吾輩は猫である
「ありがとうございます。左の列でお並びになってお待ちください」
必要最低限の動きで仕事が出来る人間というのは、なんてカッコいいのだろう。
そういう人はいつだって余裕を持って行動できる。
そういう人はいつだって最効率を理解している。
そういう人に僕はいつも憧れる。
‥‥‥そう思っているうちは僕はまだまだなのだろう。
意識した動きでレジ前に並ぶ人達を捌いている自分の姿は、まるで理想に操られているマリオネットのようだ。
「‥‥すみません。ストローとマドラーをいただけますか?」
「は、はいっ!」
声がした方に顔を向けると、中学生くらいの女の子が列の横から割り込んで、こちらに話しかけていた。
こういったマニュアルに書かれていない出来事はよくある事だ。
接客業という都合上しょうがないのだが、僕から言わせてみればこの瞬間、この時間は、事件に巻き込まれたようなものだ。
まあ一言で言うなら‥‥‥「心臓に悪い」、これに尽きる。
「も、申し訳ありません、一本ずつでよろしいですか?」
「それとガムシロも一つ貰えますか?」
「はい、かしこまりました。ど、どうぞ」
———とはいえだ。
とはいえ、取り乱さず相手の顔を見て対応が出来るようになっただけ、非常に大きな進歩と言えるだろう。
もちろん例に漏れず、心臓の鼓動はいつもの三割増しで速く鳴っていて、それは自分の体がこの場に適応できていないせいだった。
———それでも
それでも、普通の人にとって決して難しいとは言えない作業でも‥‥‥出来なかった事が出来るようになるのは、やっぱりとても嬉しい。
それから同じようなことが何回かあって、店内には待機列がすっかり無くなっていた。
‥‥‥今日も無事、混雑する時間帯を乗り切ることが出来たらしい。
(つっっっかれたぁぁぁぁ)
思わずレジカウンターに突っ伏しそうになる身体をグイっと仰け反らせる。
この疲れ切った身体を回復させる術は、もはや睡眠をとる他ない。今夜もさぞ快眠だろう。
(よし‥‥‥)
肩を軽くほぐしながら、僕は厨房に貼ってあるチェックリストに目を向ける。
もう仕事が終わるとはいえ、トイレ掃除くらいならする時間あるかな‥‥‥と思ったその瞬間、ポンと僕の肩に手が置かれた。
「もうすぐ上がりだよね?」
ビックリして振り返ると、そこには営業スマイル全開の女性がニコニコとこちらに話しかけていた。
このハンバーガーショップの店長だ。
「‥‥‥はい」
なんとなく嫌な予感を感じながら返答すると、店長がゆっくりと店内清掃のチェック枠に指を指した。
「店内の掃除、やって貰えないかな?」
「‥‥‥‥‥はぁぁぁ」
飲食エリアに着くなり、思わず長めの溜息をついてしまった。
いや別に掃除に対して、不満があるという訳ではない。
むしろ一時的に接客から外されたことについて安堵しているまである。
もちろんこの事について、人に慣れたいと言ってバイト希望をした人間が、何を言っているんだと言われるかもしれないが‥‥‥仕方ないとしか言いようがない。
人前に立つという行為、もちろんこの店内清掃もそのうちに入る僕にとって、やはりまだまだ上手くいかないのだ。
‥‥‥じゃなくて僕が言いたいのは全く別の事だ。
所謂、店内状況‥‥‥というより社会情勢というべきだろうか。
部活帰りの学生、疲れた顔をしたサラリーマン、数時間前から席を占拠しているパリピな若者など、いつもこの時間にいるはずの人達が今日は目に見えて少ない。
もちろんその場で食べる人もいるが‥‥‥しかし事実として注文をしたお客のほとんどはテイクアウトだ。
「はぁ‥‥‥」
ゴシッゴシッゴシッ
『なぜか?』
もし原因を問われたのなら、異論を挿むことなく皆同じことを言うだろう。
だから今現在気が重いし、とてもソワソワするのだ。
『あの事件だ』
『あの事件のせいだ』
『あの事件があったからよ』
『‥‥‥あいつらのせいだ』
「‥‥‥‥‥‥‥っ」
ゴシッゴシッゴシッゴシッ
「平静」という言葉がある。
落ち着いていること、静かであることという意味を持つ二字熟語だ。
逆にその反対に位置する言葉は「動揺」だ。
このことから「平静」という二字熟語は、ある意味で人間らしいようで人間らしくないとも言えるだろう。
人は常に揺れている生き物だ。
感情を抑えたとしても、呼吸を止めたとしても
心頭滅却、あらゆる雑念を振り払ったとしても
人間である以上、揺れを止めることなんて出来るはずがないのだ。
人間である以上、出来るはずがないのだ。
「ほんと、物騒な話だよね」
「未来ちゃんの家とか来週だって、引っ越し」
「そっか‥‥‥」
「普通はそうだよ」
「‥‥‥‥‥‥‥」
ゴシッ
「あれでしょ?うちらのクラスとかにもあったんでしょ?」
「そうそう。屋上で発見された方とかさ」
「ごめん‥‥‥ちょっと、やめて‥‥‥」
「「あっ‥‥」」
「ご、ごめん由紀!」
「無神経だったよね!ホントにごめん‼」
「少し外の空気吸いに行く?‥‥‥というかそろそろ帰らなきゃだし」
「‥‥うん、大丈夫‥‥‥大丈夫だから‥‥‥」
「ごめんね、ほんとごめんね‥‥‥‥」
「‥‥‥‥‥‥‥」
であるのならば、このとき冷や汗をかいていた僕は、とても人間らしかったということだろうか。




