第13話 ただの鈴
春が、来た。
本灯の朝から、ひと月。八洲は、沈まなかった。潮は、引いた。けれど、すっかり、もとには、戻らなかった。三百年、犠牲で保ってきた結界の、傷んだ縁は、唄で塞いでも、すぐには、癒えない。沿岸の村は、まだ、用心しながら、暮らしていた。
それでも、八洲は、歌っていた。
要石の、いない世界で。皆が、少しずつ、結び目を、握って。重みが、皆に、分かれて。誰も、潰れずに。三百年で、初めての、春だった。
唄は、州から州へ、広がっていった。
護りの唄を、覚える者が増えた。呼び講の輪が、覚えの講の輪が、八洲じゅうに、灯った。北の唄持ちの里の、滅びかけた唄が、いま八洲ぜんぶの、口に、移っていた。紬が、命と引き換えに、流しきった唄が。母が、運べずに死んだ唄が。
はじめのうち、唄はなかなか広がらなかった。三百年も犠牲で守られてきた人々にとって、自分たちが歌うことで世界が保たれるという話は、にわかには信じがたかった。けれど一度、要石の降りた州の灯が、皆の声だけで消えずに灯りつづけるのを目の当たりにすると、人は変わった。歌えば、保てる。その小さな事実が、州から州へ、潮の引いたあとの土を伝うように、ゆっくりと広がっていった。
その唄を、いちばん、よく教えたのは、小夜だった。
◆
「行ってくる」小夜は、旅支度を、して、言った。
本灯から、灰郷へ、いちど、帰って。それから、また発つところだった。北へ。西へ。唄の、まだ薄い州へ。歌う口を、増やしに。
「鈴姉は、帰るんだね」小夜は、言った。「灰郷に。罠を、見回る、暮らしに」
「うん」鈴は、言った。
「あたしは、唄を、運ぶ。鈴姉は、家に、帰る」小夜は、笑った。すこし、寂しそうに。それでいて、まっすぐに。「道が、分かれるね。とうとう」
鈴は、妹を、見た。
灰郷で、熱に臥せっていた子。鈴が、十六年、守ってきた子。その子が、いま八洲を、唄で繋ぐ者に、なっていた。鈴が、過去を、終わらせる者なら。小夜は、未来を、始める者だった。鈴が、三百年の、すり替えを、解いた。小夜が、これから、唄を、世代を超えて、継いでいく。
「行ってこい」鈴は、言った。「あんたの唄が、いちばん、息をするから。……でも、たまには、帰っておいで。汁、作って、待ってる」
「芋の?」
「芋の」
小夜は頷いた。それから、姉に、一度だけ、強く、抱きついて。北へ、発った。唄を、背負って。母が、なろうとして、なれなかったものに、妹は、なっていた。唄を、運ぶ者に。
鈴は、その背を、見送った。今度は、呼び止めなかった。待つことも、しなかった。妹は、もう自分の足で、歩いていた。鈴の、待った、ずっと先を。
◆
灰郷は、春の、枯れ野の底に、戻っていた。
天理院の触れは、もう来なかった。賞金稼ぎも。白き読み手は、もういなかった。結界殺しの僭称者も。鈴を、その名で呼ぶ者が、いなくなった。役目の名が、宿る体を、失って、消えたから。鈴は、ただの、灰郷の鈴に、戻っていた。
板壁の家は、半年、空けたあいだに、傷んでいた。
鈴は、屋根を、葺き直した。竈の灰を、掻き出した。罠の銅線を、点検した。狩りの袋を、肩に、掛けた。空だった袋に、また兎を、入れる日々が、戻ってきた。
枯れ野に、罠を、張った。
土の色に、なって。息を、浅く。見られないように。十六年、染みた、狩りの仕方で。今度は、効いた。誰も、鈴を、拝まなかった。誰も、様を、つけて呼ばなかった。兎が、罠に、かかった。久しぶりに、袋が、重かった。
ただの、狩人の、重さだった。
兎の重みが、肩に食い込んだ。鈴は、その重みを、なつかしく思った。名灯し様と呼ばれ、白き読み手と呼ばれていたあいだ、この袋はいつも空だった。神様の気配を、兎が覚えて、近寄らなかったからだ。いまは、ただの鈴に戻った。土の色になって、息を殺せば、兎はちゃんと罠にかかる。世界を救う手では、もう、なかった。罠を張って、兎を獲る手だった。それで、よかった。世界を救う手より、兎を獲る手のほうが、鈴には、ずっとしっくりきた。
