へ参るからの。」
そう言うと、翠明には見向きもせず、くるりと踵を返して歩き出した。翠明は慌ててそれに従いながら、1年の我慢だと自分に言い聞かせていた。
そんな二人が出て行った後、維心は立ち上がって言った。
「さあ維月、面倒は終わった。居間へ帰ろうぞ。」
維月は、維心の手を取りながら言った。
「維心様…前世将維に炎託を託した時のようになるとお思いですか?」
維心は、それを聞いて笑った。
「主にはバレるの。だが」と、ちらと二人が去った方を見た。「そうはならぬ。炎託は炎嘉の息子であるし、素質は充分あったのだ。だが、翠明は違う。あれはなあ、性根を叩きなおさねばならぬから、もっと骨が折れるわ。まあ1年あるし、希望はまだある。」
維月は、まあ!と怒ったような顔をした。
「維心様、あちらの宮の民達の命も懸かっておりまするのに!きちんと考えてくださらねば困りまするわ!」
維心は、維月をなだめるように言った。
「怒るでないぞ、維月。神の心など、そう簡単には変えられぬのだ。全ては、あれが民を思う気持ちの強さと、王としての自覚かの。己の欲を抑える術を学んだのなら、後は容易かろう。」
維月は、まだ釈然としなかったが、維心に任せるよりなかった。こんなことは、維月にはからっきしなのだ。
「…維心様を、信じておりまするわ。」
維心は、苦笑した。
「そう言うということは、信じておらぬということぞ。維月、王の我を敬っておるのなら、信じられるはずよな。」
維月は、ため息をついた。確かにそうだけれど、維心様は、ご興味がないことには本当に全く感知されないからなあ…。
「はい。翠明様のことにも、ご興味をお持ちくださいませね。」
維心は笑った。
「わかったわかった。主は我に仕事をせよとそればかりよな。あれもこれもと、これでも忙しいのにの。」
そうして、翠明は龍の宮で、維明について歩くようになったのだった。