枯れ野は、半年前より、すこし生き返っていた。傷痕から滲んでいた毒の虹のにじみが、ほんのわずかだけ、罠場から退いていた。結界が皆の唄で保たれるようになって、世界の側が取り立てに来る勢いも、いくらか和らいだのだろう。それでも癒えるには長い時間がかかる。その長い時間を継いでいくのは、鈴ではなく、唄を運ぶ妹と、これから歌いつづける八洲の人々の仕事だった。
帰り道、茨の根に、古い輪が、ひとつあった。
燼の、罠の輪。新しい銅線で、結び直された、まま。鈴は、それを、見た。見て、手を、伸ばさなかった。これは、燼の、輪だ。結ぶ資格のある者が、結びに、帰る。鈴の仕事では、ない。
けれど、その輪は、待っていた。結ぶ者を。獲物を、分け合う仲に、帰る者を。
◆
縹は、家に、いた。
囲炉裏の前で、薪を、測って。長さを、指で、確かめて。読めない目は、戻らなかった。本灯で、裂け目の半分は、戻っても。あの夜、亀裂に注いだ、読む力だけは、二度と、帰ってこなかった。
それで、よかった。
「獲れたか」鈴が、戸を引くと、縹が、言った。
「獲れた」鈴は、袋を、土間に、下ろした。重い音が、した。「兎。二匹」
「足音で、分かった」縹は、薄く、笑った。「獲物のある日は、土間で、袋を、下ろす音が、する」
鈴は、その隣に、座った。縹の手は、もう冷たく、なかった。丸ごと、こちら側に、戻った体は、あたたかかった。一年、半分を、裂け目に、置いていた男が、初めてまるごと、ここに、いた。
「ねえ」鈴は、言った。「あたしのこと、いまも、見える?」
「見える」縹は、すぐに、答えた。「ずっと、見えてる。ただの鈴が。罠を見回って、兎を獲って、妹の旅立ちを、見送った、灰郷の、鈴が」
世界じゅうが、もう鈴を、ただの鈴として、見ていた。白き読み手が消えたから。けれど、縹は、それより、ずっと前から、鈴を、ただの鈴として、見ていた。読まない目で。称号を、読まない目で。世界が、やっと縹に、追いついた。
鈴は、こめかみの、二すじの白に、指で、触れた。
消えない、白。言霊を、注ぎ尽くした、印。世界を、皆に、返した、印。けれど、進まない、白。鈴は、それを、もう隠さなかった。鏡も、水鏡も、こわく、なかった。白は、灰に、なりかけた印では、なく。灰に、ならなかった、印だった。
縹の指が、その白に、そっと触れた。一年、冷たかった手が、いまはあたたかい。本灯で半分が戻ってから、この人の体は、丸ごとこちら側にある。鈴は、その温もりを、こめかみに感じた。読まない目の人が、読めない手で、鈴の白を確かめている。世界じゅうが鈴を称号で読もうとしたあいだ、この人だけが、ただの鈴を見ていた。いま、世界がようやく追いついて、皆が鈴をただの鈴と呼ぶようになった。それでも、縹の見方は、何ひとつ変わらなかった。最初から、ただの鈴だけを、見ていたのだから。
◆
その晩、芋の汁が、煮えた。
約束の、汁だった。鍋の前に、鈴と、縹と。そこへ、琥珀が、来た。座を降りた少女は、自分の名を、探す旅の途中で、灰郷に、寄った。
「名前、見つかった?」鈴は、訊いた。
「半分」琥珀は、言った。「座る前の、霧が、すこし、晴れた。……灯里、っていう名前だった気が、する。まだ、確かじゃ、ない。でも、琥珀じゃ、ない。累の付けた、背表紙の題じゃ、ない、自分の名前。……探すのが、楽しいの。三百年、座ってた者が、自分の名前を、探して、歩いてる。いい話でしょう」
「いい話」鈴は、頷いた。
鍋を、囲んで。四人に、なった。鈴と、縹と、琥珀と——戸口に、もうひとり、立っていた。
凪だった。北の、漁師の子。汀姉と、覚えの講を、続けながら、灰郷まで、唄を、習いに来た。「五人?」と凪が訊いた。「いや」と鈴は言った。「もうひとつ、椀を、置く」
紬の、椀だった。
逝った者の、椀。覚えの講の、節で。鈴は、いただきますを、言う前に、紬、と呼んだ。糸を紡ぐ、紬。最後の唄い手の、紬。逝った者の名を、覚える者が、いれば、その名は、消えない。
「いただきます」
五人と、ひとりの椀で、芋の汁を、食べた。
椀の湯気が、板壁の家に、立ちのぼった。半年前、鈴がこの汁を約束したとき、鍋を囲むはずだったのは四人だった。いまは五人と、逝った者の椀がひとつ。数は、増えたり、欠けたりした。紬は逝き、燼はまだ帰らず、琥珀という新しい顔が加わった。それでも、鍋を囲むということだけは、変わらなかった。誰かが欠ければ椀を置き、誰かが来れば椀を足す。覚えの講も、呼び講も、もとはこの鍋と同じものだった。名を覚え合い、椀を分け合う。世界を保つ唄も、突き詰めれば、この湯気の立つ鍋の、大きくなったものにすぎなかった。
◆
燼は、まだ、帰ってこなかった。
殿の傷は、癒えた、と人づてに、聞いた。けれど、燼は、灰郷には、来なかった。東の焼け跡で、覚えの講を、続けている、という。自分が沈めた、二つの州の、死者の名を。ひとりまた、ひとり口に、抱えながら。罪を、逃げずに、覚えながら。
「いつか、来るよ」縹が、言った。「あいつが、自分を、燼と、名のれるように、なったら。死者の名を、ぜんぶ、覚えて。逃げない者に、なって。……そしたら、罠の輪を、結び直しに、帰ってくる。獲物を、分け合う仲に。汁の鍋に、椀を、ひとつ、増やしに」
「四人が、五人に」鈴は、言った。
「五人に」縹は、頷いた。「いつか」
鈴は、枯れ野の、結び直された罠の輪を思った。待っている輪。燼が、自分を、名のれる日まで。火を配る男が、火を配り終えて、帰る日まで。
その日は、来る。鈴は、信じていた。逃げない者だけが、名のれる。燼は、逃げるのを、やめた。だから、いつか、名のれる。燼、と。名のって、帰ってくる。
◆
夜、鈴は、ひとりで、枯れ野に、出た。
春の星が、出ていた。八洲のあちこちに、めいめいの色の灯が、低く、歌っていた。要石の、いない灯。皆で、保つ灯。喰う火でも、一人が握る火でも、ない、火。
灯都の、聖山の方角に、本灯の灯が見えた。
空席の、白い座は、空のまま、だった。誰も、座っていない。座る者も、いない。役目の名が、宿る体を、失って、消えた。白き読み手という名は、もう八洲の、どこにも、いなかった。
システムは、読んだ。鈴は、思った。色で、人を、読んで、振り分けて、薪にした。
愛は、名づけた。鈴は、奪われた名を、返した。捧げられた名を、結んだ。
世界は——皆で、歌うように、なった。
一人が、読む世界から。一人が、名づける世界から。皆で、歌う世界へ。三百年の、すり替えが、解けて。唄が、帰ってきた。母が、運ぼうとした唄が。紬が、流しきった唄が。八洲ぜんぶの、口に。
三巻の年月が、星空の下で、ひとつに繋がった気がした。灯都で大灯を変えた夏。地の底で名のりを覚えた冬。北の霧で唄を継いだ秋。鈴は、そのどれもを、自分の足で歩いてきた。引かれてではなく。読む力が世界を仕分け、名づける力が奪われた名を返し、そして唄が、その両方を超えて、世界を皆の手に渡した。読むのでも、名づけるのでもなく、ただ皆で歌う。三百年隠されてきた、いちばん古くて、いちばん新しいやり方で。鈴は、その変わりめに、自分が立ち会えたことを、星に向かって、静かに数えた。
鈴は、空になった右手を、星空に、かざした。
何も、握っていない、手。言霊の、消えた手。名づけられない手。けれど、その手で、罠を張れた。兎を獲れた。妹を、見送れた。縹の手を、握れた。汁の椀を、運べた。
ただの鈴の、手で、できることが、こんなに、たくさん、あった。
「……あたしは」鈴は、星に、向かって、言った。誰にともなく。確かめるためでも、なく。ただ、言いたいから、言った。「ただ、家に、帰りたいだけ」
鈴は、家に、帰った。
縹の、いる家に。芋の汁の、匂いの残る家に。妹が、たまに、帰ってくる家に。燼が、いつか、椀を、増やしに来る家に。逝った者の、椀も、置く家に。
帰る家が、あった。
枯れ野の底の、灰郷の、板壁の家に、灯りが、ひとつともっていた。喰う火でも、神様の火でも、ない。ただの、囲炉裏の、火だった。
その火を、目印に、ただの鈴が、家へ、帰っていった。




